ただし、以上に加えもう一点、最後に注目すべきことを述べておきます。鑑真一行の渡来で最も重大な功績は、日本に具足戒をもたらしたことであり、次に天台三大部をもたらしてその思想を日本に広める契機となったことですが、これに併せて『梵網経』所説の梵網戒を日本で帝に信受させたことを忘れてはなりません。
『梵網経』と『盂蘭盆経』は、一見まったく関係がないかのように思われるかも知れませんが、ある一点において大いに関わりのあるものです。
鑑真渡来以前、すでに梵網戒は日本で行われており、たとえば行基がこれを世に広めて行わせていたことが知られます。しかし、行基のそれは信者の指を焼かせて仏菩薩への供養とさせたり、自らの皮を剥がせてそこに血で経文を書かせたりするなど、いわばカルト宗教的・狂信的行為としてであり、これを朝廷は「僧尼令」において明文化して禁じ、またそれでも一向に止めようとしない彼らを問題して取り締まるべき触れを出していました。聖武天皇に僧綱として取り立てられる以前、行基はいわばカルト教祖的な人であったのです。
しかし鑑真は違った。行基の如き怪しげな人ではなく、江淮において音に聞こえた当代の学僧が、鑑真という人でした。鑑真らは具足戒だけでなく大乗の三聚浄戒(瑜伽戒)および梵網戒をも日本に伝え、特に『梵網経』についてはその弟子法進が『註梵網経 (梵網経疏)』〈わずかな逸文のみあって現存せず〉を著しています。おそらく当時の支那、あるいは鑑真の周辺では『梵網経』が盛んに信仰され、その所説の戒、梵網戒が行われていたのでしょう。これは鑑真らが天台の学者でもあったということに関係したと思われます。
そんな鑑真や法進に感化されてのことであったに違いないことですが、聖武天皇は『梵網経』をよく信受していたことは、様々な史書において認めることが出来ます。その初めは鑑真が入京して程ないその年の七月、皇太夫人の藤原宮子が薨去した翌年以降、それまで無かった新たな法会、「梵網会」が創始されています。
太皇太宮藤原宮子。 聖武天皇之母也神龜元年二月。天皇即位。爲大夫人三月為皇大夫人。贈正一位太政大臣不比等之女也。勝寶六年七月十九日壬子崩平城宮。佐保山西陵。兆域東西十二町。南北十二町。守戸五烟。國忌於戒壇院修之。梵網會是也。
太皇太宮藤原宮子
聖武天皇の母である。神亀元年〈724〉二月、聖武天皇が即位したことによって大夫人となり、三月には皇太夫人となる。贈正一位太政大臣、藤原不比等の娘〈長女〉である。天平勝宝六年〈754〉七月十九日壬子、平城宮にて崩御し、佐保山西陵に葬られる。その兆域〈墓所〉は東西十二町・南北十二町〈1.69㎢〉。守戸〈墓守〉として五烟〈五家〉が置かれた。その国忌は東大寺戒壇院において行われたが、それが梵網会である。
『東大寺要録』巻一 本願章第一
(筒井英俊校訂『東大寺要録』, p.16)
それまでの太上天皇が崩御した時など、七大寺などに『華厳経』や『涅槃経』等の経典を七日毎などに誦経させ、その死を悼み後生を祈ることはされていました。しかし、それは決して『梵網経』ではありません。
聖武帝は、そもそも『華厳経』をこそ最も重要な、国家を治め民を安んずるための根幹の経典とし、さらに大乗小乗すべての経律論等を転読・講説すべきことの詔を出していました。天平勝宝元年〈749〉五月のことです(『続日本記』巻第十七)。そして国家経営の思想基盤として『華厳経』がその根幹に据えられ、また護国の経典として『仁王般若経』・『金光明経』、あるいは『大般若経』や『大集経』、『法華経』などが頻繁に転読されていました。
しかし、母御の藤原宮子が薨去するまさにその年の初め、国家としても待望のことであった、鑑真によって正統な律がようやく伝来しています。そして、まず上皇など皇家が鑑真から菩薩戒を受戒。さらに沙弥らが受戒しています。
戒壇院が完成するのは翌七年〈755〉九月のことであり、その年の太皇太皇后の忌日である七月には間に合っていませんが、何故に聖武上皇の母君の国忌として、俄然として殊更に『梵網経』を講讃する法会たる梵網会が行われたのか。それは『梵網経』に以下のように、しかも戒の学処として説かれていることによります。
若父母兄弟死亡之日。應請法師講菩薩戒經福資亡者。得見諸佛生人天上。若不爾者犯輕垢罪。
もし父・母・兄弟が死亡した日には、法師に請願して菩薩戒経〈『梵網経』〉を講説してもらい、その福徳によって亡者を助けて諸仏に見えしめ、ついに人または神の世界に転生させようとしなければならない。もし、これを行わなければ軽垢罪〈突吉羅〉となる。
《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
(T24, p.1006b)
これは梵網戒の十重四十八軽戒のうち、その第廿条「不能救生戒」の一節です。ここでは、一周忌などの命日ではなく、父母など家族が死んだまさにその日、法師に『梵網経』の講説を依頼して聞き、それをもって死者の(「ジョーブツ」などでは決して無い)より良い後生の助けとすべきことが説かれています。死者の追福のため、法師に経の講説をしてもらうことが義務として、「戒として」説かれているのです。
もっとも、この戒の主要部分は、法蔵による「不能救生戒」という戒の呼称にも表れているでしょうが、「生きとし生けるものすべては、無始輪廻の中で父母であったものであるから、もし捕われるなど苦しみの渦中にある動物にあったならば、これを救って放生 しなければならない」ということにあります。今の日本にも、それほど多くは無いようですが放生の習慣が残っていたり、放生池という名の池があったりするのは、この仏教の放生という行、『梵網経』に説くところに由来するものです。
「過去世において屹度、父あるいは母であったに違いない、囚われの苦しみにある鳥獣を助けて放て」というのがこの戒の主旨であって、決して「死者の追福のために『梵網経』を読誦・講説し、その追福とせよ」ということを主としたものではありません。いずれにせよ、「した方が良い」と推奨しているのではなく「しなければならない」と義務として説き、「しなければ罪である」と説いている点、注意しなければなりません。
あるいはまた、四十八軽戒には以下のような戒も存しています。
若疾病國難賊難。父母兄弟和上阿闍梨亡滅之日。及三七日乃至七七日。亦應讀誦講説大乘經律。《中略》 而新學菩薩若不爾者。犯輕垢罪。
「もし疾病・国難・賊難に遭い、あるいは父・母・兄弟・和上〈師僧〉・阿闍梨〈教授〉が死亡した日、および死後三七日〈二十一日〉乃至七七日〈四十九日〉においても、またまさに大乗経律〈『梵網経』〉を読誦し、講説しなければならない。《中略》 しかるに新学の菩薩で、もしこれを行わなければ軽垢罪〈突吉羅〉となる。」
《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
(T24. P1008b)
これは第三十九条の「応講不講戒」が説かれている経文の一節です。この戒の主旨は「僧坊や仏塔を処々に建て、生きとし生けるものために大乗の教えや戒を講説して教化しなければならないこと」です。しかし、その副次的なものとして、人あるいは国家が諸々の困難・災厄に遭遇したときにはその除災を期して『梵網経』を読誦し講説し、もしくは家族や自身の師僧または教授が死去したならば、やはりその追福の為にいわゆる四十九日の間、『梵網経』を読誦し講説しなければならないとあるものです。
家族や師僧、先生などが死去した時、その鴻恩に報いようと、「生きているものが生きているもののためになす大乗戒の読誦・講説・持戒による功徳」によって、その後生の安楽の助けとすること。それは、まさしく「孝」を実践する方法の一つであって、それがまさに戒(の一部)となっているわけです。
このような『梵網経』を信受していたのは聖武天皇ばかりではありません。その娘であり禅譲によりその跡を受けた高野天皇(孝謙天皇)も全く同様です。
高野天皇は聖武上皇が天平勝法八年〈756〉五月二日に崩御した年末、その追善のためにやはり『梵網経』の講経を南都六大寺にて行わせ、さらに諸国にても同じくするよう求めた勅を出しています。
○己酉。 𠡠遣皇太子。及右大弁從四位下巨勢朝臣堺麻呂於東大寺。右大臣從二位藤原朝臣豊成。出雲國守從四位下山背王於大安寺。大納言從二位藤原朝臣仲麻呂。中衛少將正五位上佐伯宿祢毛人於外嶋坊。中納言從三位紀朝臣麻路。少納言從五位上石川朝臣名人於藥師寺。大宰帥從三位石川朝臣年足。彈正尹從四位上池田王於元興寺。讃岐守正四位下安宿王。左大弁正四位下大伴宿祢古麻呂於山階寺。講梵網経。講師六十二人。其詞曰。皇帝敬白。朕自遭閔凶。情深荼毒。宮車漸遠。號慕無追。万痛纏心。千哀貫骨。恒思報徳。日夜無停。聞道。有菩薩戒。本梵網經。功徳巍々。能資逝者。仍寫六十二部。将説六十二國。始自四月十五日。令終于五月二日。是以。差使敬遣請屈。願衆大徳。勿辞攝受。欲使以此妙福无上威力。翼冥路之鸞輿。向華藏之寶刹臨紙哀塞。書不多云。
○( 天平勝宝八年〈756〉十二月)己酉〈三十日〉、勅して皇太子および右大弁従四位下巨勢朝臣堺麻呂を東大寺に、右大臣従二位藤原朝臣豊成と出雲国守従四位下山背王を大安寺に、大納言従二位藤原朝臣仲麻呂と中衛少将正五位上佐伯宿祢毛人を外嶋坊〈法華寺外嶋院〉に、中納言従三位紀朝臣麻路と少納言従五位上石川朝臣名人を薬師寺に、大宰帥従三位石川朝臣年足と弾正尹従四位上池田王を元興寺に、讃岐守正四位下安宿王と左大弁正四位下大伴宿祢古麻呂を山階寺〈興福寺〉に遣わし、『梵網経』を講じさせた。その講師は六十二人。
その詞には、「皇帝敬って白す。朕、閔凶〈親の死〉に遭い、その心痛は荼毒よりも深い。(父の命を載せた)宮車は次第に遠のいて、(亡父を)慕って叫べどもこれを追うことは出来ず、耐え難き痛みが心を覆って、尽きぬ哀しみが骨を貫く。ここに(亡父の)徳に報いようとの思いが常にあって、日夜に止めることは出来ない。聞くところによると、菩薩戒は『梵網経』を本とするものであり、その功徳は高大であって、よく死者に資するものであるという。そこで(『梵網経』を)六十二部写経して、まさに六十二国において講説させようと思う。四月十五日より初めて(父の一周忌にあたる)五月二日までの間である。このようなことから使いをやって、(諸国の諸大徳を)敬って屈請〈僧のお出ましを願うこと〉したい。願わくは諸大徳らよ、我が願いを固辞されること無きように。この(『梵網経』の)妙福にして無上の功徳力をもって、(故聖武上皇の)冥路の鸞輿〈天皇の乗る輿〉を助け、華蔵の寶刹に向かわせたいと切に望むのである。今、紙面に対して我が悲哀を書き連ねようとしているが、それを十分に書き表すことなど出来はしない」とあった。
『続日本紀』巻十九 天平勝宝八年十二月己酉条
(新訂増補『國史大系』普及版, 『続日本紀』前編, p.227)
ここに伝えられる高野天皇の亡父への想いが綴られたその詞、それはその如何ともしがたい寂しさ、痛々しいまでの憂愁をひしひしと読む者に伝えるものです。
高野天皇は、四月十五日から始めて聖武上皇の一周忌にあたる五月二日に講経が終わるよう意図していたのですが、一つ問題が生じました。四月十五日は安居を始める日、結夏の前日で、翌日から安居が開始されて僧の移動が制限されて困難となります。これにすぐ朝臣(あるいは国家における仏教の諮問機関である僧綱)が気づき、これをいかがすべきか上申したのでしょう。すると高野天皇は新年早々、あらためて勅を出すのですが、それはなんとその年の安居に入る日を、『梵網経』の講説を終えてからにせよとするものでした。
○甲寅。𠡠。始自来四月十五日。至于五月二日。毎國令講梵網經。其今年安居者。宜以五月三日爲始。
○(天平宝字元年〈757〉正月)甲寅〈五日〉。勅して「来たる四月十五日から初めて五月二日に至るまで、国毎に『梵網経』を講じさせよ。その今年の安居は、宜く五月三日を以って始めとせよ」と仰せられた。
『続日本紀』巻廿 天平宝字元年春正月甲寅条
(新訂増補『國史大系』普及版, 『続日本紀』前編, p.229)
安居の開始日を何らかの事情によって一ヶ月遅らせた五月十六日とすることは可能であって律に許されており、それを後安居と称します。しかしながら、そのような日程は月を基準にした暦を前提としたものであって、恣意的に数日間ずらせることなど仏教として出来ません。
もし安居の開始日がずらされたとなると大きな問題が起こります。まず安居入りの日が四月十六日でなくなり、また安居明けの自恣は当然、七月十五日でなくなります。これでは七月十五日を強調する『盂蘭盆経』に基づく盂蘭盆会が成立しなくなってしまいます。いや、自恣自体は、後安居が許されていることからも、七月十五日であろうが八月十五日であろうがどちらでも変わりなく良いのですが、『盂蘭盆会』の所説としては都合が悪いことになります。
またもし、安居の入りは遅らせたけれども安居明けの日を七月十五日とするならば、三ヶ月の日数が足りずその年の安居は不成立となってしまいます。そのような無理を当時の僧綱が許したかどうか甚だ怪しく感じられるものですが、高野天皇はこの時、ずいぶんな無茶を言ったように思われます。
(実際にこの年、安居の開始時期がずらされたかは未確認。)
それは安居というものに対する高野天皇における理解の程度を示したものであり、また同時にそれまで「現世の父母」および「七世の父母」の報恩および離苦のために為した盂蘭盆会の役割が、『梵網経』を講説する梵網会に取って代わられた、いや、分担された時でもあります。
したがって、『梵網経』と『盂蘭盆経』とは、親族への追善、離苦を期した法会の元となっている点において、大いに関わりあるものです。
そして、その点に関する両者の違いは、前者は父母兄弟など血縁者に限らず師を含めた現世にて縁あり恩を蒙った先亡を対象に、その死から七七日という直近および毎年の命日に、講経・転読せよというものであるのに対し、後者は現世の六親、及び七世の父母と(一応)肉親に限り、またそれを行い得る日が七月十五日に限られたものであるということにあります。どちらも先亡の追善を勧めたものでありますが、前者は比較的頻繁に行い得るものであり、後者は限定的です。
そのような追善を勧める点にのみ惹かれたというのでは決してなく、『梵網経』全体としてのことであったのでしょうけれども、聖武天皇および高野天皇がこれに注目して信受したことにより、日本における亡者の離苦得楽を期する「国家の法会」としてその二つが執り行われるようになっていたことは注意すべき点です。
およそ日本の伝統文化や古来の風習の大部分は、朝廷や公家(安土桃山以降は大名)が行っていたものが、公家・武家・町家と次第に下っていき、種々様々に変質したものです。そのような点からしても、日本文化において天皇家およびこれを支える(今公式には廃止されていますが)公家はその中心、核となる欠くべからざるもので、今なおそのような側面が強く存しています。
実際、盂蘭盆会はやがて仏教を離れ、国家の手からも離れ、支那の道教における中元の思想と習合し、民間にて一種の淫祠邪教「お盆」となり、梵網会はその後、儒教の祖霊信仰、支那の服喪の習慣と習合し、もはや『梵網経』も離れてそれぞれ宗派の行儀で祖霊崇拝を行う民間における「法事」となっていきます。そのいずれも仏教を淵源としたものではありますが、しかし皮肉なことに、もはや仏教本来とは何の関係もないただの因習・習俗に過ぎないものです。
なお、今一般に盂蘭盆会としばしば同一視される、やがて平安期となって空海が密教の一端として日本に伝えた施餓鬼法について知ることは、その両者の違いを知るうえで重要です。現代、施餓鬼はそこらの寺で檀家や信者などを集め、チンチンドンドン、ジャリジャリゴンゴン景気よくやる一大興行となって、やはり祖霊崇拝の商売として行われています。しかし、施餓鬼もまた『盂蘭盆経』と同様にその典拠があり、その内容を確かに解したならば、そういうものでは全然ないことを知るでしょう。
施餓鬼とは、極めて密やかに、静かにやるべきものとされます。人を集めてワイワイガチャガチャやるものではありません。そしてそれを祖先崇拝と結びつけるのもおかしな話です。祖先だの近親だのいうのであれば、一切衆生で我が父母であり近親であり友であり、また怨敵で無かったものなどありはしません。
前項においても述べたように、盂蘭盆会と施餓鬼とはまったく異なる思想・根拠に基づいたものです。しかし、それが中世、室町期頃から同時期に併せて行われるようになります。やがて、といっても近世江戸期頃にまで下ることになりますが、盂蘭盆会と習合し、結局いずれも儒教・道教の祖霊崇拝となって共に行われ、今に至ります。
本来、施餓鬼は自らの親疎問わず、餓鬼という存在、飢え乾きに苦しむ者に対する慈悲の想いの表出であって、常日頃為すべきとされる善業です。それを理解し承知し、本来的な施餓鬼を毎日欠かさずしている人もあるにはあるでしょう。しかしながら同時に、餓鬼にはそうして置きながら、自らの周りにある鳥獣虫魚など諸々の「目に見える」畜生に対してはまるで無関心、むしろ積極的に排除、あるいは釣りなど楽しみをもって殺生し喜んでいるようではまさに本末顛倒の極み。施餓鬼を是として熱心になす者は、この点、よくよく自ら考えねばならないことであるでしょう。
貧道覺應 記