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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏説盂蘭盆経』 ―自恣の僧供とその功徳

史書にみる盂蘭盆会の嚆矢

日本における盂蘭盆会の初め

日本の正史〈『日本書紀』〉において仏教が伝わったとされる年、それは欽明きんめい天皇十三年〈551〉十月です。しかし、その他の史料、たとえば『扶桑略記ふそうりゃっき』巻三には、それより三十年前の継体けいたい天皇十六年春二月に南梁なんりょうから入朝した漢人、司馬達止しばたっと高市郡たけちごおり坂田原さかたわらに構えた居に仏像を祀っていたとする記録〈『日吉山薬恒法師法華駿記』・『延曆寺僧禅岑記』〉を伝えています。このことから、仏教公伝以前からすでに渡来人が日本で仏教を奉じ祀っていたことが知られます。

いずれにせよ、日本が国家として仏教を知り、その祭祀に関わり初めたのは六世紀中頃からのことです。その後、欽明天皇が崩御して敏達びだつ天皇の代となっても、百済くだらの国王は日本に仏像や経論ばかりでなく僧尼や呪禁師じゅごんし造仏工ぞうぶつく造寺工ぞうじくを献上〈敏達天皇六年十一月〉し、また新羅しらぎは日本に仏像を朝貢ちょうこう〈敏達天皇八年十月〉しています。

そして敏達天皇十三年〈584〉秋、再び百済から仏像〈弥勒石像と仏像〉二体がもたらされ、これを蘇我馬子そがのうまこが請い受け祀ったとされます。馬子うまこはただ仏像を祀ったばかりでなく、その出家者をも日本で生み出そうとし、そこで司馬達等しばたちとの娘〈善信尼〉他二人を尼としています。その内実は出家者とは到底言い難い、形ばかりとすら言い難いものであったのですが、それが日本における出家のはしりとして今に伝えられます。

なお、敏達天皇は仏教を信じておらずその導入に消極的で、儒教をこそ奉じていたみかどです。仏教に帰依した帝の初めは用明ようめい天皇、厩戸皇子うまやどのおうじの父です。

その後、これは朝廷内の勢力争いの名分に利用されたのでしょうけれども、敏達天皇崩御の後、蘇我そが氏と物部もののべ氏との間で仏教受容を巡って激しく争い、やがて内乱にまで発展。ついに物部氏は滅ぼされ、蘇我氏がその実権を握ることとなっています。さらに推古天皇代となり、仏教を真に信仰した厩戸皇子、いわゆる聖徳太子しょうとくたいし摂政せっしょうとなったことにより、仏教を国家として信奉する流れが確たるものとなったのでした。

そんな中、推古すいこ天皇十四年〈606〉、日本において自恣の日、すなわち七月十五日における斎会さいえが初めて設けられ、以降それが通例として行われるようになったことが知られます。

十四年夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壞戸得入堂。即日設齋。於是。會集人衆不可勝數。自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齋。
推古すいこ天皇)十四年〈606〉夏四月乙酉いつゆうの朔、壬辰じんしん〈八日〉、銅としゅう〈刺繍〉丈六じょうろくの仏の像をいずれも造りおわった。この日、丈六の銅の像を元興寺がんごうじ金堂こんどうに安置した。その時、仏の像が金堂こんどうの戸より高かったため、堂に納れることが出来なかった。そこで、諸々の工人くにん等は相談して「堂の戸を壊して納れよう」ということになった。ところが、鞍作鳥くらつくりのとりという秀れたたくみによって戸を壊さず堂に入れることが出来た。その日、さい〈斎会.僧に食を供養すること〉を設けた。この会に集まった人の衆は数え切れないほどであった。この年を初めとして、寺毎てらごとに四月八日と七月十五日には斎を設けることとなった。

『日本書紀』巻廿二 推古天皇十四年四月壬辰条
(新訂増補『國史大系』, vol.1b, pp.146-147)

斎会が行われたといっても、この時はまだこれを「盂蘭盆会うらぼんえ」として行っていたのではありません。それはおそらく、当時随から日本に渡来していた支那僧や遣隋使として随に渡っていた日本人により、あるいは朝鮮半島から日本に贈られ渡来していた僧から、仏陀の誕生日として四月八日が特別であり、また仏僧における七月十五日の斎会さいえが特別なものであると知らされ、行うに至ったものであったでしょう。

実際、厩戸皇子には、皇子に側仕えてよく仏教を伝えたという高句麗こうくり僧の慧慈えじおよび百済くだら僧の慧聡えそうがありました。渡来僧は一応除くとして、いまだ日本には正式の僧が存在していないため安居について理解されず、行われてもいなかったとしても、彼らから安居あんご開けの日、七月十五日が出家在家に双方にとって重要な意味をもつことは聞かされていたに違いありません。

それがしかし、それから半世紀を経る間におそらく『盂蘭盆経うらぼんきょう』が伝えられたのでしょう。斉明天皇三年〈657〉、七月十五日の斎会が日本で「盂蘭盆会として」行われたと記録されています。

○辛丑。作須彌山像於飛鳥寺西。且設盂蘭瓮會。
○(斉明さいめい天皇三年〈657〉七月)辛丑しんちゅう〈十五日〉須弥しゅみせん〈須弥山〉かた飛鳥あすかの寺の西に作って、また盂蘭瓮うらんぼんおがみ〈盂蘭盆会〉を設けた。

『日本書紀』巻廿二 斉明天皇三年七月辛丑条
(新訂増補『國史大系』, vol.1b, pp.264)

ここで「初めて(始めて)」とないことから、あるいはこの以前、すでに盂蘭盆会として行われていた可能性も一応あります。しかし、当時それほど『盂蘭盆経』は知られていなかったと思われます。事実、この二年後〈659〉には盂蘭盆会の意義を僧尼(およびその信徒?)に明確に知らしめるためであったのでしょう、自恣じしの日に『盂蘭盆経』の講経を行わせています。

○庚寅。詔群臣。於京内諸寺勸講盂蘭盆經。使報七世父母。
○(斉明天皇五年〈659〉七月)庚寅こういん〈十五日〉、群臣にみことのりして、京内みやこ諸寺てらてらに於いて、『盂蘭盆経うらんぼんきょう』を勧講とかし、七世の父母かそいろ(の恩)にむくわせた。

『日本書紀』巻廿二 斉明天皇五年七月庚寅条
(新訂増補『國史大系』, vol.1b, p.271)

日本には仏教より早く儒教が伝えられ、また諸々の支那の史書がもたらされてよく学ばれていました。そこで支那における祖霊信仰、そしてそのための礼、またそれを支える「孝」の思想は自ずから受け入れられており、当然「七世の父母」に報いる」という盂蘭盆の主題はどうしても注目されるものであったと思われます。

安居あってこその盂蘭盆会

ただし、盂蘭盆会の功徳が成立するのは、読経でも講経でも不特定多数への日常の布施でもなく、あくまでも「安居を終えた自恣じしの日における僧伽そうぎゃへの供養」であるからこそのこと。なんでも誰かに物を与える儀礼をすれば良いというものではありません。それは『盂蘭盆経』が講じられ、その内容をしかと理解した者には自明です。

したがって、盂蘭盆会はまず僧が安居あんごを行っていることが大前提であり、ならばその安居自体を後援して行わせることに功徳があると考えられるのも必然でした。

◎是夏。始請僧尼安居于宮中。因簡浄行者卅人出家。
◎(天武てんむ天皇十二年〈683〉七月)この夏、始めて僧尼に請うて、宮中みやうちにて安居あんごさせた。これにちなんで浄行者おこなうひと〈一定年数以上、師僧のもとで斎戒を守り経論を学んだ者〉三十人をえらび出家させた。

『日本書紀』巻廿九 天武天皇十二年是夏条
(新訂増補『國史大系』, vol.1b, p.368)

もっとも、『日本書紀』では安居を「始めて宮中にて行わせた」とする記録が二度あって混乱しています。

○庚子〈異本は庚寅.安居の初めであるから庚寅が正しい〉。始請僧尼安居于宮中。
○(天武天皇十四年〈685〉四月)庚寅こういん〈十五日〉、始めて僧尼に請うて、宮中にて安居させた。

『日本書紀』巻廿九 天武天皇十四年四月庚寅条
(新訂増補『國史大系』, vol.1b, p.377)

この「始めて」というのが「初めて」であるのか、また別の意であるのかよくわかりません。言うまでもなく、初めてが二回あることは無い。あるいは前者は七月の記録であることから安居あんごの最後の日である自恣じしを初めて宮中で行わせたことを意味し、後者は四月のものであることから安居自体を宮中で行わせたことを意味するのかもしれません。

いずれにせよ、天武天皇は十二年か十四年、普通安居あんごとは寺・精舎において行われるものであるのを、宮中において初めて行わせたようです。これはやはり安居自体に功徳があり、その果報を期待してのことであったのでしょう。

○己丑。詔曰。朝堂座上見大臣動坐而跪。是日。以絁糸絲布奉施七寺安居沙門三千三百六十三。別爲皇太子奉施於三寺安居沙門三百廿九。
○(持統じとう天皇四年〈690〉七月)己丑きちゅう〈十四日〉みことのりして、「朝堂の座にあるとき大臣を見たならば、を起ってひざまづけ」と仰せになった。この日、あしぎぬ糸絲きいと〈生糸〉ぬの〈麻布〉を、七の寺〈未詳.南都七大寺とは異なる〉安居あんご沙門しゃもん、三千三百六十三僧に奉施した。(それとはまた)別に皇太子の為、三の寺〈三大寺.大官大寺・川原寺・飛鳥寺〉の安居の沙門三百廿九僧に奉施した。

『日本書紀』巻卅 持統天皇四年七月己丑条
(新訂増補『國史大系』, vol.1b, p.406)

何故かこの日は自恣の前日で、すると盂蘭盆会の布施としてそうしたものではなかったのかもしれませんが、安居する僧伽に功徳があると考えていたことは、この記録からも明らかです。そしてそれは、「皇太子の為」とあることから、必ずしも「現世の父母」・「七世の父母」に限った果報を念頭にしたものでなかったことも知られます。また、この記録は、当時の都の諸大寺にどれほどの僧があったかを伝えており、同時に諸寺がそれだけの人数を収容し得る大規模なものであったこともわかります。

しかしこの後、正史には安居や盂蘭盆会について言及する記録がほとんど絶えて無くなります。『続日本紀しょくにほんぎ』では盂蘭盆についてわずか一度、言及されるのみです。

○庚午。始令大膳職備盂蘭盆供養。
○(天平てんぴょう五年〈733〉七月)庚午こうご〈六日〉。初めて大膳職おおかしわでのつかさ〈宮内省に属する機関。宮中の食膳を司る役職〉をして盂蘭盆うらぼんの供養を備えさせた。

『続日本紀』巻十一 天平五年七月庚午条
(新訂増補『國史大系』普及版, 『続日本紀』前編, p.132)

それまで宮中における安居や自恣は、いずれの予算で、またいずこの機関が担っていたか知れません。しかし聖武天皇はこの年、盂蘭盆会に供する食膳を大膳職おおかしわでのつかさに担わせることを定めたようです。

比丘あってこその安居

ここで一度、盂蘭盆会において最も重要な点を再確認しておきます。

盂蘭盆会は安居の最後の日、自恣という特別な日における僧伽への供養であることから、功徳甚大であるとされたものです。そこでその安居とは、仏教の正式な出家修行者である比丘びく比丘尼びくにが主体的・主導的に行うべきものです。非正規の出家である沙弥しゃみ沙弥尼しゃみにもまた安居はなさなければならない定めではありますが、それも比丘・比丘尼の存在を前提としてこそあり得るものです。ところがしかし、今上に示してきた史書はすべて、日本に正規の出家者がいまだ無い時の記録です。

(比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼については、別項「七衆 ―仏教徒とは」および各項を参照のこと。)

したがって、以上の記録はすべて、言ってしまえば形ばかり・名ばかりの似非えせ出家をもって形式だけの安居・自恣を行わせていただけのことに過ぎません。ここで「似非えせ」などというと口汚く罵ったものであるものかのように聞こえるかも知れません。しかし、推古天皇代から聖武天皇代に至るまでのおよそ百五十年に渡り、日本の出家者が如法でない、すなわち正規のものでないことの自覚は常になされていました。そのような自覚を有しながら、しかし諸々の仏教の経典、その思想や習慣を積極的に取り入れていったその一端が盂蘭盆会です。

正統でないものを、ましてや仏教を国教として奉じる国家が放置していく訳もなく、したがって日本に正統な戒律がもたらされ、その僧尼が正統なものとなることは長年の課題であって宿願でした。実際、そのための準備は七世紀中頃から遣唐使を通じて着々とすすめられています。

そしてついに念願であった仏教として正規の出家者、比丘を生み出し得る具足戒を伝えたのが鑑真ら唐僧一行です。具足戒とは、誰かただ一人が伝え得るものではありません。巷間、しばしば「鑑真が具足戒を伝えた」と云われますが、それは実に不正確・不適切な表現で、「鑑真を含めた唐僧一行が具足戒を伝えた」と言わなければなりません。具足戒を授け得るのは、あくまで十人以上の比丘が一処に揃ってのことであり、たとい誰か一人だけ優れた律僧があってもそれだけではどうしようもないためです。

(鑑真の渡来については別項「真人元開 『唐鑑真過海大師東征伝』」を参照のこと。)

天平勝宝六年〈754〉、東大寺大仏殿前に築かれた戒壇における受戒により、日本で初めて正規の僧が誕生し、それまで日本に欠けていた僧宝がここにようやく成立しています。

(もっとも、鑑真渡来後初年に大仏殿前にて行われた授戒はかならずしも具足戒でなく、ただ菩薩戒のみであった可能性が大いにあります。仮に具足戒が授けられたとしても「内道場興行僧の神栄じんえい行潜ぎょうせん等五十五人」(『東大寺要録』巻四)のみであったと不佞ふねいは考えています。)

いずれにせよ、鑑真らの到来により、ついに日本に僧伽すなわち僧宝が成立し、それまでただ形式的に行われてきた盂蘭盆会が実のあるものとなっています。そして形式的であったとしても、すでに鑑真到来までの百五十年に渡り行われ、国としてこれを後押しして一種の国家行事とすらしていたことは大きかったことでしょう。鑑真以降にこれを如法に行う下地がすでに作られていたためです。

そのように、すでに諸大寺を初め宮中でも定着して久しいこととなっていたことから、『続日本紀』以降には安居や盂蘭盆会について言及する記述がほとんど無くなっていった思われます。安居自体は国分寺および国分尼寺、そして南都諸大寺にてもはや恒例として行われており、その講師などについて言及する記録がいくつか正史にもあることから、当然その自恣の日の盂蘭盆会も行われていたと見るべきことです。

もっとも、律令制の崩壊、それは僧尼の堕落と直結したものですが、それ以降は安居の性質が広く比丘の修禅や修学の機関とする原初の意義から離れて、なんらか護国経典などの講経を主とするものに変化していったようにも見られます。それに伴い、盂蘭盆会の性質も変じていたであろうと思われますが、しかしその詳細を知る手がかりとなる史料は今のところ見出すことが出来ません。