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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏説盂蘭盆経』 ―自恣の僧供とその功徳

印度歴と支那歴

古代印度歴について

安居あんごおよび自恣じしは本来、各地に時差というものがあってそれを考慮するにしても、世界中の僧伽が同時期に行わなければなりません。何故か。それは仏教僧の根本的行儀、行事を規定する律蔵に定められたことであるためです。

とは言え、往古に仏教が伝わり行われていた国がすべて安居を仏説に従い行っていたかと言えば、必ずしもそうでなかった地のあったことが知られます。

鐵門至覩貨邏國 舊曰吐火羅國訛也 其地南北千餘里東西三千餘里。東阨葱嶺西接波刺斯。南大雪山北據鐵門。縛芻大河中境西流。自數百年王族絶嗣。酋豪力競各擅君長。依川據險。分爲二十七國。雖畫野區分總役屬突厥。氣序既溫疾疫亦衆。冬末春初霖雨相繼。故此境已南濫波已北。其國風土並多溫疾。而諸僧徒以十二月十六日入安居。三月十五日解安居。斯乃據其多雨。亦是設教隨時也。
鉄門〈羯霜那国(史国)との国境の山中にあった関所の門〉から覩貨邏とから〈Tokhara. バルフを中心としたアム・ダルヤ河南を中心とした地域〉に至る 旧に吐火羅国というのは訛りである。その地は南北に千余里、東西に三千余里ある。東は葱嶺そうれい〈パミール高原〉せばまり、西は波刺斯ぱしし〈ペルシア〉に接している。南は大雪山だいせつざん〈ヒンドゥークシュ山脈〉があって北は鉄門に拠っている。縛芻ばくす〈vakṣu. アム・ダルヤ〉の大河が地域の中を西に流れている。数百年前より王族はあとつぎを絶ち、酋豪しゅうごう〈豪族〉が力を競い、各々が君長〈君主〉ほしいままにしている。川に依り險〈山〉に拠って二十七国に分かれ、野をわかって区分しているはいるが、総じては突厥とっけつ〈トルコ系遊牧民族の国〉に役属〈従属〉している。気序〈気候〉は温かく、疾疫〈疫病〉が多い。冬の末と春の初めには霖雨りんう〈長雨〉が相い継ぐ。故にこの地域より南、濫波らんぱ〈Lampāka? 印度北限の国〉より北のその国の風土にはいずれも多くの溫疾おんしつ〈熱病〉がある。そこで諸々の僧徒は十二月十六日に安居に入り、三月十五日に安居を解く。これはすなわちその(期間、当地としては)多雨であることに拠る。また、これは教えを設けるに時に隨ったものである。

玄奘『大唐西域記』巻一(T51, p.872a)

玄奘がここで述べているように、トカラ(現在のアフガニスタン北部一帯)の僧徒は十二月十六日から三月十五日までの四ヶ月間、安居と称して寺に籠もっていたことが知られますが、それは彼の地の気候に基づいた習慣であったようです。多雨の期間と言っても、中北印度以南に比べればその降水量は極少ないもので、10℃から0℃ほどの冬の寒冷期にあたります。これは支那の禅宗などで夏安居とは別に設け行っていた冬安居おんしつと、その時期は異なりますが同じようなものであったのでしょう。もちろん、トカラで行われているものにしろ支那の禅宗における冬安居にしろ、仏典に基づいたものでない地方独自の制であって安居と称しながら安居とは異なるものです。

このように言うと、「雨季が無い、または雨季と異なる時期に雨安居とはこれいかに」、「雨期であることが安居の制が始まった原因であったのであるから、地方それぞれ異なる時期に合わせ安居を行うのが本質的であろう」、「その暦だけ合わせることは愚かな教条主義。その地の実情に合わせるべき」という意見も世人から出ると思われます。しかし、仏陀在世時における由縁は確かに中北印度の雨季に依ったものですが、それが僧伽の重要な期間として位置付けられ、また種々の意義がそこに付加されたことにより、もはや律儀の諸々を我々が恣意的に削除・変更・創作など出来はしません。

支那の禅宗が「清規しんぎ」なるものを各寺院や宗派において創作し行うことは、それはいわば地方自治体の条例(ローカルルール)であって、それが上位にある国家の憲法と法律(すなわち仏教における律)に則るものである限りにおいて問題はない。けれども、たとえば冬安居のように、名称としてはともかくそれを正規のものとすることは出来ないわけです。

仏教が印度を本拠として発祥したものである以上、それはどうしても印度を基準としなければならない。特に律はそういうもので、安居が四方僧伽に遍く布かれた制であり、故に印度歴と同じて行わなければなりません。もし、それを不合理だの何だのいうのであれば、仏教僧が頭を剃ること、袈裟衣を着ること、五体投地の礼拝や右繞すること等々、諸々の一切が印度の習俗に準じたものであって故に他の地でそれを行うのは不合理となる。それぞれ現地の習俗・風俗に同じものとし、さらに時代の変化にも合わせて行え、ということになるでしょう。

(実はそのような主張をした者は日本の近世前期にすでにあります。大阪北浜は道明寺屋の天才町人学者、富永仲基とみなが なかもとです。)

前述したとおり、支那以来日本でも安居は四月十六日からで、自恣は七月十五日であるといわれてきました。それは漢訳仏典に基づくもので、そう書いてあるからこそのことです。ただ、それはそのまま支那のこよみでいうものと理解されたのでした。しかしながら、それが現在我々が用いている太陽暦のグレゴリオ歴(新暦)での話ではないことは勿論、実は支那歴いわゆる旧暦きゅうれきでのことでもありません。それは印度歴に基づいたものです。

そこでここでは、古代印度歴とはいかなるものであるかを示します。古代の印度歴と支那の暦との対照、本来の安居の時期などについては、唐から印度を訪れ長年滞在した玄奘や義浄が詳しく記述したものが遺されています。

若乃陰陽暦運日月次舍。稱謂雖殊時候無異。隨其星建以標月名。時極短者。謂刹那也。百二十刹那爲一呾刹那。六十呾刹那爲一臘縛。三十臘縛爲一牟呼栗多。五牟呼栗多爲一時。六時合成一日一夜 晝三夜三 居俗日夜分爲八時 晝四夜四於一一時各有四分 月盈至滿謂之白分。月虧至晦謂之黒分。黒分或十四日十五日。月有小大故也。黒前白後合爲一月。六月合爲一行。日遊在内北行也。日遊在外南行也。總此二行合爲一 歳。又分一歳以爲六時。正月十六日至三月十五日。漸熱也。三月十六日至五月十五日。盛熱也。五月十六日至七月十五日。雨時也。七月十六日至九月十五日。茂時也。九月十六日至十一月十五日。漸寒也。十一月十六日至正月十五日。盛寒也。如來聖教歳爲三時。正月十六日至五月十五日。熱時也。五月十六日至九月十五日。雨時也。九月十六日至正月十五日。寒時也。或爲四時。春夏秋冬也。春三月。謂制呾羅月。吠舍佉月。逝瑟吒月。當此從正月十六日至四月十五日。夏三月。謂頞沙荼月。室羅伐拏月。婆羅鉢陀月。當此從四月十六日至七月十五日。秋三月。謂頞濕縛庾闍月。迦剌底迦月。末伽始羅月。當此從七月十六日至十月十五日。冬三月。謂報沙月。磨袪月。頗勒窶拏月。當此從十月十六日至正月十五日。
陰陽いんよう〈月と太陽〉暦運れきうん〈星の運行〉日月にちがつ次舍じしゃ〈止息. 属する処〉は、称謂しょうい〈名称〉ことにしているとは言え、時候に異なりは無く、その星建せいけん〈星宿〉に随って月の名をひょうしている。時のごく短いものは刹那せつな〈kṣaṇa〉という。百二十刹那を一呾刹那たせつな〈tatkṣaṇa. 怛刹那〉とする。六十呾刹那を一臘縛ろうば〈lava〉とする。三十臘縛を一牟呼栗多むこりた〈muhūrta〉とする。五牟呼栗多を一〈kāla〉とする。六時が合して一日一夜 昼が三時、夜が三時 となる。居俗〈巷間〉は日夜を分けて八時 昼を四、夜を四とし、一一の時において各四分ある としている。月がちていき満ちるまでを白分びゃくぶんと謂い、月がけていきこもるまでを黒分こくぶんと謂う。黒分にはあるいは十四日と十五日とがある。月には小・大があるためである。黒分が前で白分が後であり、合して一月〈māsa〉とする。六月が合して一ぎょう〈ayana〉となる。日〈太陽〉が(黄道において天の赤道の)内〈北側〉に在って動くのは北行ほくぎょう〈uttarāyana〉である。日が(黄道において天の赤道の)外〈南側〉に在って動くのは南行なんぎょう〈dakṣināyana〉である。総じてこれら二行が合して一さい〈vatsara. 一年〉となる。
また、一歳を分けて六時〈ṛitu〉とする。正月十六日から三月十五日までが漸熱ぜんねつ〈vasanta〉。三月十六日から五月十五日までが盛熱じょうねつ〈grīṣna〉。五月十六日から七月十五日までが雨時うじ〈varṣa〉。七月十六日から九月十五日までが茂時もじ〈śarad〉。九月十六日から十一月十五日までが漸寒ぜんかん〈hemanta〉。十一月十六日から正月十五日までが盛寒じょうかん〈śiśira〉である。
如来の聖教しょうぎょう〈仏教〉では一歳を三時とする。正月十六日から五月十五日までが熱時ねつじ〈grīṣna〉。五月十六日から九月十五日までが雨時うじ〈varṣa〉。九月十六日から正月十五日までが寒時かんじ〈hemanta〉である。あるいは四時ともする。春夏秋冬である。春の三月は、制呾羅せいたら〈caitra〉吠舍佉べいしゃきゃ〈vaiśākha〉逝瑟吒ぜしった〈jyeṣṭha〉と謂う。ここ〈支那〉の正月十六日より四月十五日までに当たる。夏の三月は、頞沙荼あしゃだ〈āṣāḍhā〉室羅伐拏しらばな〈śrāvaṇa〉婆羅鉢陀ばらぱだ〈bhādrapada〉という。ここの四月十六日より七月十五日までに当たる。秋の三月は、頞濕縛庾闍あしばゆじゃ〈aśvayuja〉迦剌底迦かしていか〈kārttika〉末伽始羅まかしら〈mārgaśīra〉と謂う。ここの七月十六日より十月十五日までに当たる。冬の三月は、報沙ほうしゃ〈pauṣa〉磨袪まきょ?〈māgha. 袪は佉の写誤?〉頗勒窶拏ぱろくぐな〈phālguna〉と謂う。ここの十月十六日より正月十五日までに当たる。

玄奘『大唐西域記』巻二(T51, pp.875c-876a)

印度歴は支那歴と同じく太陰太陽暦で、月の満ち欠けを基準にしつつ、しかし地球から見た太陽の軌道(黄道こうどう)を十二分し、その星宿せいしゅくでもって月の名を定めて十二ヶ月で一年としています。そして、適宜閏月うるうづきをいれるなどして、陰暦における実際の季節のズレを修正していました。

しかし、そこで印度歴で特徴的なのは、一月ひとつきが二分され、満月の次の日から新月に向かい欠けていく十五日間の「黒月こくがつ」(Kṛṣṇapakśaクリシュナ・パクシャ・黒分)と、新月の次の日から満月に向かい満ちていく十五日間の「白月びゃくがつ」(Śuklapakśaシュクラ・パクシャ・白分)が云われることです。これにより、印度における月の言い方は、例えばヴァイシャーカ黒月八日、ヴァイシャーカ白月十五日(満月の日)などと、一月ひとつきを黒月・白月に分け、それぞれ十五日までを数えます(ただし、黒月には十四日のみの小月あり)。

画像:太陰太陽暦
画像:印度歴における一月の黒分と白分

なお、月は白黒どちらから始まるのかについて印度には両説あったようですが、玄奘が「黒前白後合為一月」と言っているように、ここでは黒月が先とする説に従っています。すなわち、新月の日が月の半ばとなり、月の終わりが満月となります。

古代印度歴と支那歴との比較
- 印度歴(古代) 支那歴(旧暦)
四時 三時 Sanskrit
Pāli 漢語 黒白 玄奘・義浄説
1 熱時 Caitra Citta 制呾羅
(制怛羅)
黒月 正月十六日-卅日
白月 二月一日-十五日
2 Vaiśākha Vesākha 吠舍佉 黒月 二月十六日-卅日
白月 三月一日-十五日
3 Jyeṣṭha Jeṭṭha 誓瑟搋
(逝瑟吒)
黒月 三月十六日-卅日
白月 四月一日-十五日
4 Āṣāḍhā Āsāḷhā 阿沙荼
(頞沙荼)
黒月 四月十六日-卅日
白月 五月一日-十五日
5 雨時 Śrāvaṇa Sāvaṇa 室羅筏拏
(室羅伐拏)
黒月 五月十六日-卅日
白月 六月一日-十五日
6 Bhādrapada Bhaddara
(Poṭṭhapāda)
婆達羅鉢陀
(婆羅鉢陀)
黒月 六月十六日-卅日
白月 七月一日-十五日
7 Aśvayuja
(Āśvina)
Assayuja 阿濕縛庾闍
(頞濕縛庾闍)
黒月 七月十六日-卅日
白月 八月一日-十五日
8 Kārttika Kattikā 羯栗底迦
(迦剌底迦)
黒月 八月十六日-卅日
白月 九月一日-十五日
9 寒時 Mārgaśīra Māgasira 末伽始羅 黒月 九月十六日-卅日
白月 十月一日-十五日
10 Pauṣa Phussa 報沙 黒月 十月十六日-卅日
白月 十一月一日-十五日
11 Māgha Māgha 磨伽
(磨袪)
黒月 十一月十六日-卅日
白月 十二月一日-十五日
12 Phālguna Phagguṇa 頗勒窶那
(頗勒窶拏)
黒月 十二月十六日-卅日
白月 正月一日-十五日

(※ これは現在の印度で採用されている国定暦《Śaka歴》とは異なったものであることに注意。)

このように、仏教では(印度の)季節を熱時・雨時・寒時の三時に分け、それぞれ四ヶ月が配当されます。そこで三時について支那の暦でいえば、熱時は正月十六日から五月十五日、雨時は五月十六日から九月十五日、寒時は九月十六日から正月十五日が充てられます。この印度歴と支那歴の対照については、義浄も『 南海寄帰内法伝なんかいききないほうでん』において全く同様に述べています。

玄奘・義浄がいった雨時の四ヶ月は、新暦(グレゴリオ歴)の六月下旬頃から十月下旬頃にあたります。これを中北インドの気候に当てはめて考えたならば、雨時の四ヶ月はまさにモンスーンの時期にピタリと重なり、雨安居が定められたというにふさわしい時期です。

(ビルマやタイ・ラオスなど東南アジア北部も雨季はほぼ同じ。ただし、セイロンやインドネシアなど赤道に近い南アジア・東南アジア諸国は全く異なる。)

画像:安居は旧暦四月十六日からではない

しかしながら、そこで一般的にいわれる前安居の期間(旧暦での四月十六日から七月十五日)を雨時に当てはめるとおかしなことになる。雨時が始まる一ヶ月も前に雨安居を始め、その真っ最中に終わることになるためです。これでは雨季にあちこち移動すべきではないという当時の印度社会の通念に準じて開始された雨安居の所以にそぐわない事になります。そんな筈はない。

一ヶ月遅れの後安居(五月十六日から八月十五日)の場合は雨安居として相応の時期にあたりはしますが、しかし八月十五日であっても、いまだ雨季が完全には終わっておらず、雨がちな時期であって何故それが「後」であるのか、とやはり不審に思われる。

これは実際にモンスーンがいかなるものかを、中北インドおよび東南アジア諸国で長年過ごして知る経験を持つ者からすれば当たり前に甚だいぶかしまれるべきことです。そして実際、不佞ふねいは長年、この点に大きな疑問を抱いていました。

そこでまた、支那で伝えられた釈尊の降誕や成道の日がなぜ上座部の所伝と異なっているのか、特に安居の日が甚だしく異なっているのは、仏教として重大な問題の筈です。にも関わらず、単に北伝と南伝は異なるからそういうものだ、などといった調子でこれを疑問にも不審にも思わず、まともにこれを考究しようとする者は、少なくとも日本の寺家にはありません。それもその筈、日本の寺家が仏教になど全く則っておらず、またその祖師等の所説も無視して自身らの「造られた伝統」の中で独善的にあるだけで、安居など行わずまるで関係がないためです。

しかし、これはやはりどう考えてもおかしなことです。

本来の安居の日、自恣の日はいつか

南および東南アジア諸国にて伝えられてきた上座部では、安居の入りは新歴でおおよそ六、七月の満月の翌日であり、明けるのは九、十月の満月の日です。それが定められているのは勿論、上座部のVinayaヴィナヤ piṭakaピタカ(以下、『パーリ律』)であり、安居の開始時期が明確に説かれています。

anujānāmi, bhikkhave, vassaṃ upagantun”ti. atha kho bhikkhūnaṃ etadahosi — “kadā nu kho vassaṃ upagantabban”ti? bhagavato etamatthaṃ ārocesuṃ. anujānāmi, bhikkhave, vassāne vassaṃ upagantunti.
atha kho bhikkhūnaṃ etadahosi — “kati nu kho vassūpanāyikā”ti? bhagavato etamatthaṃ ārocesuṃ. dvemā, bhikkhave, vassūpanāyikā — purimikā, pacchimikā. aparajjugatāya āsāḷhiyā purimikā upagantabbā, māsagatāya āsāḷhiyā pacchimikā upagantabbā — imā kho, bhikkhave, dve vassūpanāyikāti.
(世尊は僧伽に世間に従って雨季に安居を行うことを定められて言われた、)「比丘たちよ、雨安居〈vassa〉に入ることをゆるす」と。そこで比丘たちはこのように思った、―「いつ雨安居に入るべきであろうか?」と。世尊にこの事を申し上げた。「比丘たちよ、雨季〈vassāna〉に雨安居に入ることを聴す」と(世尊は告げられた)。
そこで比丘たちはこのように思った、―「雨安居に入るのには幾ばくあるだろうか?」と。世尊にこの事を申し上げた。「比丘たちよ、雨安居に入るのには二種がある。ー前〈purimikā〉と後〈pacchimikā〉とである。前はアーサールハー〈Āsāḷhā〉(の満月)の翌日〈Sāvaṇa. 第五月〉に入るべきであり、後はアーサールハー(の満月)の一月ひとつき〈Bhaddara. 第六月〉に入るべきである。―比丘たちよ、雨安居に入るのには、この二種がある」

Vinaya piṭaka, Mahavagga, Vassūpanāyikakkhandhaka, 107

以上のように『パーリ律』では、前安居はĀsāḷhāアーサルハー([S]Āṣāḍhāアーシャーダー阿沙荼あさだ)の翌日、すなわちSāvaṇa([S]Śrāvaṇa)の初日から入るべきものであり、後安居はĀsāḷhāの翌月すなわちBhaddaraバッダラ([S]Bhādrapadaバードラパダ婆達羅鉢陀ばだらぱだ)の初日から入るべきものと規定されています。

『パーリ律』の言うĀsāḷhāアーサルハーとは旧暦でいつにあたるのか。これを印度歴と玄奘・義浄の説に基づく旧暦との対照で言ったならば、前安居の開始日は五月十六日、後安居は六月十六日で、それぞれ三ヶ月間となります。これは前述のように、中北印度の地における雨季にまったく合致するものです。

(ところがしかし、これも誠に不思議なことで何故そうなったものか全くわからないのですが、少なくとも近現代の上座部では、上掲の印度歴と支那歴との対照表でいえば、ちょうど一ヶ月後ろにずれて理解されています。例えば、Cittaチッタ月は、玄奘・義浄説では一月十六日からの一ヶ月とされていますが、上座部では旧暦での二月十六日から三月十五日に該当するものとされているのです。したがって、現代の上座部で安居に入るのはSāvaṇaサーヴァナ黒月一日ではあるものの、それは旧暦での六月十六日に当たり、新暦ではおよそ七月二十日頃に当たります。)

ではそこで、雨安居の開始日を四月十六日と記する経律の所伝をそのまま支那歴であると捉えたならば、実際の中北印度における雨季(モンスーン)とは最大二ヶ月ものズレを生じてしまう事実はどう考えたら良いか。

ところで、玄奘は武徳五年に成都にて具足戒を受け比丘となっていますが、その受持した律儀はおそらく、支那で初めて漢訳された律蔵である説一切有部の『十誦律』であったと思われますが、そこに月日としては安居の期間は説かれていません。これは『四分律』でも同様で、ただ「夏中げちゅう」・「」とされるのみです。

実は漢訳の律蔵(広律)で、安居の時期をいつからいつまでと数字で示しているものは 仏陀跋陀羅ぶっだばだらBuddhabhadraブッダバドラ)と法顕ほっけんの共訳による『摩訶僧祇律まかそうぎりつ』以外にありません。

自恣法者。佛告諸比丘。從今日爲諸弟子制自恣法。三月三語安居竟。是處安居是處自恣。從上座和合。三月者。從四月十六日。至七月十五日。三語者。見聞疑。安居竟者。前安居從四月十六日。至七月十五日。後安居從五月十六日。至八月十五日
自恣法とは、仏、諸比丘に告げたまわれた。「今日より諸弟子の為に自恣法を制する」と。三月・三語・安居竟・是処安居是処自恣・従上座・和合である。三月とは、四月十六日より七月十五日に至ること。三語とは、見・聞・疑である。安居竟とは、前安居は四月十六日より七月十五日まで、後安居は五月十六日より八月十五日までである

仏陀跋陀羅・法顕訳『摩訶僧祇律』巻二十七(T22, p.451b)

法顕は東晋代の学僧で、完全な律蔵が支那にいまだ無いことを歎き、玄奘や義浄に先んじること約220年、西域を経て印度に入って滞在すること十四年、『摩訶僧祇律』・『長阿含経』・『雑阿含経』などを得て支那にて漢訳しています(『五分律』もセイロンにて得たもたらしたが未訳のうちに法顕が没)。

前述のように、印度と支那とでは月日の称し方、数え方がまったく異なります。そこで北印度出身であったという仏陀跋陀羅と印度を実地に知っていた支那僧の法顕がこのように訳していることは特に重要です。彼らは印度歴と支那歴の双方の相違を間違いなく知っていたでしょう。そこでまず疑い、考えるべきは、この「四月十六日」や「七月十五日」という記述です。これは訳語の問題であって、支那歴での話ではなかったのではないか。

例えば四月十六日は、印度歴で第四月の満月の日(Āsāḷhāアーサルハー白月十五日)の翌日、すなわちSāvaṇaサーヴァナ([S]Śrāvaṇaシュラーヴァナ)の黒月一日を意味するものであって、そもそも支那の暦に変換して記したものでは無い、ということではないのか。というのも、支那の暦では十五日とは満月の日であるためです。しかしながら、印度では先に示したように満月とは月の最後の日にあたります。

そこで、印度歴の第四月白月十五日すなわち満月であるその終わりの日を、支那歴における満月を十五日とする慣習によって記したならば四月十五日となり、その翌日は四月十六日となります。けれども、その四月十六日とは実は印度の第五月黒月一日です。

安居の開始時期について玄奘は以下のように伝えています。

故印度僧徒依佛聖教坐兩安居。或前三月。或後三月。前三月當此從五月十六日至八月十五日。後三月當此從六月十六日至九月十五日。前代譯經律者。或云坐夏。或云坐臘。斯皆邊裔殊俗。不達中國正音。或方言未融而傳譯有謬。又推如來入胎初生出家成佛涅槃日月。皆有參差。
ふるく印度の僧徒は仏の聖教しょうぎょうに依って両安居りょうあんごを坐してきた。(両安居とは)あるいはさき三月みつき〈前安居〉、あるいはあとの三月〈後安居〉である。前の三月はここ〈支那〉の五月十六日より八月十五日までに当たり、後の三月はここの六月十六日より九月十五日までに当たる。前時代の訳経律者は、あるいは坐夏ざげと云い、あるいは坐臘ざろうと云っているが、それは皆、(印度本国のではない)辺境の末裔まつえいで(中印度とは)習俗をこと〈異〉にした者等であり、中国ちゅうごく〈印度・天竺〉の正音〈正規のサンスクリット〉通達つうだつしておらず、あるいは(胡地などにおける)方言(を正音)に未だ還元しておらず、伝訳にあやまりがある。また、如来〈釈迦牟尼〉入胎にったい初生しょしょう出家しゅっけ成仏じょうぶつ涅槃ねはん日月にちがつを推定し、皆が参差しんし〈入り混じって不揃いであること〉している。

玄奘『大唐西域記』巻二(T51, p.876a)

玄奘は、前安居は支那の暦で五月十六日から八月十五日、後安居は六月十六日から九月十五日であると断言しています。これは『パーリ律』の制にもまさしく合致したものとなっています。加えて、玄奘以前の古訳・旧訳の三蔵らによって訳され伝えられた、仏陀の重要な事績があった月日が皆混乱しており、誤ったものであると指摘しています。この仏伝に関する日付が誤ったものとする説は、ひいてはその他の日付についても同様にいえたものとなるでしょう。

この玄奘の説について、現代の文献学者(森章司)は、印度暦の常識における年始がCaitraチャイトラ白月びゃくがつ一日とされる点に固執して支那歴との整合性とを意識し、また漢訳仏典にある四月十六日などの記述をあくまで印度歴にあわせたものと理解し、「そもそも玄奘が雨安居の期間を5月16日から8月15日までとしたのは玄奘の誤解」に過ぎないと断じています(森章司『原始仏教時代の歴法について』)。そこで、安居の開始日はやはり旧暦で四月十六日であって、旧来の漢訳仏典にある日付そのままとする説に誤りはないものと結論しています。しかし、果たしてその見方は正しいものであるか。

まず、仏典では当時の世間で何月をもって一年の始めとしていたかは不明なものの、仏教の出家者としては年の基準は雨季・安居にあって、それが明けたことをもって一年を数えます。雨・雨安居を意味する[S]varṣaヴァルサ([P]vassaヴァッサ)が、仏教において年、年齢を意味することはそれを示しています。

そこで前安居の開始日が旧暦で五月十六日とした玄奘の説を「誤解」と視ることは正しいか。そもそも、玄奘は僧として中央アジアを経て印度に入り、そこで受け入れられていました。ナーランダー僧院ではその学頭の代理を勤めていたほどです。すなわち玄奘自身も当然、比丘として安居を彼らと共にしていたと見るべきであって、その当事者です。今どきの日本の学者などがフィールドワークと称して極短期間、南方などの僧院をペロッと表面的に見学、傍観旅行したのではありません。自らその安居を各地で十数年に渡って過ごし、しかも記錄魔とすら言えるほど細かな事項を書き記した玄奘が、安居という僧としてすこぶる重要な期間について誤解していたとは到底思われません。

これはまた義浄においてさらに強く言えます。義浄の場合は特に律儀、印度の僧院生活に非常な興味をもち、常に支那における律宗の教学・習慣を批判的に眺め対比しながら各地で過ごしていた人ですから、それがまた安居という重要な期間について同じく誤認していたとはやはり、とても考えられない。

若前安居。謂五月黒月一日。後安居則六月黒月一日。唯斯兩日合作安居。於此中間文無許處。至八月半是前夏了。至九月半是後夏了。此時法俗盛興供養。從八月半已後。名歌栗底迦月。江南迦提設會。正是前夏了時。八月十六日即是張羯絺那衣日。斯其古法。
もし前安居ぜんあんごならば、五月黒月こくがつ一日〈支那暦で五月十六日〉後安居ごあんごは則ち六月黒月一日〈支那暦で六月十六日〉(からの三ヶ月間)である。ただこの両日からのみ安居は為されるべきであって、この中間ちゅうげん (から安居を始めること)は、(律)文として許される余地など無い〈道宣が安居に前・中・後の三種ありとした説の否定〉。八月半ば〈支那暦で八月十五日〉に至るとこの 前夏ぜんげおわり、九月半ば〈支那暦で九月十五日〉に至るとこの後夏ごげおわる。この時、法俗ほうぞく〈僧俗〉は盛んに供養をおこなう。八月半ばより已後いご歌栗底迦かりてか〈Kārttika〉月と称するが、(唐の)江南こうなん〈長江中下流域. 江淮以南・南嶺以北〉で「迦提かだい〈Kārttika. 迦低〉」という法会ほうえを設けているのは、まさしく前夏ぜんげおわった時であり、(支那の暦で)八月十六日とは即ち羯絺那衣かちなえ〈kaṭhina. 功徳衣〉ひらく日であって、これはその(印度以来の)古法こほう(を支那における今につたえたもの)である。

義浄『南海寄帰内法伝』巻二(T54, p.217a-b)

このように義浄もはっきりと五月黒月こくがつ一日を前安居の開始日と断言しています。そしてその五月黒月一日とは、支那の暦で五月十六日に当たるもので、安居が終わるのは八月十五日となります。

なお、ここで義浄が羯絺那衣かちなえにも言及しているのは注目すべき点です。羯絺那かちなとは硬い、荒いなどを意味する[S/P]kaṭhinaカティナの音写ですが、仏教では特に夏安居を努めて善く過ごした比丘に僧伽が与える諸々の特権の象徴としての衣を意味する言葉で、功德衣くどくえなどと意訳されます。それはまた、安居を終えた僧伽に対して信者たちが衣やそのための布を寄進する日となり、そのための法会を意味するようにもなっています。

前項において、六世紀中頃の長江中流域における土俗を伝えた『荊楚歳時記けいさいそじき』に、七月十五日に盂蘭盆が営まれていた記錄のあることを紹介しましたが、それとはまた別に、その内容まではわかりませんが、七世紀中頃の同地域の八月十六日に、迦提かていという、おそらくは印度歴の第八月Kārttikaカールッティカの音写(『雑阿含経』では「迦低」)、ともすればkaṭhinaカティナの訛誤であろう語で称される法会が行われていたらしいことは見逃せません。

印度の釈尊ご在世当時以来、雨安居を終えた後の一ヶ月は、その年の袈裟衣を縫うなどして用立てる衣時えじとして過ごします。おそらく、その衣時、あるいは羯絺那衣かちなえにまつわる何らかの行事が、支那歴の八月十六日頃に、印度歴の第八月である迦提(迦低)の称を以て行われていたというのです。

そのように支那における行事との対比で安居明けの日を述べていることも、義浄が印度と支那との暦の違いをよく意識しており、ひいてはその認識の正しいことの根拠ともなるでしょう。何より、先に示したように、玄奘および義浄の言った安居の期間は、まさに印度亜大陸における雨季(モンスーン)の時期に一致し、また『パーリ律』の記述や現代の南方において行われる安居の期間に一致するという事実が重要です。

繰り返し強調しますが、安居とは、印度における雨季に基づいて僧伽で開始された習慣です。しかし、雨安居が制定された後は、仏教が伝えられた印度亜大陸以外、モンスーンの影響のないヒンドゥークシュ山脈以西やヒマラヤ山脈以北の中央アジアや東アジアにても、やはり僧の義務と習慣としてなされなければならないものです。それら各地において、少々の時差が存するにしてもその当地の時に従って、世界同時に行われなければなりません。

冒頭示したように、歴史的にはまったく異なる時期に安居と称して行っていたところもあります。しかし、それは日本に同じく根拠なく行われていたに過ぎないもので、したがって正しく安居とはならない。中北印度と雨の時期など気候が違っていたとしても、安居を安居として行うには律に定められた日に従わなければならないためです。

実際、上座部であってもセイロン島(スリランカ)などは気候が中北印度と全く異なり、雨の多い時期が大小二度あります。特に雨季と言える時期は、中北印度のように新暦で六月から九月でなく、九月から十二月です。それでも彼らは雨安居を律の所説通りに行っています(ただし、前述のとおり玄奘・義浄説とはインド歴が一ヶ月遅れて理解されている)。

そこで重要なのが、古代印度暦において規定された日月が、各地における暦でいつに該当するか、ということです。これに疑義を唱えている学者が今あり、また現代の上座部の理解ともズレがあるものの、しかし玄奘や義浄の所伝は以上の点からは正確なものであったろう、と考えられます。

したがって、例えば本項にて講読する『盂蘭盆経』が自恣の日としていう「七月十五日」とは、支那の暦のそれでは決してなく、印度の暦における第七月(Aśvayujaアシュヴァユジャ)白月十五日すなわち旧暦で八月十五日、新暦ではおおよそ九月中旬頃のことにあたると考えて間違いありません。これがまた後安居の自恣の場合は九月十五日となって、新暦で十月中旬頃となります。

以上のことから本来の自恣の日、盂蘭盆会を行うべき七月十五日とは旧暦の八月十五日、いわゆる中秋の名月の日であり、新暦で九月中旬頃の清らかな満月の日です。