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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

最澄 『山家学生式』

仏教伝来から僧綱の成立

野放図な僧徒ら ―仏教伝来当初の日本

これは鎌倉中期に著されたものではありますが、日本に仏教が伝来してから僧綱(の嚆矢こうし)が創設されるまで、東大寺戒壇院の凝然ぎょうねんが『三国仏法伝通縁起』(以下、『伝通縁起』)において比較的正確かつ簡潔にその経緯を伝えているので、以下に示します。

欽明天皇御宇壬申佛法初傅。厥後連續佛法漸傅。壬申已後經三十七年第三十三代崇峻天皇御宇元年戊辰從百濟國獻於佛舎利及僧畫工。于時馬子宿禰請百濟僧問受戒儀式。彼僧答云。僧衆受戒以十人五人行之。尼衆受戒於彼尼寺先行本法。後往僧寺隨僧受之。尼衆亦往二衆具足於中受之。此國尼衆無其行法。二衆不具不能受戒。禪藏等三尼遂往百濟。十戒六法具戒三重皆已成就。經三年歸。尼寺儀式移此而來。三尼已歸。他國僧衆來朝是多。然人數不足諸緣不具。尼衆受戒其事全無。他國僧衆卽彼國中如法僧人此國初起非如法受。唯是相似緣不具故。而僧極多不可稱計。推古天皇御宇三十二年甲申四月戊午詔曰。自今以後任僧正僧都應檢校僧尼。卽九月丙子校寺及僧尼。當于是時。寺四十六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。云々 卽以百濟僧觀勒初爲僧正法務。明年乙酉以高麗王貢僧慧觀補任僧正。如是雖有僧尼二衆未行如法受戒儀式。
 欽明天皇御宇の壬申〈552〉、仏法が初めて伝わり、その後、連続して仏法が漸く伝わった。壬申以降、三十七年を経た第三十三代崇峻天皇の御宇元年戊辰〈588〉、百済国より仏舎利および僧、画工が献上された。時に蘇我馬子宿祢は百済僧に請うて受戒の儀式について尋ねた。その僧が答えて云うには、
「僧衆〈比丘僧伽〉の受戒は、十人あるいは五人によって行うものです。尼衆〈比丘尼僧伽〉の受戒は、その尼寺において先ず本法〈十人もしくは五人以上の比丘尼のもとでの白四羯磨による受戒〉を行い、その後に僧寺に行って僧〈十人もしくは五人以上の比丘衆〉に従ってこれ〈白四羯磨による受戒〉を受けなければなりません。尼衆はまた往って(比丘尼僧伽と比丘僧伽の)二衆が具わった中においてこれを受けるのです。この国の尼衆にはその行法は無く、二衆も具わっておらず、したがって受戒することは不可能です」
とのことであった。 そこで禅蔵等の三人の尼〈善信尼・禅蔵尼・恵禅尼〉は遂に百済に行き、十戒〈沙弥尼の戒〉・六法〈正学女の戒〉・具足戒〈比丘尼の律儀〉の三重を(受けて)すべて成就し、三年を経て帰国した。(これにより)尼寺の儀式はここ(日本)に移り来たった〈凝然は三人の尼による受戒・受法が正統なものであったと考えていたようであるが、その見方は必ずしも正しくはない〉。三人の尼僧はすでに帰り、また他国の僧衆が来朝することも多くあるとはいえ、しかし(比丘・比丘尼となるための受具足戒を行うのには)員数が足らず、諸々の条件も具わっていなかった。尼衆の受戒はそれ自体、全く行われることが無かったのである。他国の僧衆はその国において如法の僧人ではあったが、この国で行われた(出家受戒の)初めは如法受ではなかった。ただそれは「相似」に過ぎず、(正統に出家するための)条件が具わっていなかった為である。しかし、(そのような相似の)僧徒は、極めて多く数え切れないほどとなっていた。
 推古天皇の御宇三十二年甲申〈624〉四月戊午〈13日〉、詔して「今より以後、僧正・僧都を任命して僧尼を監督せよ」といわれた。そこで九月丙子〈同年九月に丙子の日は無い〉、寺院および僧尼を点検すると、この時、寺四十六所・僧八百十六人・尼五百六十九人があったという。そこで百済僧観勒を初めて僧正法務とした。明年乙酉〈625〉には、高麗王の貢僧慧観〈恵灌〉を僧正に補任した。 このように僧と尼の二衆はありはしたものの、未だ如法の受戒儀式が行われることはなかったのである。

凝然『三国仏法伝通縁起』巻下
(新版『大日本佛教全書』, vol.62, p.17c)

ここで凝然は、『日本書紀』(以下、『書紀』)の所伝に従って仏教伝来の年を欽明天皇十三年壬申とし、また日本における初めての出家者として(善信尼および)禅蔵等の三人の尼があったことを述べ、百済にて受戒し帰国したことなどをまとめ記しています。

まず、この点についていくつかの問題を指摘しておくと、『書紀』には善信尼が出家したとする年齢が十一歳であることや、そもそも出家の師としたのが「僧還俗者。高麗惠便」なる「還俗した僧」(!?)であったことが記されていますが、それは本来あり得ない、極めて杜撰なものでした。沙弥尼として出家できる最低年齢は十三歳であり、また具足戒は二十歳以上でなければ受けることが出来ず、仮に受けたとしても失効とされます(ただし、極限られた例外あり)。なにより、還俗した僧は僧でなく俗人です。それを師として出家したなど、何かの冗談かと思えるような話です。

そのようなごく基本的な、出家の常識というべき事に関して凝然は全く言及しておらず、むしろ善信尼らは「十戒・六法・具戒」を残り無く「成就」したものとしてしまっています。したがって、これについては凝然の誤認、というより従来そのように認識されていたのを、そのまま記しただけであったのでしょう。けれども、善信尼らして正規の出家者であったとは到底言い難いものです。

凝然はそこで、尼の伝統が日本において継承されることがなかったことと、僧に関してはその最初から正統なものでは無かったことは指摘。その数は年を追うごとにいや増していったものの、それは所詮「相似」であったと記しています。

凝然は、そのようなことから僧尼の監督職として僧正という僧官位が設けられ、それに初めて任じられたのが百済僧観勒であり、翌年また慧観を補任したのだ、と伝えています。けれども、僧尼の監督職として僧正などの官位が設けられたことについて、凝然は肝心なその契機となった事件の詳細を省き記していません。しかし、これは日本が国家として仏教僧に戒律が必須であることを、初めて公的・現実的に認識した事件として重要であるため、その経緯を伝える『書紀』の記事を示します。

卅二年夏四月丙午朔戊申。有一僧。執斧毆祖父。時天皇聞之。召大臣詔之曰。夫出家者頓歸三寶具懷戒法。何无懺忌輙犯惡逆。今朕聞。有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼。以推問之。若事實者重罪之。於是集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸僧尼並將罪。於是百濟觀勤僧表上以言。夫佛法自西國至于漢經三百歲。乃傳之至於百濟國而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲。而貢上佛像及內典。未滿百歲。故當今時。以僧尼未習法律。輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如。仰願其除惡逆者以外僧尼悉赦而勿罪。是大功德也。天皇乃聽之。◯戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正僧都。仍應檢校僧尼。◯壬戌。以觀勒僧爲僧正以鞍部德積爲僧都。卽日以阿曇連闕名爲法頭。◯秋九月甲戌朔丙子。挍寺及僧尼。具錄其寺所造之緣。亦僧尼入道之緣。及度之年月日也。當是時。有寺卌六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。幷一千三百八十五人。
《中略》
三十三年春正月壬申朔戊寅。高麗王貢僧恵灌。仍任僧正。
(推古天皇)三十二年〈624〉夏四月丙午へいご戊申ぼしん〈3日〉、とある僧が斧で祖父を殴り殺した。天皇はこれを聞いて大臣らを招集し、詔して、
「そもそも出家者はひたすら三宝に帰依し、厳しく戒法を護持するものであるのに、一体どうして恥じることも忌むこともなく、たやすく悪逆を犯すことが出来ようか。しかるに今、朕が聞くところによると、ある僧が祖父を斧で殴り殺したという。そのようなことから、すべての諸寺院の僧尼を集めて問い糾し、もし罪を犯したことがあるようであれば、厳しく罰せよ」
と仰せられた。そこで諸々の僧尼を集めて罪の有無を問い糾した。そして、その(祖父を斧で殺害したという)悪逆を犯した僧と、過去に悪行のあったことが発覚した僧尼とを等しく罰しようとした。すると、百済僧の観勒かんろく は、
「そもそも仏法は、西国〈印度〉より漢〈支那〉に伝わって三百年を経てから、ようやく百済国に伝わったものです。それがわずか百年ばかりであったとき、我が王〈聖明王〉が、日本の天皇が賢哲であることを聞きおんで仏像および仏典を(欽明天皇に)貢上しましたが、それからいまだ百年も満ちておりません。そこで、現在のところ(日本の)僧尼がいまだ法〈教え〉と律〈戒律〉とを完全に学習・理解していないことから、たやすく悪逆な行為を犯すのだと思われます。そのようなことから、諸々の僧尼は(今回のことについての天皇の怒りに)恐れかしこまって、(今後)どのように振る舞うべきかわからずにおります。仰ぎ願わくば、その(祖父を斧で殺害した)悪逆の僧を除く、他の僧尼については、すべて赦免して罰せぬよう下さいませ。それは大きな功徳となることでしょう」
と上表した。そこで天皇はこれをお赦しになった。
戊午ぼご〈13日〉、(推古天皇は)詔し、
「道人〈出家者〉でありながらも法を犯す者があるが、そのようではどうして俗人を教誨することなど出来ようか。そこで今より以降、僧正・僧都等を(僧尼を監督する官職として)設置し、僧尼を監督せよ」
と仰せられた。
壬戌じんじゅつ〈17日〉、観勒を(日本で初となる)僧正とし、鞍部徳積くらつくりのとくしゃく〈高麗の俗人.当初は僧ではなく俗人を任じていた〉を僧都とする。また同日、阿曇連あずみのむらじ名は欠けて伝わっていない〈神別氏族。海事を掌り、また特に天皇の食事を司った氏族〉をもって法頭ほうずとした。
◯秋九月甲戌朔丙子〈3日〉、寺および僧尼を調査し、詳細にその寺が造られた由来や、また僧尼が入道した由来および度〈得度.度は渡に通じ、〉した年月日を記録した。まさにこの時、寺四十六所、僧八百十六人・尼五百六十九人の、併せて千三百八十五人があった。
《中略》
三十三年〈625〉春正月壬申朔戊寅〈7日〉、高麗王〈高句麗の栄留王〉が(推古天皇に)僧恵灌を貢上してきた。そこでこれを僧正とした。

『日本書紀』巻第廿二
(新訂増補『国史大系』, vol.1, pt.2, pp.164-166)

以上のように、その契機となったのは、推古天皇の時代、ある僧が自分の祖父を斧で叩き殺すという凄惨なものでした。ここに始まる官職としての僧正・僧都・法頭の設置が、後の僧正・僧都・律師からなる寺院・僧尼を統制する国家機関たる僧綱の嚆矢です。

日本で初めて設けられた僧正位に任ぜられた百済僧観勒は、暦法および天文や遁甲など、後代にいわゆる陰陽道となる一連の知識を伝えた人でもあります。以上のような成立事情からして、当初僧正に任じられた僧のほとんどが百済・高麗・呉などの渡来僧で占められていました。日本僧が仏教僧とはいかなるものかの本来を知らず、さらにいまだ規範とすべき確たる典拠・知識も伝わって無いならば、それを現に知る渡来僧をその任につける以外には無かったためでしょう。

なお、ここに日本で初出する僧都および法頭という職位には、僧でなく俗人が補されています。後に僧都については僧が任じられるようになりますが、法頭は俗人のままです。

僧都も法頭も、支那の僧官には見られない称です。おそらく僧都との称は、支那における僧官「沙門都」の沙門を僧として単純に改変してのものです。この場合の「都」は総摂の意で「統」に同じですが、上位の沙門統(僧統)から一つ降った意を表すために沙門都とされています。法頭が唐の何に倣い準じたものか不明で、あるいは百済の制に似たものがあったのかもしれませんが、後代の玄蕃寮の嚆矢あるいはそれに吸収されていった職位であったと思われます。

試行錯誤 ―僧官制の導入に貢献した留学僧たち

推古朝に創設された僧尼の監督職は、後に律令が整備されていわゆる僧綱が設置されるまでに、いくらかの変遷があったことが知られます。

◯癸卯。遣使於大寺喚聚僧尼而詔曰。於磯城嶋宮御宇天皇十三年中。百濟明王奉傳佛法於我大倭。是時。羣臣倶不欲傳。而蘇我稻目宿禰獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世。蘇我馬子宿禰追遵考父之風。猶重能仁世之敎。而餘臣不信。此典幾亡。天皇詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇天皇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。丈六銅像。顯揚佛敎恭敬僧尼。朕更復思崇正敎光啓大猷。故以沙門狛大法師福亮。惠雲。常安。靈雲。惠至。寺主僧旻。道登。惠隣。(惠妙。)而爲十師。別以惠妙法師爲百濟寺々主。此十師等宜能敎導衆僧。修行釋敎要使如法。凡自天皇至于伴造所造之寺。不能營者。朕皆助作。令拜寺司等與寺主。巡行諸寺。驗僧尼。奴婢。田畝之實。而盡顯奏。即以來目臣。闕名。三輪色夫君。額田部連甥爲法頭。
◯(大化元年〈645〉八月)癸卯きぼう〈8日〉、使いを大寺〈百済大寺・大官大寺.大安寺の前身〉に遣わして僧尼を喚び聚め、詔して曰く、
磯城嶋宮御宇天皇しきしまのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと〈欽明天皇〉の十三年の頃、百済の明王めいおう〈聖明王〉が仏法を我が大倭みかどに伝え奉った。この時、群臣の誰も(仏法を)伝えることを望まなかった。しかし、蘇我稲目宿禰そがのいなめのすくねはただ独りその法を信じた。天皇はそこで稲目宿禰に詔され、その法を奉めさせた。訳語田宮御宇天皇をさたのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと〈敏達天皇〉の世に、蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねが追って考父〈亡父〉の風に遵い、なお能仁ほとけの教えを重んじたのである。しかしながらその他の臣は(仏法を)信じることはなかったため、こののり〈仏教〉はまさに亡びようとした。天皇は馬子宿禰に詔し、その法を奉めさせた。小墾田宮御宇天皇をはりたのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと〈推古天皇〉の世に、馬子宿禰は天皇の奉為に、丈六の繍像〈刺繍の像〉と丈六の銅像を造って仏教を顕揚し、僧尼を恭敬した。朕〈孝徳天皇〉も更にまた正教〈仏教〉を崇め、大いなるのりを光啓〈弘めること〉しようと思う。そのようなことから、沙門狛大法師こまのだいほうし ・福亮〈呉僧?〉・恵雲・常安・霊雲・恵至・寺主 僧旻そうみん〈日文とも。遣隋使に随伴して約廿五年留学。帰国後、国博士に任じられる〉道登どうとう恵隣えりん (・恵妙 〈入唐留学僧〉)をして十師とし、別に恵妙法師を以て百済寺の寺主とする。これら十師等はよろしく能く衆僧を教え導き、釈教を修行すること必ず法の如くさせるようにせよ。およそ天皇から 伴造とものみやつこに至るまでが造っている寺が、よく造営出来ないならば、朕が皆助け作ることにする。そこで寺司てらのつかさ〈寺を管理する俗人の職〉等と寺主とを任命する。諸寺を巡り行き、僧尼・奴婢、そしてその田畝たうね〈寺に属す田畑〉の実情を検分して、ことごとく明らかとして奏せよ」
と仰せになった。そこで来目臣くめのおみ名を闕く。三輪色夫君みわのしこぶのきみ額田部連甥ぬかたべのむらじおいを以って法頭とした。

『日本書紀』巻廿五 大化元年八月癸卯条
(新訂増補『国史大系』, vol.1, pt.2, pp.221-222)

その詳細がどのようなものであったかは不明であるものの、いわゆる大化の改新の際に、推古天皇代にて僧尼の監督職として設けられていた僧正・僧都とは別に、孝徳天皇は十師の制を設けています。これは唐における十大徳の制に倣ったものだと考えられており、国博士に任じられた僧旻の唐における経験から、その助言によって制定されたものと思われます。そして僧旻や恵妙など、十師に任命されたおそらく全員は入唐留学経験を有する学徳優れた人ばかりであったようです。

しかしながら、この十師の制は長続きしなかったようで、『書紀』からは「白雉二年〈651〉三月戊申条」を最後にその名が見られなくなっています。その代わり、そのおよそ二十年後には、僧都に僧が任じられた記事が見られます。

◯戊申。以義成僧為小僧都。是日。更加佐官二僧。其有四佐官、始起于此時也。
◯(天武天皇二年〈673〉十二月)戊申ぼしん〈27日〉義成ぎじょうほうしを以て小僧都とする。この日、更に佐官さかん〈補佐官〉として二僧を加えた。これに四人の佐官を置くことは、始めてこの時に起こる。

『日本書紀』巻廿九 天武天皇二年十二月戊申条
(新訂増補『国史大系』, vol.1, pt.2, p.334)

ここに「少僧都」とあるのは、僧都の職位に大・小の違いがすでにあったことを示すものです。『書紀』にはそのような記事がありませんが、おそらくこれ以前に大僧都が設けられ、誰か俗人ではなく僧を任官していたと思われます。十師の制が廃された後は、僧正・僧都の制に復されていたのでしょう。

朝廷としても僧尼を監督・統制する制を定めるにあたり紆余曲折し、試行錯誤していたのですが、そもそも僧尼の根本的行動指針は、推古天皇も「夫れ出家者は頓に三宝に帰りて、具に戒法を懐つ」と言ったように、戒法にあります。また十師の任命に際して孝徳天皇は「釈教を修行すること要ず法の如くせしめよ」すなわち「如法にせよ」と言っていますが、ここでの「法」とはただ仏教の教学的なことだけではなく戒法のことも含めたものと解して誤りない。

しかし、当時の日本はいまだ仏教についての理解も浅く、またその肝心な戒法の正統が伝わっていないままの状態でした。出家には戒法が重要であるとの認識はすでに持たれていたからこそ「如法に」などと言われたのでしょうけれども、その法が未伝、あるいは無理解であればどうしようもありません。

もっとも、推古天皇から七代後の天武朝には、出家者に必須となる具足戒は未だ伝わっていなかったとは言え、唐で僧の具足戒の根拠としてその主たる位置を『十誦律』に変わり占めていた律蔵『四分律』、および道宣によるその注釈書『行事鈔』を唐で学び、持ち帰っていた者がありました。遣唐留学僧としては最初に派遣された十三人の一人、道光です。

第四十代天武天皇御宇白鳳四年乙亥四月請僧尼二千四百餘人大設齋會。僧尼雖多未傳戒律。天武天皇御宇詔道光律師爲遣唐使令學律藏。奉勅入唐經年學律。遂同御宇七年戊寅歸朝。彼師即以此年作一巻書名依四分律抄撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日大倭國浄御原天皇大御命勅大唐學問道光律師撰定行法已上 奥題云。依四分律撰録行事卷一已上。淨御原天皇御宇已遣大唐令學律藏。而其歸朝與定慧和尚同時。道光入唐未詳何年當日本國天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅歳者。厥時唐朝道成律師滿意懷素道岸弘景融濟周律師等盛弘律藏之時代也。道光定謁彼律師等習學律宗。南山律師行事鈔應此時道光賷來。所以然者。古德記云。道宣律師四分律鈔自昔傳來。而人不披讀空送年月。爰道融禪師自披讀之爲人講之。自爾已後事鈔之義人多讀傳。已上取意。
 第四十代天武天皇の御宇〈672-686〉、白鳳四年乙亥いつがい〈675〉四月、僧尼二千四百余人を請して大いに斎会さいえ〈僧尼に対する昼食の供養〉が設けられた。もっとも、僧尼の数は多くあったけれども未だ戒律は伝わっていなかった〈正統な仏教僧尼が不在であったことの指摘〉。そこで天武天皇の御宇、詔して道光律師を遣唐使(の一員)として律蔵を学ばせることとした。(そのため道光は)勅を奉じて入唐し、年を経て律を学んだ。そして遂に同御宇七年戊寅ぼいん〈678〉、帰朝した。その師〈道光〉はそこでこの年、一巻の書を著して『依四分律抄撰録文えしぶんりつしょうせんろくもん』と名づけた。その序には「戊寅ぼいん〈678〉九月十九日、大倭国淨御原天皇きよみはらのすめらみこと〈天武天皇〉の大御命、大唐学問道光律師に勅して行法を撰定した」已上とあり、その奥題には「『依四分律撰録行事』卷一」已上とある。淨御原天皇の御宇、すでに大唐に(道光を)遣わして律蔵を学ばしめていたのであり、その帰朝は定慧じょうえ和尚と同時であった。もっとも、道光が入唐したのは何年のことであったか未だ詳らかでない。
 日本国天武天皇の御宇元年壬申じんしん〈672〉から七年戊寅ぼいん〈678〉に至るまでの当時は、唐朝にて道成律師・満意・懷素・道岸・弘景・融済・周律師等により、盛んに律蔵が広まっていた時代である。道光は定めてそれら律師等にまみえ、律宗を習学したのであった。南山律師〈道宣〉の『行事鈔ぎょうじしょう』はまさにこの時、道光により賷来せいらい〈もたらされること。将来〉された。その然る所以は、『古徳記』〈未詳〉に「道宣律師の『四分律鈔』は昔〈道光〉より伝来していたけれども、人々は(それを)披読することはなく、空しく年月を経ていた。しかし、ここに道融どうゆう禅師〈聖武天皇代、良弁に請われて梵網布薩の説戒師を為したという僧〉が自らそれを披読し、人々の為にそれを講じた。それより以後、『行事鈔』の意義は人が多く読み伝えるようになった」已上取意とあることに基づく。

凝然『三国仏法伝通縁起』巻下
(新版『大日本佛教全書』 vol.62, pp.17c-18a)

これを伝えるのも、また奈良期からすれば遥か後代の凝然によってではありますが、当時いまだ正統な伝律は無かったものの、律学は道光によって一応すでにもたらされていたとされます。道光による『依四分律抄撰録文』なる書は現在散失してありませんが、凝然の当時は伝わっていたようであり、これは一応信頼してよい記述であるでしょう。そしてまた凝然によれば『古徳記』に基づき、道光によって初めて本邦にもたらされた、律学に必須の典籍の一つ『行事鈔』が当時広く読まれ研究されることはなく、そもそも律蔵が講じられることもなかった、とされています。

もっとも、この『伝通縁起』における凝然の所伝と『書紀』における道光の入唐に関する記事とは、些かの齟齬があります。『書紀』では道光が遣唐使に交じって入唐したのは白雉四年〈653〉のこととされており、ならばそれは天武帝ではなく孝徳帝の代となるためです。入唐の時期について、その年代が白雉か白鳳か、孝徳帝か天武帝かの混乱があるのです。

当時、留学僧がわずか三年の短期間で帰国することは有り得ないため、『伝通縁起』のここでの記述は不正確なものです。そもそも凝然自身も「道光の入唐は未だ何年か詳かならず」と言っているため、それを自覚していたのでしょう。

いずれにせよ道光という僧が唐に派遣されていたことは確実です。そしてそれは、『書紀』から十師の名が見えなくなった時期に重なります。そのようなことからすると、国家として確固たる制を立てるためには、僧尼という立場を成り立たせるには根本的な典籍となる律蔵の知識が不可欠であると考えられ、これを専ら学ぶ使命が、道光(だけとは必ずしも言えませんが)に与えられていたとは十分考えられることです。また、勅によって著されたものであったとされる道光の書が、当時の朝廷および仏教界に全く影響を及ぼさなかったとは思われず、少なくとも(範とする唐代の支那における)僧尼のなんたるかを朝廷が知る資料にされ、また僧尼をいかに統制するかの根拠として用いられた可能性は十分あります。

以上のことから、それまで朝廷が国家として僧尼を統括する制度を未だ確立できず、また僧尼が正しく僧尼ではないという無戒なる状態を、ただ手を拱いて放置していたわけではなかったことが知られます。

ところで、留学僧といえば、道昭(道照)〈629-700〉などは唐で玄奘に師事し、同じ部屋にて起居させるほど寵愛されて唯識や『倶舎論』を直接学んでいた、とされます。その伝承の真偽はともかく、当時の唐で長年滞在するのに具足戒を受けず、また持戒の行儀を学ばずにいたとは考えられないことです。道昭は、唐に滞在すること七年ばかりの斉明天皇六年頃〈660〉に帰国しています。

これは先の僧旻や恵妙など道昭以前の隋や唐への留学僧たちにも等しく言えることですが、彼等は皆、必然的に戒律について最低限の教養と行儀は備えていたと見なければなりません。ただし、その学問の目的は律学などではなく、当時の唐で盛んであった三論や法相の教学を習得することにあって、もっぱら律学を修めた者など少なくとも当時の史料には見出すことはできません。

したがって、そんな中で先の道光は例外的存在と言えます。道光は天武天皇から特に律蔵を学ぶことを託されていたとする、凝然の所伝をして後代の伝説と容易に断じることは出来ません。

律令の整備へ ―『飛鳥浄御原令』と『大宝律令』

その後、天武天皇十年、帝は法治国家として律令を整備することの詔を発しています。

◯二月庚子朔甲子、天皇。皇后共居于大極殿。以喚親王。諸王及諸臣。詔之曰。朕今更欲定律令。改法式。故倶修是事。然頓就是務。公事有闕。分人応行。
◯(天武天皇十年〈681〉)二月庚子朔甲子〈25日〉、天皇と皇后が共に大極殿に出御され、親王や諸王、および諸臣を召喚され、詔して曰く、
「朕は今また律令を定め、法式を改めようと思う。故に(諸王・諸臣は)共にこの事に取りかかれ。しかし頓にこの務めに就いたならば、公事に差し障りがあろう。そこで(適宜に)人を分担して行え」
と仰せられた。

『日本書紀』巻廿九 天武天皇十二年三月己丑条
(新訂増補『国史大系』, vol.1, pt.2, pp.356-357)

実際に律令が編纂され、施行されるのは次代の帝、持統天皇三年〈689〉のこととなりますが、このような動きに応じたものであったのでしょう、天武天皇十二年〈683〉には、後の僧綱と同様の構成となる僧正・僧都・律師という僧官が設けられています。

◯三月戊子朔己丑。任僧正。僧都。律師。因以勅曰。統領僧尼如法云々。
◯(天武天皇十二年〈683〉)三月戊子ぼし己丑きちゅう〈2日〉、僧正・僧都・律師を任命された。これに因んで勅され、
「僧尼をおさめること、法〈仏の教え〉の如くせよ」云々
と仰せになった。

『日本書紀』巻廿九 天武天皇十二年三月己丑条
(新訂増補『国史大系』, vol.1, pt.2, p.367)

ここでも僧尼を「如法に」統べることが下命されています。当時、国家として僧尼を無闇矢鱈に縛り付けようとする意図などなく、国法として僧尼を制するにしても出来得る限り「仏の教えに則る」形を取ろうとし続けていたことは、以上のことから明瞭です。そしてまたその形は、推古朝からそうであったように、唐における官僧に倣ったもので、遣唐使や留学僧によりその時々の唐代の様子が伝えられ、また戒律についての知識がもたらされて随時更新されていったものです。

天武天皇は大化以来の新たな政を進め、官司・官職を整備していく中、『書紀』の記述から見られるのは現世利益を期待してのものであったようではありますが、仏教に対する信仰も深めていました。これは天武天皇の晩年のことですが、天皇は度々斎会を催しています。

◯庚戌。請三綱。律師。及大官大寺知事。佐官。并九僧。以俗供養々之。仍施絁綿布。各有差
◯(朱鳥元年〈686〉正月)庚戌こうじゅつ〈9日〉三綱さんごう〈僧正・大僧都・少僧都〉と律師、および大官大寺〈百済大寺.後の大安寺〉の知事〈寺院の雑事など監督する僧〉と佐官、併せて九僧〈導師など法会の役僧〉を請い招き、俗の供養〈食事、いわゆる斎のことであろう〉を以てこれに供した。そしてあしぎぬ・綿・布を施したが、それぞれの分に応じた差異があった。

『日本書紀』巻廿九 朱鳥元年正月庚戌条
(新訂増補『国史大系』, vol.1, pt.2, p.381)

ここでいわれる三綱は、律令が定められて以降に各寺院に置かれた三種の監督職すなわち寺主・上座・都維那のことではなく、僧正と大・小の僧都の三位の総称です。その三綱と律師とが別途に扱われていることからすると、当時の律師という職はただ僧正や僧都の下位というだけでなく、何らか特別な役割が与えられていたのかもしれません。

天武天皇は律令の完成を見ることなく崩御〈686〉し、次代の持統天皇三年〈689〉に編纂なっています。いわゆる「飛鳥浄御原令」です。この時、諸史学者の見立てでは結局、この時に律は成っておらず、ただ令のみが施行されたものとされています。現在、「飛鳥浄御原令」が全二十二巻であったことは知られているものの、断片としても残っていません。

なお、先の道光は、この十一年後の持統天皇八年〈694〉四月頃に逝去しており、またその時には律師の職にあったことが知られます。

◯庚午。贈律師道光賻物。
◯(持統八年〈694〉四月)庚午〈17日〉、律師道光に賻物〈死者の遺族に贈られる金品〉を賜われる。

『日本書紀』巻卅 持統八年四月庚午条
(新訂増補『国史大系』, vol.1, pt.2, p.422)

それがいつからのことかは不明であるものの、唐で律学を修めていたという道光が律師に任官していたことは、これは先にも触れたことではありますが、この数年後に施行される「僧尼令」の編纂に少なからぬ影響を及ぼしていたと考えられます。

律を欠いたものとしてながら、ついに発布された「飛鳥浄御原令」ではありましたが、唐朝を範とするならば律令格式が揃って整備されてこそのもの。朝廷はさらに法整備を進めていかんとし、唐の『永徽律令えいきりつりょう』に倣い、律令としてより完成したものを目ざして、刑部親王おさかべしんのう藤原不比等ふじわらのふひとなどによって編纂され、まず「令」が成立したのが文武天皇四年〈700〉。翌年の大宝元年〈701〉に施行されています。ついに「大宝律令」が編纂されたのでした。

僧綱の成立

その「大宝律令」において、僧尼の監督省庁として設置されたのが治部省の管轄下に置かれた玄蕃寮 げんばりょう です。先にも述べたように、玄蕃寮は推古朝に設けられていた法頭という職を吸収あるいは継承し、さらに海外賓客の対応の役も付与されたものであったと思われます。

玄蕃寮
頭一人。(掌佛寺。僧尼名籍。謂。在京并諸國佛寺。及僧尼名籍也。供齋。蕃客辞見讌饗送迎。謂。凢諸蕃入朝者。始自入城。終于辞別。讌饗送迎䒭。皆惣主知。其送迎者。唯於京内。不出畿外也。及在京夷狄。監當舘舎謂。鴻臚舘也。事。) 助一人。大允一人。少允一人。大属一人。少属一人。史生四人。使部廿人。直丁二人。
玄蕃寮
かみ〈長官.従五位上〉一人。(仏寺、僧尼の名籍みょうせき〈僧籍〉 謂く、在京および諸国の仏寺、および僧尼の名籍である。供斎くさい〈斎会など朝廷が行う法要〉蕃客ばんかく 〈海外からの訪問客.蕃は本来、支那からみた異邦人を野蛮人とする蔑称〉の辞見・ 讌饗えんごう〈饗宴〉・送迎 謂く、およそ諸蕃の入朝者は、(京に)入城する始めから辞別の終わりまで、讌饗・送迎など皆すべて主知する。その送迎はただ京内に於いてのみして畿外には出ない。、および在京の夷狄いてき〈外国人.本来は異邦人を野蛮人・未開人とした蔑称〉 、館舎 謂く、鴻臚館のこと。の監当のことを掌管する。) すけ〈次官.正六位下〉一人。大允たいじょう〈判官.正七位下〉一人。少允〈従七位上〉一人。大属だいさかん〈主典.従八位上〉一人。少属〈従八位下〉一人。史生ししょう〈下級書記官〉四人。使部しぶ〈雑役人〉廿人。直丁じきちょう〈使用人〉二人。

『令集解』巻一 玄蕃寮条
(新訂増補『国史大系』, vol.22, 『令集解』, p.41)

玄蕃寮が管掌したのは、仏教寺院および僧尼の名籍の管理そして斎会など法会の統括や、国外使節の接待と鴻臚館の管理です。玄蕃寮の玄はこの場合、僧尼を意味し、蕃は海外を意味したものです。なぜ僧尼の管理と海外からの賓客の対応という少々奇妙に思われる組み合わせの役が与えられたかの理由は不明です。おそらくは当時、外国人と言えば僧が多く、また日本僧にも留学僧が数多あって海外事情に通じる者が多かったことによるのではないか、などと考えられます。もっとも、その四等官など役人に就くのはもちろん俗人で、行政における事務的職務を果たすものであり、その定員は以上のとおりです。

その『大宝律令』の一篇として、僧尼を統制するための法「僧尼令」があります。「僧尼令」は、支那の「道僧格どうそうきゃく」を範としたものです。「道僧格」とは、唐太宗の治世、貞観年間〈627-649〉に布かれた、支那の道教における道士・女冠および仏教の僧尼を監督するための法規です。日本では道教の思想はともかくとして、宗教として受容され信仰されることはなかったため、道教に関するものは不要であってこれを廃したものを参考として、仏教の僧尼についての規定に限定して編纂されたのが「僧尼令」です。

さて、「僧尼令」発布にあたり、朝廷は大安寺においてその内容の講説をなしています。

六月壬寅朔。令正七位下道君首名説僧尼令于大安寺。
(大宝元年〈701〉)六月壬寅じんいん〈1日〉、正七位下道君首名みちのきみおびとなをして「僧尼令」を大安寺〈当時の名は大官大寺.「僧尼令」施行当時は未だ現在の平城京の地にはなく、高市郡夜部村にあって当初は高市大寺と称したが677年に大官大寺と改称〉にて講説させた。

『続日本紀』巻二 大宝元年六月壬寅条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, p.11)

新たに「僧綱」との称をもって設置された機関については、天武朝からすでに設けられていた僧正・僧都・律師という僧官の制がそのまま用いられ、以前からその任にあった僧らが留任されています。

大寶元年辛丑 第五年 同帝
 僧正惠施 入滅 大僧都智淵 藥師寺法相宗
 少僧都義成 律師善住 元興寺
 辨昭 或本無之
《中略》
大寶二年壬寅 同帝
 僧正智淵 同月十五日癸丑僧正。十二月滅法相宗。藥師寺惠輪在俗弟子 
 大僧都善住 同日任。不經少僧都。元興寺。元法師
 少僧都善成 〈義成の誤写〉 入滅 辨昭 正月十五日任。或本直任
 律師僧昭 同日任 辨通 同日任。或本無之。
大宝元年辛丑しんちゅう 第五年 〈701〉 同帝 〈文武天皇〉
 僧正恵施えせ 入滅・大僧都 智淵ちえん 薬師寺。法相宗
 少僧都義成ぎじょう ・律師善住ぜんじゅう 元興寺
 弁昭べんしょう 或る本にはこの記述無し
《中略》
大宝二年壬寅じんいん 〈702〉 同帝
 僧正智淵 同月十五日癸丑に僧正昇任。〈『続紀』では廿五日任〉十二月滅。法相宗。薬師寺恵輪の在俗の弟子
 大僧都善住 同日任〈『続紀』では廿五日任〉。少僧都を経ずに昇任。元興寺。元法師
 少僧都義成 入滅 ・弁昭 正月十五日任。〈『続紀』では廿五日任〉或る本では(律師を経ずに)直任
 律師僧昭そうしょう 同日任〈『続紀』では廿五日任〉 弁通べんつう 同日任。或る本にはこの記述無し。

『七大寺年表』
(新版『大日本佛教全書』, vol.83, p.348)

とはいえ、以上のように、文武天皇二年三月廿二日から僧正に任じられていた恵施は、その日が伝わっておらず不明なのですが、大宝元年(文武天皇五年)に逝去しています。恵施は、白雉四年に道光や道昭などと共に入唐留学していた人です。そこで大宝二年に大僧都であった智淵が僧正に昇任され、律師であった善住が一足とびに大僧都に補任されたようです。

しかし、智淵もまた就任してすぐに没してしまったため、翌三年〈703〉三月廿四日に義淵が僧正に補任されています。以降神亀五年〈728〉十月までの二十五年の非常な長きに渡り、義淵は僧正職にあり続けることとなっています。その最初の二年に僧正が立て続けに死没し補任していた朝廷としても、これは「僧尼令」にもそう規定していることですが、僧綱の職位にある僧が頻繁に変わることを避けたのでしょう。

それから十六年後、太政官は僧綱に対し、以下のような告知をしています。

○冬十月庚午。太政官告僧綱曰。智鑒冠時。衆所推譲。可爲法門之師範者。宜擧其人顯表高德。又有請益無倦繼踵於師。材堪後進之領袖者。亦錄名臘。擧而牒之。五宗之學。三蔵之教。論討有異。辨談不同。自能該達宗義。最稱宗師。毎宗擧人並錄。次德根有性分。業亦麁細。宜随性分皆令就學。凢諸僧徒。勿使浮遊。或講論衆理。學習諸義。或唱誦經文。修道禪行。各令分業。皆得其道。其崇表智德。顯紀行能。所以燕石楚璞各分明輝。虞韶鄭音不雜聲曲。將湏象德定水瀾波澄於法襟。竜智慧燭芳照聞於朝聽。加以。法師非法還墜佛敎。是金口之所深誡。道人違道。輙輕皇憲。亦玉條之所重禁。僧綱宜迴靜鑒。能叶清議。其居非精舍。行乖練邪。任意入山。輙造菴窟。混濁山河之清。雜燻燻霧之彩。又經曰。日乞告穢雜市里。情雖逐於和光。形無別于窮乞。如斯之輩愼加禁喩。
◯(養老二年〈718〉)冬十月庚午〈10日〉、太政官、僧綱に告げて曰く、
「その智鑑〈賢明で観察力に勝れていること〉が時に冠たるものであり、衆徒に推譲される、法門の師範となりえる者があれば、よろしくその人を推挙して、その高徳を顕表せよ。また、(仏の教えを)追求して倦むことがなく、その踵を師に継いだ人材で、後進の領袖となるに堪える者があるならば、またその名と法臘とを記録し、推挙してこれを報告せよ。五宗〈華厳宗・法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗〉の学、そして三蔵の教えは、(それぞれ宗によって)討論があり、(見所の)異なりがあってその主張は同一ではない。自らよく(その)宗義に該達していれば、(その僧を)第一の宗師と称す。各宗ごとに推挙する人があれば、いずれも記録せよ。
 次に、(人の)徳根〈長所〉には性分〈各自持って生まれた性質〉があり、業〈学業〉には麁細〈粗雑と細密.優劣〉がある。よろしく(僧それぞれの)性分にしたがって、皆を就学させよ。およそ諸々の僧徒は、(その居所を定めず)浮遊させてはならない。あるいは(仏教について)衆理を講論し、諸義を学習し、あるいは経文を唱誦して禅行を修道するなど、それぞれ(自らの性分に応じて)業を分かって皆にその道を得させよ。
 その智徳を崇め表し、顕わとなったその徳行と能力とを記録することは、燕石〈燕山から産出する玉に似て玉でない偽物〉と楚璞〈未だ磨かれていない本物の玉〉が各々輝きを異にし、虞韶〈虞国の美しい音楽〉と鄭音〈鄭国の低俗な音楽〉の声曲が混じり合うことがない所以である。まさにすべからく象徳〈象のように偉大な徳ある僧〉の定水瀾波は法襟に澄みわたり、竜智〈龍のように優れた知恵ある僧〉の慧燭芳照、朝聴〈天聴.天皇の耳〉に聞こえるところとなろう。しかのみならず、法師が仏法を誹謗し、かえって仏教を失墜させることは、金口〈仏陀の言葉〉が深く誡めるところである。道人が道に違い、たやすく皇憲〈帝の定めた法〉を軽んじることは、また玉条〈律令〉が重く禁じるところである。
 僧綱は、よろしく静鑑を迴し、よく(僧尼らをして)清議に叶うものとせよ。その居所を精舍とせず、練行にそむき、恣に山に入り、たやしく菴窟〈道場〉を造ることは、山河の清廉さを混濁させるものであり、(自然の)煙霧の彩りを混濁させ汚すことである。また経〈未詳〉に曰く、『日に乞い告げながら市街に穢れ雑じわる。その情としては和光〈和光同塵〉に倣ったものだとしても、その形は窮乞〈物乞い〉に異なることがない』と。そのような輩は慎んで、禁喩を加えよ」

『続日本紀』巻八 養老二年十月庚午条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, pp.74-75)

この太政官による告示は、現在『令義解りょうのぎげ 』などによって知られる「僧尼令」の内容に多く重なるものです。『大宝律令』における「僧尼令」と『養老律令』におけるそれとがどの程度同じであったか、今もはっきりとはわかっていません。あるいはこのような告示が当時あったことにより、『養老律令』編纂時に該当する条、あるいは文が加上されたのではないかとも考えられます。その条とは、「第五 非寺院条」・「第十三 禅行条」・「第十四 任僧綱条」などです。

なお、しばしば誤解されているようですが、僧綱が日本全国の寺院・僧尼を掌握していたわけではなく、また朝廷の官僚機構の中、治部省や玄蕃寮を超えてその上に位置していたのでも、その支配下にあったのでもありません。

僧綱にある僧を位階という観点から見たならば、『令集解』では大宝元年当時、僧綱は正五位、大小の僧都および律師は従五位に准じていたとされ、『続日本紀』(以下、『続紀』)では宝亀四年十一月の詔で、その扱いを一等上げ、僧正は従四位、大小の僧都は正五位、律師は従五位に准じるものとしています。玄蕃寮の かみ〈長官〉が従五位上であったことからすると、僧綱の位は玄蕃寮の役人を上回るものでした。したがって、僧綱は玄蕃寮とはまた別の、独立した特殊な機関であったということが出来ます。

ただし、行政の手続き上は僧綱は玄蕃寮の下に位置づけられ、その行政的権限の範囲については畿内に限られており、しかもその役割は限定されています(寺院内部の統制・管理は各寺に置かれた寺主・上座・都維那の三網の任)。そのように行政面では僧綱にそれほど大きな力も役割も与えられてはいません。ただし、仏教の政治や制度にかかわる事柄に関し、天皇や太政官から随時諮問されてその是非を判じ、上奏する程の力は有しています。これは俗人によってのみ構成される玄蕃寮などでは果たし得ない、僧綱の重要な役割でした。

さて、上来示したように、推古朝における事件を契機とし、またその後、唐の法制に倣った法整備に伴い長い時日と多くの人員の努力を経てようやく施行された『大宝律令』の一篇、僧尼を統括するため布かれた国法が「僧尼令」です。それは、たとえば現代のタイ王国およびラオス人民民主共和国における、国家が僧を統制するための「サンガ法」と、無論その内容に異なる点は多々あるものの、位置づけとしては同様のものです。平安中期には摂関政治の台頭と貴族・寺院の荘園の拡大による律令制の崩壊とそれに伴う僧侶らの堕落によって空文化するものの、しかし一応は明治維新を迎えるまで有効であった国法でもありました。

ところが、そのようにして満を持して整備された律令のもと、僧綱が僧尼の統括機関として機能することが期待されたのでしょうけれども、しかし、どうやら事はそう上手く運ばなかったようです。