唐招提寺、それは鑑真により創建された寺院です。それは今や律宗の総本山として、また数々の国宝・重要文化財を有する史跡としてよく知られています。
鑑真は唐から日本本土へ渡来したのが天平勝宝五年〈753〉十二月二十日、平城京に至ったのは翌六年〈754〉二月四日のことです。そしてその入京に対する聖武上皇の喜びは非常に大きく、同年三月には日本における受戒伝律の一切を任す詔が、良弁を通じて鑑真に伝えられています。
詔曰大德和尚遠渉滄波投此國誠副朕意喜慰無喩朕造此東大寺經十餘年欲立戒壇傳受戒律自有此心日夜不忘今諸大德遠來傳戒冥契朕心自今以後受戒傳律一任大和尚
(聖武上皇の)詔に曰く、
「大徳和尚、遠く滄波を渉り、この国に投る。誠に朕が意に副う。喜慰、喩ること無し。朕、この東大寺を造って十余年を経、戒壇を立てて戒律を伝受せんと欲す。この心あるにより日夜忘れず。今、諸々の大徳、遠く来て戒を伝うること冥に朕が心に契えり。今より以後、受戒伝律、一えに大和尚に任す」
『唐大和上東征伝』(宝暦十二年 東大寺戒壇院版)
その一月後の四月には東大寺盧遮那仏殿の前に戒壇が築かれ、といってもそれは菩薩戒の授受であったのですが、初の受戒が執行されたのでした。そしてその翌五月一日、恒久的に(具足戒の)授戒を執行する場として戒壇院創建の詔勅が発せられています。
天平勝寶六年甲午五月一日。被下戒壇院建立之宣旨二十一箇國寄造之。勅使中納言藤原高房。壇四角内銅四天王立像者。同七年九月造畢。同年十月十三日甲午。■糸+諸大會供養。請僧百二十人。《中略》
天平勝寶七年十月十五日勤行受戒。
天平勝宝六年甲午〈754〉五月一日、戒壇院建立の宣旨が下される。二十一箇国から(その資金が)寄せられこれを造る。その勅使は中納言藤原高房。壇の四角の内に銅の四天王立像は同七年〈755〉九月に造り畢る。同年十月十三日甲午。(戒壇院落慶の)大会が設けられ、僧百二十人を招いて供養した。《中略》
天平勝宝七年十月十五日、受戒を勤行した。
『東大寺要録』巻四 諸院章第四
(筒井英俊校訂『東大寺要録』, p.99)
この時創建された戒壇院は、現在はただ戒壇堂のみ遺されていますが、南に戒壇、北に講堂があってその三面に僧坊を配置し回廊を廻らせた比較的規模の大きなものであったことが知られます。国中の者がここに集って受戒した後しばらく留まり、最低限の律について受学することが目的であったものならば、ある程度の規模となるのはむしろ当然のことでした。一年五ヶ月の時を要して戒壇院が創建されて以降、それまで盧遮那仏殿前に設置された戒壇にて行われていた授戒は戒壇院にて執り行われるようになったようです。
この前後、天平勝宝七年〈755〉のいつ頃のことかは明瞭でありませんが、戒壇院の北側に鑑真の居所として唐禅院も建立され、いよいよ施設の整備が進められています。
ただし、前項にて述べたように、聖武上皇崩御二ヶ月程前の天平勝宝八年〈756〉四月にも盧遮那仏殿前にて授戒儀礼が行われていたことから、そのすべてが完全に戒壇院に移行したというのでもなかったようです。もっとも、『東大寺要録』の記録が不正確であった可能性もありますが、その儀礼が死を目前とした聖武上皇の為に行われたものであったという特殊性から、戒壇院がすでにあって機能していても、敢えて大仏殿前にて行われたように菲才は考えています。
いずれにせよ、鑑真の渡来により、朝廷は国家として年々着々と戒律の学と行の両面にわたって整備を進め、寺家・僧徒が如法に持戒することを強く奨励していったことが知られます。
○丙寅。勑曰。如聞。護持佛法。無尚木叉。勧導尸羅。実在施礼。是以。官大寺、別永置戒本師田十町。自今已後。毎為布薩。恒以此物量用布施。庶使怠慢之徒日厲其志。精勤之士弥進其行。冝告僧綱。知朕意焉。
○(天平宝字元年〈757〉閏八月)丙寅〈廿一日〉、勅に曰く。
「このように聞く。仏法を護持するには木叉〈波羅提木叉.prātimokṣaの音写。戒本〉に尚えることはなく、尸羅〈śīlaの音写.戒〉を勧導するには実に礼〈儀礼.ここでは布薩の意〉を施すことに在ると。このことから、官の大寺に、別して永く戒本師の田十町を置く。今より已後、布薩〈poṣadhaの音写.説戒.新月と満月の日に行われる僧伽の清浄性を確認する為の最も重要な儀礼〉を為す每に、恒にこの物〈田十町から上がる収益〉を以って布施に量用せよ。庶わくは、怠慢の徒をして日々にその志を厲まし、精勤の士をしていよいよその行を進ませるであろう。宜く僧綱に告げて朕の意を知らしめよ」
『続日本紀』巻廿 天平宝字元年閏八月丙寅条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, p.242)
ここで孝謙天皇(高野天皇)の勅にある「如聞」とは、布薩という儀礼が仏教僧として最も重要であることを、鑑真など唐僧から聞いてのことであったのでしょう。そこで天皇は寺家が本来毎月二回必ず行うべき布薩のための田を与えています。そもそも布薩を行うのに大きな資金など要りませんが、いつの世であれ優秀な者に経済的支援を増してさらにその優を伸ばすこと、また愚鈍で凡庸な者には前に餌をぶら下げ強いて動かせることは、現実問題として必要です。
このように官として公として、日本の僧徒に戒律が遍く護持されることを期して様々な施策が打ち出され、唐禅院および戒壇院にあった鑑真らのもとに求道の人が集まっていきました。ところが、実際にそのような僧徒が鑑真の元に集ったとき、現実的困難に直面していたことが知られます。その多くが経済的後ろ盾が無いことが原因で挫折していたというのです。
時有四方來學戒律者縁無供養多有退還此事漏聞于天聴仍以寚字元年丁酉十一月廿三日勑施備前國水田一百町
当時、四方から戒律を学びに来る者があったが、供養〈経済的支援〉が無いことからその多くが挫折していた。この事が天皇〈孝謙天皇〉にも漏れ聞こえる所となり、天平宝字元年丁酉〈757〉十一月廿三日〈『続紀』では廿九日〉、勅によって備前の国の水田一百町が施された。
『唐大和上東征伝』(宝暦十二年 東大寺戒壇院版)
なんらかの経済的背景がなければ、何かを物事に着手し、それを継続的に行うことなど出来はしないことは、古今東西変わることがありません。これは日本の僧寺のあり方として、なにより鑑真とその弟子達にとって解決すべき最重要課題であったようです。鑑真と思託等が十年の間、幾多の失敗・挫折を乗り越えて日本に伝戒したその目的を考えれば、それも至極当然のこと。ただ形式上伝えただけでメデタシメデタシとするわけにはいかない。
そこで孝謙天皇から施与された「備前国水田一百町」は、鑑真のもとに全国から集う僧徒への経済的支援となる現実的配慮でした。そしてそれは、鑑真個人に対してのものではなく、名目上は唐禅院に附されたものです。そしてそれはまた、前年に崩御していた聖武上皇の後生を願い、さらに治国の安寧なることを祈ってのものでもありました。いわゆる廻向のためです。
壬寅。勑以備前国墾田一百町。永施東大寺唐禪院十方衆僧供養料。伏願。先帝陛下薰此芳因。恒蔭禪林之定影。翼茲妙福。速乘智海之慧舟。終生蓮華之寶刹。自契等覺之眞如。 皇帝皇太后如日月之照臨。並治萬國。若天地之覆載長育兆民。遂使爲出世之良囙成菩提之妙果。
(天平宝字元年〈757〉十一月)壬寅〈29日〉、勅に曰く、
「備前国の墾田一百町をもって、永く東大寺唐禅院の十方衆僧の供養料として施す。伏して願わくは、先帝陛下〈聖武帝〉がこの芳因〈喜ばしい行為。ここでは唐禅院への布施〉によって薫じられ、常に禅林〈修禅寺院。ここでは特に唐禅院を意図したものであろう〉の定影〈修禅による功徳〉に覆われて、この妙福に助けられ速かに智海の慧舟に乗り、終には蓮華の宝刹〈浄土〉に生まれ変わって自ら等覚の真如に達せられることを。そして、皇帝〈孝謙天皇〉・皇太后〈光明皇太后〉は日月が輝くようにして共に万国を治め〈当時、孝謙天皇だけでなく光明皇太后も執政していたことを示す言葉〉、天地が覆載〈万物を覆い、支えていること〉しているようにして長く兆民〈万民〉を育み、それが遂には出世〈出世間。脱俗〉の良因となって菩提の妙果を成就することを」
『続日本紀』巻廿 天平宝字元年十一月条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, p.243)
ついにその翌年、淡路廃帝(淳仁天皇)に禅譲した孝謙上皇は、そのような重責と雑事を伴う官職から鑑真を解き、ひとえに戒律について後進を指導することが出来るよう取り計らう詔を出しています。
天平寶字二年八月庚子朔。高野天皇禅位於皇太子。詔曰。《中略》
其大僧都鑒眞和上。戒行轉潔。白頭不變。遠渉滄波。歸我聖朝。号曰大和上。恭敬供養。政事躁煩。不敢勞老。冝停僧綱之任。集諸寺僧尼。欲學戒律者。皆属令習。
天平宝字二年〈758〉八月庚子朔〈1日〉、高野天皇〈孝謙天皇〉が皇太子〈大炊王〉に禅位〈禅譲〉したまう。詔して曰く、《中略》
「そも大僧都鑑真和上は、戒行ますます浄潔であって白頭〈白髪頭。老人・老体であること〉となっても変わらず、遠く滄波〈青海原〉を渉り、我が聖朝に帰した。これを『大和上』と号して恭敬・供養し、政事の躁煩〈さわぎ落ち着かないこと〉にあえて老体を苦労させないよう、よろしく僧綱〈僧尼の監察機関.鑑真はその大僧都位〉の任を停めよ。そして諸寺の僧尼を集め、戒律を学ばんと欲する者は、皆(鑑真に)属して習わしめよ」
『続日本紀』巻廿一 天平宝字二年八月条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, p.253)
鑑真を僧綱から解任するその理由として「僧尼令」に規定する通り、「老体」であるためであることも言及されています。実際この年、鑑真は齢七十一となっていました。
第十四 任僧綱條
凢任僧綱。謂律師以上。必須用德行能化徒衆。道俗欽仰。綱維法務者。 謂。僧綱者。僧正。僧都。律師也。德行者。内外之稱也。在心爲德。施事爲行也。綱維者。張之曰綱。持之曰維。言張持法務。令其不傾弛也。 所擧徒衆。皆連署牒官。若有阿黨朋扇。 謂。阿黨者。阿曲朋黨也。朋扇者。朋黨相扇也。 浪擧無德者。百日苦使。一任以後。不得輙換。若有過罸。及老病不任者。 謂。過罰者。十日苦使以上也。僧綱若犯此罪者。唯解其任。不更苦使也。老病不任者。緣老若病。不任其事。 卽依上法簡換。
第十四 任僧綱条
およそ僧綱 律師以上を謂う。 に任ずる際は、必ずすべからく徳行あってよく衆徒を指導する、道俗が欽い仰いで、法務の綱維〈模範・規範〉たる者を用いなければならない 謂く、「僧綱」とは、僧正・僧都・律師を云う。「徳行」とは、内外の称である。心に在るのを徳とし、事に施すことを行とする。「綱維」とは、これを張るのを「綱」といい、これを持つのを「維」という。法務を張り持って、それをして傾いたり弛ませないことを云う。。推挙する徒衆は、その全員が連署して官に(その推薦文書を)提出せよ。もし阿党朋扇して 謂く、「阿党」とは、阿曲朋党である。「朋扇」とは、朋党相扇ぐことを云う。、浪りに無徳の者を推挙したならば、百日苦使〈強制労働〉せよ。(その僧を僧綱に)一任して以後は、輙く交代させてはならない。もし過罰があった場合、および老病にして任えなければ 謂く、「過罰」とは、十日苦使以上を云う。僧綱がもしこの罪を犯したならば、ただちにその任を解け。更に苦使してはならない。「老病にして任えなければ」とは、老いもしくは病に縁って、その事に堪えないことを云う。、ただちに上記の方法に依って選び交代させよ。
「僧尼令」(新訂増補『国史大系』, vol.22, 『令義解』, p.85)
鑑真が僧綱を解任されたことについて、一昔前は譲位に伴う朝廷内の勢力争いの一環であったなどと、何でもかんでも氏族や公家間の政治的対立構造でもってのみ競って見る学者輩が多くありました。けれども、そのような見方は正しくなく、ただ高齢の唐僧である鑑真への配慮と、なにより鑑真も朝廷も共に有していた当初の目的、「日本に戒律を伝え、定着・継続させる」ことを果たすためのものであったに過ぎません。
しかし、東大寺の唐禅院や戒壇院では、それが官寺であることもあり、その目的を満足にすることは出来なかったようです。そこで鑑真らがより自由にその目的を果たすため、学徒の経済問題を解決すべく翌年建てたのが唐招提寺でした。
鑑真らによって唐招提寺が建立されることになる経緯について、先に引いた一節と重複しますが、『東征伝』は以下のように伝えています。
時有四方來學戒律者緣無供養多有退還此事漏聞于天聽仍以寚字元年丁酉十一月廿三日勑施備前國水田一百町大和尚以此田欲立伽藍時有勑旨施大和尚園地一區是故一品新田部親王之舊宅普照思託請大和尚以此地爲伽藍長傳四分律藏法勵四分律疏鎭道場餝宗義記宣律師鈔以持戒之力保護國家大和尚言大好卽寚字三年八月一日私立唐律招提名後請官額依此爲定還以此日請善俊師講件疏記等所立者今唐招提寺是也初大和尚受中納言從三位氷上眞人之延請就宅窺甞其土知可立寺仍語弟子僧法智此福地也可立伽藍今遂成寺可謂明鑒之先見也大和尚誕生象季親爲佛使經云如來處處度人汝等亦斅如來廣行度人大和尚旣承遺風度人逾於四萬如上略件及講遍數
当時、(日本国中)四方から来たって戒律を学ぼうとする者があったけれども、供養が無いことにより、その多くが(中途に挫折し)退還していた。この事は天聴に漏れ聞こえるまでとなり、そこで天平宝字元年丁酉〈757〉十一月廿三日、(孝謙天皇は)勅して備前国の水田一百町を(鑑真の居所として建てられた東大寺唐禅院に)施された。大和尚はこの田(からの収益を)原資として(新たに律学のための)伽藍を建てることを望まれた。そこでまた勅旨があって大和尚に園地一区を施された。それは元一品親王、新田部親王の旧宅であった。普照と思託は、大和尚がこの地を伽藍とし、長く『四分律蔵』、法励の『四分律疏』、鎮道場『餝宗義記』、道宣律師の『行事鈔』を伝え、持戒の力をもって国家を保護することを請うた。すると大和尚は、
「大いに好し」
と言われた。そこで天平宝字三年〈759〉八月一日、私に唐律招提の名を立て、後に官額〈朝廷から下賜される寺号の額〉を請うた。これにより(その寺号が正式に)定められた。またこの日をもって善俊師に請い、件の疏記〈法励『四分律疏』・定賓『四分律疏飾宗義記』〉等を講じさせた。そうして建てられたのが、今の唐招提寺である。そもそも、それは大和尚が中納言従三位氷上の真人の招きを受け、宅〈新田部親王旧宅〉において窺かにその土を甞めたところ、ここに寺を立つべきことを知ったからこそであった。すなわち、(大和尚は)弟子の僧法智に語られていたのである、
「ここは福地である。伽藍を立てようではないか」
と。今遂に寺と成る。まさに言うべきである、明鑑〈曇り無き鏡.転じて優れた見識〉による先見であったと。大和尚は象季〈像法期.仏教が伝えられてもその証果を得る者が無くなるとされる時代〉に誕生して親く仏使となる。経〈『摩訶僧祇律』〉に「如来処処に人を度す。汝等、また如来に効って広く度人を行ぜよ」とある。大和尚はすでに(その説の通り如来の)遺風を承け、人を度すこと四万人を越えていた。先に粗々示した(大和尚の)こと、および講説した遍数の通りである。
『唐大和上東征伝』(宝暦十二年 東大寺戒壇院版)
先に述べたように、唐招提寺は、鑑真の本来の目的を果たすため、日本の僧徒に正統な戒律を経済的憂慮なく学ばせ根付かせるために、その弟子思託と普照の勧めによって創建されたのでした。伝承では唐招提寺が創建されたのは天平宝字三年〈759〉八月一日のことであったとされます。
命名された「唐招提寺」なる寺号は、戒律正伝を目的として渡来した鑑真の思いが真に込められたものとなっています。すなわち、招提とは「四方」を意味するサンスクリット caturdiśāまたはcaturdeśa(四つの方向・四つの領域)の音写「招闘提奢」の略です。そこで招提寺とは、特定の地域に限定されたものでない、四方の僧伽(比丘達・出家者達)に属する精舎であること、四方僧伽の寺院が意味されます。
云招提者亦訛略也。世依字解。招謂招引。提謂提携。並浪語也。此乃西言耳。正音云招鬪提奢。此云四方。謂處所爲四方衆僧之所依住也。
いわゆる「招提」とはまた訛略〈訛語の略語〉である。世間は(梵語の音写であることを知らず)この字に依って解釈して、招とは「招引」の意であり、提とは「提携」の意であるという。いずれも浪語〈妄説〉に過ぎない。これはすなわち西方〈印度〉の言葉である。その正音を云えば「招闘提奢〈caturdiśā〉」であって、この国で云う「四方」であり、その意は「四方衆僧が依って住する所」である。
道宣『続高僧伝』巻二(T50, p.435a)
そもそも「招提」なる語は、阿含経など種々の漢訳経典において招提物 〈四方僧伽に属する物品〉であるとか招提僧坊〈四方僧伽の僧坊〉などと漢訳仏典に頻出しています。ここで南山律宗祖道宣が以上のように言及していることからも知られるでしょうが、招提とはすでに支那において寺院の称、特に官立でなく私寺の称としてまま用いられていた、その先例に倣ったものです。
(招提以外にまた蘭若との語もよく用いられていますが、これは[S].araṇyaもしくは[P]araññaの音写、阿蘭若の略で森林の意。それが転じて都市からやや離れた閑静な地、およびその地にある精舎を言うものです。)
したがって、それは特別な名称などでは全くなく、その故にこそ鑑真の意図がむしろ的確に反映された寺名でした。伝戒の唐僧のもとに四方から集まる求法の徒の拠り所となる寺、それがまさしく唐招提寺です。
『続紀』はまた、いわゆる「鑑真卒伝」の中、以下のようにも伝えています。
及皇太后不悆。所進醫藥有驗。授位大僧正。俄以綱務煩雜。改授大和上之号。施以備前國水田一百町。又施新田部親王之舊宅。以爲戒院。今招提寺是也。和上預記終日。至期端坐。怡然遷化。時年七十有七。
皇太后〈光明皇后〉の不悆〈不予。天子や貴人が重い病で倒れること〉に際しては、(鑑真が)進めた医薬に効験があったことから、位「大僧正」を授けられた〈天平宝字七年・興福寺本『僧綱補任』説〉。しかし、俄に綱務〈全国の僧尼・寺院を統括する官職たる僧綱としての勤め〉が重荷となったため、改めて「大和上」の称号を授け、備前国の水田一百町を施した。そしてまた新田部親王〈天武天皇の皇子。一品親王〉の旧宅を施し、これを戒院とした。今の唐招提寺がそれである。
『続日本紀』巻廿四 天平宝字七年六月条 「鑑真卒伝」
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』後篇, p.294)
前項において述べたように、今示した「鑑真卒伝」の一節にはその編者に依る事実誤認の跡が見られ、また時系列が乱れていますが、ここでそれは問題ではない。ここで見るべきは、天皇が僧綱の職を解き、鑑真が渡来した本来の目的である律学を伝え弘めるための場所を提供するため、新田部親王の旧宅を下賜していることです。それは鑑真の置かれた状況やその意志を汲み取ってのことでした。
さて、唐招提寺が創建されたその理由については、鑑真に唐から付き従ってきた人であって日本で出家して僧となった如法の弟子であり、唐招提寺第五世を継いだ豊安がより詳しく書き残しています。それは天長八年〈831〉、豊安が淳和天皇に対して上奏した書にある一節にあります。
天平寶字元年中更有別勅。加大和上之號。詔。天下僧尼。皆師大和上習學戒法也。自爾以来。二百五十戒授與此土佛弟子。時有四方來學者。緣無供養。多有退還。同年十一月廿三日勅賜備前國水田一百町。充十方僧供料。一聽大和上處分之。三年八月三日有恩勅。以薨新田部親王舊家施之。大和尚卽以此地奉爲聖朝造僧伽藍。其號稱招提寺。卽大和上聞此國行事者。寺家雖有衆供而不通外來僧。亦客僧供雖開三日分。若不相識終不資供。由是塞十方僧路。行人爲此幸苦。大和上發願。奉爲代代聖朝開廣大福田。別立十方僧往來修道之處。設無遮供。及日時望寺向堂。不簡僧沙彌。不論斗升。兼及資供。准天竺鷄頭末寺。大唐五臺山華嚴淸凉寺。衡岳寺。將行之。亦如仁王經所説。不立官籍。若貫籍綠衆僧。我法隨滅。但修六和。同崇如水乳之。是故十方行者。共住此伽藍。住持佛法。鎭護國家。然後彼授戒儀式。迄至今時。經數年而尚爲一道無別異矣。惟和上住持當契於佛意趣。
天平宝字元年〈757. 『続紀』では天平宝字二年。豊安の誤認であろう、以降の時系列が倒錯している〉、更に別勅あって、(鑑真に)「大和上」の号が下され、詔して「天下の僧尼は皆、大和上を師として戒法を習学せしめよ」とされた。それより以来、二百五十戒をこの国の仏弟子に授けてきた〈これも豊安による事実誤認であろう。具足戒の授戒は天平勝宝六年(755)から執行されていた〉。当時、(鑑真の元に)四方から来たって学ぶ者があったものの、供養〈経済的支援〉が無いことによって多く退還していた。そこで同年十一月廿三日〈『東征伝』説。『続紀』では29日〉、勅により備前国の水田一百町を賜り、十方僧の供料に充てられた。ひとえに大和上がこれを自由に使うことを許されたのである。天平宝字三年〈759〉八月三日〈『東征伝』では八月一日にその名を「唐招提寺」としたとあり、ならば新田部親王の旧宅が寄進されたのはそれ以前のことでなければならないため、ここでの豊安の説は誤認であろう〉、また恩勅あって、薨した新田部親王の旧家を施された。大和尚はそこで、その地をもって聖朝の奉為に僧伽藍〈saṁghārāmaの音写、僧伽藍摩の略。僧伽の精舎の意〉を造られ、その号を招提寺と称された。というのも、大和上は、この国の行事について聞いていたためである。寺家には衆供〈僧衆への経済的供養〉があるとはいえ、しかし、それを外来僧の為に用いることはなく、また客僧に対しての供養は三日分のみ許されているけれども、もし縁故・面識が無ければ資供〈滞在に必要な諸物品・経費を提供すること〉することは無く、その故に十方の僧路〈仏教僧や仏教寺院のの本来のありかた〉は塞がれて、行人はその為に幸苦していたのである。そこで大和上は、代々の聖朝の奉為に広く大福田を開き、別して十方僧の往来修道の場所を立てて、無遮の供〈なんら制限を設けずに供養すること〉を設けることを発願された。(長い)日時に及んで寺に望み堂に向かう僧〈比丘。具足戒を受けた仏教の正式な出家者〉・沙弥〈小僧。具足戒を未だ受けていない見習い〉を区別せず、斗升〈供養の量〉を論ぜず、兼ねて資供に及んだのである。それは天竺の鷄頭末寺〈Kurkuṭārāma. 鶏園寺・鶏雀寺。Magadha(摩伽陀)はPāṭaliputra(華氏城)にAśoka(阿育王)が建立した大寺院〉や、大唐の五台山華厳清凉寺・衡岳寺〈南岳衡山の般若寺か?〉に准じたあり方であって、それをまさにここで行うものであった。
また、『仁王経』の所説にあるとおり(唐招提寺は)官籍を立てなかった〈『仁王経』に、国王など国家が仏弟子を世俗の官人や軍人のように管理し制限すれば、仏法は久しからずして滅びる、とされる。羅什訳『仁王般若経』「大王。未來世中一切國王太子王子四部弟子。横與佛弟子書記制戒。如白衣法如兵奴法。若我弟子比丘比丘尼。立籍爲官所使。都非我弟子。是兵奴法。立統官攝僧典主僧籍。大小僧統共相攝縛。如獄囚法兵奴之法。當爾之時佛法不久」〉。「もし貫籍して衆僧を録せば我が法は滅びるであろう。ただ六和〈六和敬。僧伽の行動指針。比丘が三業と戒と見と利において互いに尊重し協調すること〉を修し、同じく水と乳との如くに(和合して)崇めあうべし」とされた。このことから、十方の行者は共にこの伽藍に住み、仏法を住持して国家を鎭護したのである。そしてその後も、かの授戒の儀式は今時に至るまで数年を経ているけれども、なお一道であって別異無い〈鑑真当時と全く同様であること〉。これは和上の住持がまさに仏陀の意趣にかなっていたからこそである。
豊安『鑑真和上三異事』(日仏全, vol.113, p.150b-151a)
ここには当時の寺院のあり方の一端が具体的に描かれています。就中、唐招提寺(鑑真)が「但修六和。同崇如水乳之(ただ六和を修し、同じく崇めること水と乳の如し)」としていたと特記されているのは、当時の僧徒らのあり方がそれと真逆であったからのことに違いありません。
六和とは、六和合あるいは六和敬ともいい、比丘が互いに①身(礼拝)・②口(讃嘆)・③意(信心)・④戒(戒律)・⑤見(見解)・⑥利(施食・寄進)の六点について等しく、皆が共有し同一とすることを意味します。印度以来、僧が根本指針としてきたものであって、これらを護持することにより僧伽が運営され保たれます。六和とは、「一味和合とは何か」を具体的に示したものです。
(一般に、今の僧職者のほとんどは、一味和合の意味を事なかれ主義的・事大主義的に理解し、なんらの律儀や規律、そして自浄作用も持たずしてただ馴れ合うばかりの「烏合」をもって和合の意味と捉え違いしています。しかし、一味和合とは、同一の思想すなわち仏教を奉じ、厳密な規律を有てこれを維持する僧伽のあり方を意味するものであって、無戒・破戒の僧形者らが口にするようなものではありません。)
しかしながら、当時の寺院は、これは今に至るまで同様だと言って良いと思いますが、まったく縁故主義であって、仏教本来の四方僧伽であるとか一味和合などというあり方など全くとられていなかったことが、この記述によって知られます。
ところで、鑑真が渡来する以前、道慈という入唐僧があって、当時の日本の寺家や僧徒のあり方を批判していました。
冬十月辛卯、律師道慈卒。天平元年爲律師。法師俗姓額田氏。添下郡人也。性聡悟爲衆所推。大寶元年隨使入唐。渉覽經典。尤精三論。養老二年歸朝。是時釋門之秀者唯法師及神㲊法師二人而已。著述愚志一巻論僧尼之事。其略曰。今察日本素緇行佛法規模全異大唐道俗傳聖敎法則。若順經典。能護國土。如違憲章。不利人民。一國佛法。万家修善。何用虛設。豈不愼乎。
(天平十六年〈744〉)冬十月辛卯、律師道慈が卒去した(道慈は生前の)天平元年に律師に任官。法師の俗姓は額田氏、添下郡の人である。その性が聡明であったことから人々から推され、大宝元年〈701. 実際は大宝二年〉に遣唐使に随って入唐した。(道慈は、長安の西明寺に滞留し)経典を広く披覧したが、中でも最も三論〈三論宗。『中論』・『十二門論』・『百論』を主たる所依の仏典とし研究対象とする学派。いわゆる中観派〉に詳しかった。養老二年〈718〉に帰朝。当時の釈門〈仏教僧〉で秀でていたのは、ただ(道慈)法師と神叡法師〈新羅で法相を学び帰朝した僧〉の二人のみであった。(帰朝後に)『愚志』一巻〈『続日本紀』が以下にその要略を伝えるのみで現存しない〉を著述し僧尼の事を論じているが、その概略は以下のようなものである。
「今、日本の素緇〈在家信者と出家者〉が仏法を行う様を見ると、その規模〈規矩〉が全く大唐の道俗が伝える聖教の法則〈経や律にて説かれる仏教者としてのあるべきよう〉に異なっている。もし(日本の素緇が)経典(の所説)に順じたならば、(その功徳に依って)能く国土を護るであろう。しかし、もし(仏を祀りながらも、仏教の)憲章に違えたならば、人民を利すことはない。(日本)一国の仏法、そして万家の修善において、どうして虚設〈実のない見せかけ〉を用いるのであろう。なぜ慎まないのであろう」
『続日本紀』巻十五 天平十六年十月条 「道慈卒伝」
(新訂増補『国史大系』普及版 続日本紀』前篇, p.179)
道慈は、かつて南山律宗祖道宣が拠点とした寺であり、また印度から帰った玄奘が慈恩寺から移り住み、律の学匠でもあった義浄や密教の大阿闍梨であった善無畏など並み居る高僧が訳経に従事した、長安の終南山西明寺にて滞在し修学していました。唐代の西明寺は、印度の祇園精舎を模したものと伝説される大規模な伽藍が建ち並んで壮麗を極め、内外の行学兼備の諸学僧が雲集して仏教を研鑽した、当時の長安で指折りの中心的大寺院です。
そんな唐でも最先端の地にてその実際を、しかも足掛け十七年にもおよぶ長期に渡って目の当たりにしていたが故になおさら、日本における僧俗らがまるであるべき威儀を備えていないこと許せず、また仏門にあっても名聞利養に明け暮れる者も跋扈しておりそれを嘆き批判したのでしょう。
今挙げた日本の正史、『続日本紀』「道慈卒伝」が伝えるのは、あくまでその略であるでしょうが、その著『愚志』から道慈の志を垣間見ることが出来ます。道慈は『愚志』の中で、当時行われた仏教の有り様をして「虚設」などという言葉でもって批判していたようですが、そう云われた当の僧尼らは心中穏やかでなかったことでしょう。
しかし、そもそも仏教における一味和合というあり方は、僧が律を遵守し寺院を運営していて初めて成立するものであって、律が無い状態ではあり得ません。豊安がここで、迂遠ながら日本の寺家のあり方を批判的に指摘しているのは、少なくとも豊安が住持していた当時の唐招提寺はそうでなかったことの裏返しです。唐招提寺は、先に述べたように持律持戒の後進を経済的困難に直面させること無く育成するためのものであったと同時に、当時の官寺や僧のあり方にたいする批判、それへの反発として創建されたものだったと言えます。そして、それを豊安は誇りとしていたことが、この書の記述から伺えます。
鑑真が没して七十年が過ぎようかととする当時も、鑑真がいかなる志によって唐招提寺を創建したか、その目的が確かに伝えられていたのです。繰り返しますが、唐招提寺という寺名は、それ自身が鑑真らの目指したものなどその遺志を伝える、まことに意義深いものです。
従前、『東征伝』はよく取り上げられ、鑑真を含め天平期を専門に研究する人など戦前戦後の昭和期には幾多もあって、中には唯物史観など思想的偏りを強くしてこれを眺めた者もありますが、その先学達の功績の積み重ねにより歴史的事実の多くが解明されています。依然として細かいところで不明な点もいくつか残されてはいますが、それを菲才が新たに解明したわけでもなく、ここで改めて本書を紹介するまでもありません。しかし、時は常に流れ、人はそこに止め処なく生死流転するもの。いまだこれに直接触れたことのない人も多くあって、あるいはその存在すら知らぬ者もあることでしょう。
そもそも、日本に仏教伝来したのは六世紀中頃とされはするものの、しかし鑑真こそ日本において初めて三宝を成立させた僧の代表であり、実質的な仏教をもたらした最初の人です。また日本仏教だけでなく、日本史上や日本思想史上にも極めて重要な人でもあります。
したがって、いま日本仏教には諸宗諸派乱立して時にもはや仏教とは到底思われない教義教学を有するものがあるとしても、その源の一つであるに違いない鑑真について知らぬなど論外というもの。そして鑑真の事績とその意義、そして鑑真の渡来によって惹起していた当時の日本仏教界における諸事象を確かに踏まえておくことは、その後の平安時代から鎌倉時代、ひいては近世から現代における仏教界の動静や諸問題を理解するのにも必要不可欠です。
そこでここにそのような天平の昔の大人物、鑑真およびその周辺の人々の事績を伝える本書に、誰でも直接触れることが出来るようにと、可能な限り詳細な語釈を付して紹介している次第です。
本稿には極々拙いものであるもののその現代語訳も対訳として付しています。『東征伝』に直接触れることにより、日本仏教に限らず仏教そのものを理解するのにも必ず有益であることに違いないと、不佞は信じて疑わない者であります。
小苾蒭覺應 拜記