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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

明堂『正法律興復大和上光尊者伝』

訓讀

文化元年朧月二十二日中夜。正法律興復大和上尊者、京師阿彌陀寺に滅度す。法臘ほうろう六十有七。世壽八十又七。遺命して俗士の葬瘞そうえいに從事することを許さず。諸弟子涕涙悲泣し、相い興に靈龕れいがん き、遠く高貴寺に就て、二十五日中夜を以て、全身を奧院高祖祠堂の右に瘞み、五輪塔を其の上に樹つ。後二十年、文政癸未、得法の弟子多く已に喪亡して、未だ尊者の傳記をなせる者有らざるを、小比丘 諦濡たいじゅ、大に高行丕勣の泯滅びんめつして世に著れざらんことを懼れ、己が謭劣を量らず稽首和南して、恭しく其の梗槩こうがいを詮次して、以て來裔にいさめく。

尊者、諱は飮光おんこう、慈雲は其の字なり。自ら百不知童子ひゃくふちどうじと號す。姓は源、族は上月氏こうづきし。浪華の人なり。父安範やすのり 、播州田野村の人。其の系赤松自す。弱冠、浪華に移居す。人と爲り卓犖不羇。俠者の風有り。財を輕じ義を重し、人の急に趨ること、己が私より甚し。人稱して長者とす。母は 桑原氏くわばらし。阿州德島の產なり。其の族、川北又助なる者、鞠て女とす。又助、高松侯に仕て浪華米倉の校官となる。安範が人爲を慕って、養女を以て妻す。

尊者、外祖父の家に生る。享保三年戊戌七月二十八日なり。幼にして而も狀貌凡兒に異なり、性 凝莊ぎょうそう。妄に擧動せず。やや長じてますます 俊邁。而して其ののりを踏みかくに循うこと、成人の若きこと有り。父族人に謂て曰く、他年吾宗を興さん者は必斯の兒ならんと。父七男一女有り。尊者はすなわち第七男なり。母氏と三寶信ず。法樂寺貞紀ていき和上は其の深く歸敬する所なり。和上、字は忍綱。行學兼備し、時の碩德なり。時に其の家に屈請して飯す。和上、尊者の氣貌異常なるを見て、其の母に謂いて曰く、此れ般若種なり。豈其をしてついに塵中に沒せしむ宜けんや。盍ぞ以て我に乞へざると。

現代語訳

文化元年〈1804〉十二月廿二日夜半、正法律興復大和上尊者〈慈雲飲光〉が、京都阿弥陀寺にて滅度した。法臘六十七、世壽八十七歳。遺命により在家信徒が葬儀・埋葬に従事することを許さなかった。諸々の弟子は悲しみの涙を流しつつ、皆で棺を担いで遠く高貴寺に至った。二十五日夜半、その遺骸を奥之院高祖師堂〈大師堂〉の右傍に埋め、五輪塔をその上に建てた。その後二十年の文政癸未〈1823〉、(尊者から)直接教えを受けた弟子の多くはすでに亡くなり、未だ尊者の伝記を著す者があらわれていない。そこで(本伝の著した私)小比丘諦濡は、大いに(尊者の)気高き行いと偉大な功績が忘れ去られることを危惧し、己の浅劣なることを顧みず、稽首和南し恭しくその(尊者の生涯の)あらましを次第して述べ、将来の人々に告げておく。

尊者の諱は飲光、慈雲はその字である。みずからを百不知童子と号していた。姓は源、族は上月氏。浪華の人である。父の名は安範。播州田野村の人で、赤松氏に仕えた。二十歳となって浪華に転居した。その人となりは卓犖にして不羇、侠者の風格があった。財に頓着せず義を重んじ、他人の危急を聞いて助けに駆けつける様子は、他人事とは思えないほどであった。人は(そのような安範を)称して「長者」と呼んだものである。母は桑原氏の出で、阿州徳島に生まれた。その一族で川北又助という者が養女として迎えた。又助は高松侯に仕え、浪華米倉の校官となった。又助は安範の人となりを見込んで、養女を安範に嫁がせることとなった。

尊者は外祖父〈川北又助〉の家にて生まれる。享保三年戊戌〈1718〉七月二十八日のことである。幼い頃からその外見は普通の子とは異なり、その性格も落ち着いたもので無暗に動き回ることがなかった。成長するにつれますます峻邁となり、人としての道理、遵守すべき事柄に違わないことは成人のようであった。父が一族の者に「将来、独立して大成するのは、必ずこの子に違いない」と語って言うまでの子であった。父(安範)には七男一女の子があった。尊者はその末七番目の男子である。母は常日頃から三宝を信じていた。法樂寺の貞紀和上はその深く帰敬する人であった。和上の字は忍綱。行学兼備の当代の碩徳である。ある時、(和上は尊者の)家に招待され食事のもてなしを受けていた。そして和上は(初めて対面した)尊者の気貌にただならぬものあるのを見て、その母に告げたのである、
「これは般若種である。どうしてこれほどの子を終生、俗世間に放っておくことができようか。何故にこの子を私に預けようと乞わぬのか?(是非ともこの子を私に預けて出家させなさい)」
と。