年八十七。仲秋覚體不佳。迫緇白之請。就毉于京師。在氣力耗減之際。尚惓惓法門。未嘗少懈。至策勵學徒。斥邪衛正。則辭義壮勵。凛凛乎不可犯。聞者自攝伏。毎誡學徒曰。大丈夫兒出家入道。須具佛知見。持佛戒。服佛服。行佛行。躋佛位。切莫傚末世人師所行。須飮淳粋醍醐。莫歠雜水腐乳。此尊者終身所履践。故亦是以誨人也。
平生持律厳峻。行業高潔。望之威容可畏。乃卽之。温和若陽春。人咸悦服。尊者廣額豐頥。鬚眉雪白。望見之者。不問而知其爲有道士。乃聞尊者示滅也。近遠知興不知。哀慟號泣。不翅喪其考妣。尊者之道。浹洽於人者。葢可知矣。所度弟子數百人。至問道受戒。就弟子列者。殆萬有餘人受菩薩戒。及傳印明者。又不知其數也。
於戯。世之習敎者。不必修禪。修禪者。未嘗聞敎。精於顯者或疎於密。専於密者多略於顯。獨吾尊者。則備衆美而有之。兼通儒典。文又足以載其道矣。以故羣機盡攝。萬理一貫。卓然爲一代人天之師。震黄鐘于瓦缶雷鳴之際。翔靈鳳于衆禽紛飛之時。謂之如來之長子。護法之薩埵。其孰曰不然哉。其孰曰不然哉。至于神靈之感通。佛陀之妙應。則門人之所目擊。里巷之傳說。不可以一二數第事渉奇怪。非尊者意。所以茲不綠也。末資比丘拙葊諦濡薫香稽首拜撰
年八十七、仲秋體の佳ならざるを覚え、緇白の請に迫って毉に京師に就く。氣力耗減の際に在て、尚法門に惓惓として、未だ嘗て少も懈らず。學徒を策勵し、邪を斥け正を衛るに至っては、則ち辭儀壮勵、凛凛として犯すべからず。聞く者自ら攝伏す。毎に學徒を誡て曰く、 大丈夫兒 出家入道す。須く佛知見を具し、佛戒を持ち、佛服を服し、佛行を行じ、佛位に 躋 るべし。切に末世人師の行う所に傚ふこと莫れ。須く淳粋の醍醐を飮むべし。雜水の腐乳を 歠 ること莫れ。此れ尊者、終身履践する所。故に亦是を用て以て人に 誨 ゆなり。
平生、持律厳峻、行業高潔。之を望ば威容畏るべく、之に卽に乃ち、温和陽春の若し。人咸な悦服す。尊者、廣額豐頥、鬚眉雪白。之を望み見る者、問わずして其の有道の士なることを知る。尊者の示滅を聞くに及んで、近遠知ると知らざると哀慟號泣、翅に其考妣を喪するのみならず。尊者の道、人に浹洽する者、葢し知るべし、所度の弟子數百人、道を問ひ戒を受て弟子の列に就く者に至ては殆ど萬有餘人。菩薩戒を受け、及び印明を傳る者、又其の數を知らず。
戯に世の敎を習ふ者は、必ずしも禪を修せず。禪を修する者、未だ嘗て敎を聞かず。顯に精きは或は密に疎く、密に専らなるは多く顯に略なり。獨り吾が尊者は、則衆美を備て之有り。兼て儒典に通じ、文又其の道を載するに足る。以故に羣機盡く攝し、萬理一貫、卓然として一代人天の師となる。黄鐘を瓦缶雷鳴の際に震ひ、靈鳳を衆禽紛飛の時に翔らしむ。之を如來長子、護法の薩埵と謂んに、其れ孰か然らずと曰んや。其れ孰か然らずと曰んや。神靈の感通、佛陀の妙應に至は、則門人の目擊する所、里巷の傳說、一二を以て數ふべからず。第事奇怪に渉るは、尊者の意に非ず。茲に綠せざる所以なり。末資比丘拙葊諦濡、薫香稽首拜撰
陰暦の八月。
僧俗。緇は「濃い灰色」を意味して僧侶を、白は「白色」で転じて在家信者をそれぞれ指す。支那・日本では、僧侶の衣の色が鼠色(鈍色)であり、インドでは在家信者は白を着ていることに由来してこう言う。
疲れ果てること。惓は「疲労困憊」の意。
きりっと引き締まった様。
立派な男子。
世が乱れて仏教が正しく行われぬ世にあって、何ら根拠なくデタラメを仏教として説く僧ら。
牛乳または羊乳を精製すると最後に得られる精油。インドでは古来、世の中の最上の味であるとされ、薬としても用いられた。仏陀の教え、あるいは涅槃を譬えて言った語。慈雲はここで仏陀の教えを乳に喩え、ただ乳を飲むのではなくその中でも最高の醍醐をこそ求めて得よ、と言っている。
「水」は仏の教えとは異なる思想、「乳」は仏の教えにそれぞれ譬えられている。仏陀が亡くなって時代を経るうち、様々な人の恣意的な解釈や仏の教え自体を変質させてしまうような慣習に譬えられる不純物がまじりこみ、腐ってしまった仏の教えらしきものを信じ行ってはならない、との意。
亡き父母。「考」は亡父、「妣」は亡母。ここでは尊者の死を実の父母の死に譬えている。
すっかり慣れ親しむこと。
密教で用いられる密印と真言。
本来は深く集中した心の状態のうち特定の境地を指す語。支那の智顗によって、禅は止観を意味する語としても用いられた。
密教と対比させた場合の一般仏教の呼称。
それぞれ異なる能力を持ち、異なる立場にある人々。あらゆる人の意。
ひときわ抜きんでているさま。
仏陀の異称の一つ。優れた僧は人を導くだけでなく神々をも導く存在であることをいう言葉。仏典には釈尊に帰依する神々が登場し、また諸伝記にて高僧が神々に帰依されたと伝えられる。
黄鐘は支那における音階の一。ここでは『楚辞』にあるように優れた人物の譬えとして用いられ、尊者の思想と行動とを譬えている。
瓦缶雷鳴は、平凡で愚かな人が分不相応な地位にあること。「瓦釜雷鳴」とも。ここでは仏教が正しく行われず僧侶が僧侶のあるべきようを忘れ、しかもなお尊大であることを指して言う。先の「黄鐘」の譬えと共に『楚辞』卜居第六に出。
靈鳳(鳳凰)は、古代支那にて信じられた偉大な王の出現に先立って現れるという霊鳥。ここでは尊者の教えとその弟子、信奉者に譬える。対して衆禽は、当時の非法の僧侶等を猛禽類に譬えた語。
神々の示現。仏教においては神もまた死すべき者であり、たとえ人より優れた高次の存在であったとしても、苦しみの内にあると見る。六道輪廻のうち、天界に生まれた存在。神々の中には仏教に帰依してこれを熱心に修行する者を守護する者、あるいは信仰する者があるとされる。
ここでは慈雲に神々も帰依し、あるいはその徳に呼応して示現し、様々な不可思議な事象があったことが仄めかされている。
正しく仏道を修める者には不可思議なことがあるといわれる。明恵についても同様に伝えられているように、慈雲の周囲においてもやはり弟子にとって不可思議なことが多く生じていたのであろう。
しばしば修禅する者には、自らが冥想の中で体験した境地や経験を、いかにも素晴らしいものであったあるいは恐ろしいものであったなどと吹聴してはばからない者がある。またあるいは、あろうことか「禅定を得た」などとの言をすら放つ者がある(これが僧侶であったならば、その行為は罪)。しかし、これらの行為はまったく愚かな、浅はかな者のふるまいである。冥想において経験したことは、冥想の師に問われた場合を除いて、決して他言してはならない(波逸提法「実得道白衣説戒」)。