年八十、尊者春秋既に高く、氣力稍衰へ、接應の勞に勝へず。退て河之高貴寺に遷る。寺は石川葛城嶺の西に在り。乃ち高祖大師、三寶鳥を聞くの処にして、後鳥羽天王甞て一び臨幸し玉う。尊者、其の地幽邃闃寂、眞に修道の良場なるを相てなり。遂に公庭に聞して、壇を築き界を結し十方僧刹と爲し、定んで正法律一派本山と作す。
尊者、又近世神道を語る者、妄に浅陋鄙媟の說を爲して、大に国の遺風を傷を痛み、住山の暇、意を神書に留む。所謂三紀は論亡し、兼て諸家の紀綠を釆り、旁く先哲の遺書を考へ、普く衆說を會し、短を捨て長を拾ひ、遂に一家の神道を成し、之を門人及び有志の士に傳ふ。謂く神道玄妙、吾が密敎と表裏を相爲す。學密の徒、閣て學ばざるべけんや。宜なり。傳敎・弘法、弘敎の大士、力を此に竭すことなり。
尊者、既に山に在り。日に五密瑜伽の法を修し、四威儀の中、薩埵の三昧に住し、以て其の冥益を無數の有情界に回す。幾ならざるに、嚮慕の者日に夥く、懇請彌切なり。尊者、亦固く拒まず。云く、世尊尚一方に滞らず請に萬国に應ず。吾何人ぞ。敢て前蹤に效はざらんやと。或は戒を京師に授け、或は法を浪華に說き、寧居に遑あらず。時翰墨に遊戯し、筆を下せば章を成ず。偶語句を求る者有れば、詩歌を作爲して、諸を第一義諦に歸す。得る者皆、珍襲寶藏す。
晩に郡山の城主甲州侯、尊者の風猷を欽し、屢 城中に請じて道を問い、戒を受け弟子の禮を執り、以て敬重す。尊者の示滅に 迨で、千僧齋を山に設て、以て慇懃の意を極む。
齢八十、尊者の年齢もすでに高くなり、気力もいくから衰えて、(訪ねてくる人々に)応接する疲れに耐え得なくなった。(そこで尊者は、京都阿弥陀寺を退き)河内高貴寺に遷った。寺は石川葛城嶺〈金剛山系〉の西に位置する。そこは高祖大師〈空海〉が三宝鳥〈コノハズク〉の声を聞いた(詩句を詠んだ)地であり、後鳥羽天皇がかつて一度臨幸された所である。尊者は、その地が奥深くひっそりとして実に修道の最適の場であると見込まれてのことであった。そこで幕府に申請して、戒壇を築いて結界し、十方僧刹〈四方僧伽の寺.招提寺〉とし、ここを正法律一派本山とした。
尊者はまた、近年神道を語る者が妄りに浅はかな俗悪説を主張し、大いに国の遺風を汚す者があることを嘆き、山で閑居する合い間に、心を神道関連の書に向かわせた。いわゆる「三紀」〈『古事記』・『日本書紀』・『先代旧事本紀』〉は言うまでもなく、兼ねて様々な学者の歴史書を読み、さらには先人の遺した書を検討し、ひろく諸説を合わせて短所を捨て長所を採り、遂に一家の神道を大成。これを門人や有志の人々に伝えた。(尊者が)云うには、
「神道は奥深く優れたものであって、我が(伝える)密教と表裏一体となるものである。密教を学ぶ徒であって、どうして学ばないなどとあろうか。なるほどもっともである、伝教〈最澄〉や弘法〈空海〉など密教を日本に伝えた大士もまた、力をこれに尽くしたのだ」
とのことであった。
尊者は、山にあって日々五秘密瑜伽の法を修し、(行住坐臥の)四威儀においてはすべて金剛薩埵の三昧にあり、そしてその功徳を無数の有情界に廻向していた。(高貴寺に移ってから)そう時日を経ぬうちから、(尊者を)尊び慕う者が日々におびただしくなり、その懇請はますます熱心となっていた。尊者はまた、それを敢えて拒もうとはしなかった。(尊者が)言うには、
「世尊〈釈尊〉もまた一所に居続けられることなく、要請があれば、どの国にも応じて赴かれた。まして私は何様でもない。どうして(釈尊)先蹤に倣わないことがあろうか」
とのことであった。あるいは戒を京都にて授け、あるいは法を浪花で説き、落ち着いく暇もないほどであった。時に翰墨にまかせてひとたび筆をふるえば見事な文章を書き上げた。たまたま(尊者の)書を求める者があれば詩歌を作ったが、その全ては第一義諦〈真理〉に関するものであった。それを得た者は皆、これを珍重して家宝としたものである。
晩年、大和郡山の城主甲州候〈柳沢甲斐守保光〉が尊者の世間での評判を慕い、しばしば城中に招いて道について尋ね、戒を受けて弟子の礼をとって帰依した。(甲州侯は)尊者が示滅された時には、千僧斎を山〈高貴寺〉に設け、尊者への深い敬意と追慕の念を極め表した。