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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

明堂 『正法律興復大和上光尊者傳』

訓讀

尊者禪觀のいとま、日に行願賛ぎょうがんさん・心経・彌陀経みだきょう等の梵本を取て讀む。讀むこと久して漸く其の義に通ず。いよいよ讀ば愈通ず。神物有て之が開導をなす者の如し。其の蘇漫多そまんた底彦多ていげんたなるは、皆師授を假らずして心通意解す。護明ごみょう、筆記して七九鈔五巻と成し、刻して之を四方に布く。法護・諦濡、亦助筆の微功有るに與かる。尊者意を梵文に用るなりますます力む。竟に梵學津梁ぼんがくしんりょう一千巻を作り、折て七詮とす。其の中、未だ稿を脱せず者有りと雖、豈亦盛ならずや。夫れ梵學、傳を失するやひさし。近世、八囀を論ずる者多らずとせず。人人、自ら靈虵れいだの珠を握ると謂ひ、家家、悉く荊山の玉を抱と誇る。然れども而も其の論ずる所を要するに、おおむねね漆桶掃箒の模𢱢たることを免れず、八囀尚爾り。況や九韻をや。尊者のごときに至っては、七例・九韻くいん十囉聲じゅうらしょう等、亦皆眞象現前、恍として葱嶺を逾て印度に遊が若しと。何ぞ其れ愉快なるや。

年五十四、尊者嵓棲澗飮、殆ど將に十載ならんとす。深壑しんがく久く光彩をあつむこと能はず。京師の四輩、競ひ來て請す。其の言切に、其の意深し。尊者、勉强して之に應ず。諸居士、たからて、阿彌陀寺を西の京に得。尊者を延て居しむ。居ること何くも亡して、道を問うの徒、麇如く至り蝟如く集る。搢紳鉅族しんしんごぞく貴戚妃嬪きいきひん、亦稽首恭敬して心要を咨決しけつす。其の職務鞅掌宮門深邃なる者も、尚香を献じ書を呈し、法縁を結ばんとねがふ有り。尊者、機に應じて法を說く。譬へば一雨の施す所、大小草木おのおの霑潤てんじゅんを獲るが如し。嘗て貴人の請に因んで十善法を說く。諸の弟子、綠して十二巻とす。名て十善法語と曰ふ。然れども其の說、宏特。ただ十善のみならず、大小権實眞俗二諦開闡して餘蘊無し。尊者毎に言う、我を知り我を罪する者は夫れ十善法語かと。

現代語訳

尊者は禅観を修する合い間、日々『普賢菩薩行願讃』・『般若心経』・『阿弥陀経』などの梵本を取って読んでいた。(最初は意味もわからずただ目を通していただけであったが)読むこと久しくして次第にその意味がわかるようになった。いよいよ読めば、いよいよ通じたのである。それはあたかも諸天の加護により道が開けた者のようなものであった。その蘇漫多そまんた〈[S]subantaの音写。サンスクリットにおける名詞格の一つ〉底彦多ていげんた 〈[S]tinantaの音写。サンスクリットにおける動詞の人称による語尾変化を指す語〉などは、すべて誰か師についたのでもなく理解していったのである。これを護明は筆記して『七九略鈔』五巻〈七例九韻についての著述.蘇漫多に三巻・底彦多に二巻を宛てる〉とし、出版して各方面に知らせたのである。法護や諦濡は、また助筆の微功に預かっている。尊者は意をますます梵語の研究に没頭し、ついに『梵学津梁』一千巻を作り、折って七分に編纂した。その中には未だ稿を脱してないものもあったが、どうしてそれから梵学の研究が盛んにならないということがあろうか。そもそも梵学は伝承を失って久しくあったのである。近世、八転について論じる者は多くある。その人々は自ら「霊蛇の玉を握る」といい、諸家ことごとく「荊山の玉を抱く」と誇っている。ところがその論じているところは要するに、おおむね重箱の隅をつつくようなものに過ぎず、八転については尚更であった。まして九韻は言うまでもないこと。ところが尊者に至っては、七例・九韻・十羅声など、またすべてを正確に把握しており、それはまるで葱嶺〈パミール高原〉を越え印度にあるかのようであった。なんとその痛快なことであるか。

齢五十四、尊者が山奥に住み質素な日々を送ること、ほとんど十年間に及ぼうかとしていた。深い谷間にあって永く陽の光を集めることは出来ない。しかし京都の僧俗は競って尊者のもとに来り、その教えを請うた。その言葉は切なるものであり、その決心たるや深いものであった。尊者は精力的にそんな彼らに応えていた。そこで諸々の居士は私財を投じて、(尊者のため)阿弥陀寺を西の京に確保。尊者を招き住まわせた。住みだしてから程なくして道を求める者が、むらがるが如く至り、むらが るが如く集まった。中には権力者や高貴な人々もあってまた稽首恭敬し、仏教の心要について教えを求めた。また要職にあって私の時間を恣に出来ぬほどの者や、宮家に縁深い者も、なお香を献じ書を贈り、教えに触れ近づきたいと願う者があった。尊者は、(教えを請いに来た)人々の立場・能力に応じて法を説いた。それを譬えるならば、雨によって、大小問わず草木それぞれが水の潤いを得るようなものである。かつて(尊者は)高貴な人の請いに因って十善の法を説いたことがあった。諸々の弟子はそれを記録して十二巻となった。名づけて『十善法語』という。とはいえ、(『十善法語』との題目ではあるが)その説かれた内容は多岐に渡っている。ただ十善についてだけでなく、大小権実・真俗二諦の意義を明らかにして余すところが無かった。尊者は事ある毎に言った、
「我を知り我を罪する者は、それ十善法語か」
と。