年二十二、和上、法樂寺を退き、尊者に命じて其の席を嗣しむ。尊者を主とる。閙中に在と雖、行學兼修し、斯須も懈ず。且つ阿字觀を修し、因に深趣を大輪律師に諏る。和上之を見て、語して曰く。汝秘密粗備ると雖、猶未だ源底を窮してあらざること在り。我今授けるに鉄塔の奧旨を以せんと。即ち日を択び道場を莊厳し、唯授一人の妙訣を授く。秘璽玉冊遺脱する所無し。所謂附法灌頂、西大の正嫡なる者なり。此の時に當って、顯密の法門、貫煉せざる靡し。
一日、自ら慨嘆して曰く、法に貴ぶ所の者は心なり。心倘し明ならざれば、萬法徒設となる。諸の金を積で用を知らざる者に喩う。何ぞ瓦礫に異らん。我將に吾が心を明めんとすと。乃ち寺を以て法弟照林に附し、萬縁を脱躧し、一室に兀坐して、誓って心源を究明す。暑、金を流し、寒、膠を折ると雖、足、戸限を踰えず、二び寒燠を閲て、寢證入する所有り。然れども而も自ら許さず。屩を躡み錫を振って、疾く信中に走り、證を大梅禪師に求む。禪師は曹洞の耆宿、道価北方に重し。見るに及で互いに相詰難すること數回。尊者、彼に留ること九旬にして乃ち還る。還って後、諸師を歴叩するに、枘鑿の相い投ぜざるが如し。
復法樂に還り東堂に禪坐す。枯木の猶如し。一日、忽ち豁然、重擔を釈が如く、胸中蕩然、萬象森羅・箇箇光曜、三世十方𦊱礙無きこと白雲の空にあって巻舒自在なるが若し。爾後自ら所證を樂み、怡怡として甘露を含むが如く、飢寒身に切なるを知らず。入定連日。雷霆の柱を破ことを覚えず。
齢二十二、和上は法樂寺住職を退き、尊者に命じてその席を継がせた。尊者は法樂寺の主となったのである。(しかし、住持としての職務に追われ)忙しない中にあるにも関わらず、修行と学問を兼ね行ってしばらくも怠りはしなかった。加えて阿字観を修し、親しくその深い趣を大輪律師に尋ねた。和上〈忍綱貞紀〉はそんな尊者を見てこう語った、
「おまえは真言秘密のおおよそを知るまで達しているが、しかし未だその奥底まで窮め尽くしてはいない。そこで私は今、おまえに授けるのに鉄塔の奥旨を以てしよう」
と。そこで吉日をえらび、道場を荘厳し、唯授一人の妙訣を(尊者に)授けたのである。(その伝授は)秘璽玉冊、あますところないものであった。いわゆる附法灌頂〈一流伝受の許可灌頂か?〉であり、これによって西大寺流〈西大寺相伝の松橋流〉の正統なる継承者となった。このときをもって尊者は、顕教と密教の法門を網羅してあますことなかった。
ある日、(尊者は)自ら憂い嘆いてこう言った、
「法〈真理.仏の教え〉において貴ばられるものは心である。心(の正体)がもし明らかとなっていなければ、全ての教えは無駄となる。諸々の黄金を積むだけでその使い方を知らないような者である。そうであるならば(それがたとえ黄金だとしても)瓦礫に異ならないではないか。私は今こそ我が心を明らかにしなければならない」
と。そこで法樂寺を法弟の照林に譲り、あらゆる雑事を遠ざけ、一室に兀坐して、心源を究明するとの決意をしたのであった。暑さが金を溶かすほどとなり、寒さが膠を折るほどのものとなっても、その足を部屋から出そうとしなかった。(そのような日々を過ごしているうち、尊者はいつの間にか)二度の冬を過ごし、なんらか得るところのものがあった。しかし、それで自ら満足することはなかったのである。(自分には修禅の導師が必要であると考えた尊者は)草鞋を履き錫杖を持って、ただちに信州に赴き、仏法の証を大梅禅師〈大梅法撰.近世における曹洞宗の雄〉のもとを訪れた。禅師は曹洞の耆宿であり、その名声は北方に轟いていた。対面してから互いに詰難しあうこと数回に渡った。尊者は信州に滞在すること九旬〈九十日間.これはただ夏安居の三ヶ月間を言ったものであり、実際に滞在したのは一年半であったが、彼の地で安居を二度過ごしはしなかった〉で去った。そこを去った後、諸々の僧のもとを経巡り教えを請うても、臍を作るのに鑿の形が合わないようなものであった。
(失望した尊者は)ふたたび法樂寺に還って東堂に禅坐した。(その姿はまるで)枯木のようであった。ある日、たちまち豁然(として禅を得た)。重担を肩から降ろしたかのように、胸中蕩然とし、万象森羅が光り輝き、三世十方に罣礙が無いさまは、あたかも白い雲が空に浮かんで巻舒自在であった。その後、(尊者は禅を得て)自ら達した境地を楽しみ、怡怡として甘露を口に含んだかのように、飢えや寒さも気になるもので無くなった。入定すること連日、(その三昧の深さは)雷が落ちて柱を打ち倒しても気づかないほどであった。