年三十。移有馬桂林寺。復結界。廣作佛事。尊者恒病唐宋已來。袈裟之裁製不順佛制。著法又失塔肩之式。隨意施鉤紐。遂發憤執筆。依経律紀傳。反覆參驗。又據古像古畵可爲徴者。廣搜遠索。殫心畢慮。述方服圖儀二巻。廣本十巻。刻其略本。以惠有志之徒。可謂高見卓識。過越等夷者。於是乎。沙門之標式。再備於千載之後矣。
居常以擔荷大法。毘翊衰敗爲志。惟知有法。不知有己躬。汲汲焉唯恐法輪不転。煅煉學徒。諄諄誘掖。苟有益於法門。輙千里不辭勞。遇有來請講者。卽日就道。講南海傳於南山而解纜鈔。講表無表章於界浦而著隨文釈。講無門関於長慶而撰鑰說。其他大小経論。新旧諸律。或密或禪。罔年不講凡尊者之講書也。善標宗會章句或略。因縁譬喩冥興理應。所謂九方皐之相馬之風也。是以聴者心地開朗。自忘其疲。
年四十二。自茲聲華日播。籍籍遐邇。根來寺常明僧正。歆尊者德。授興地藏院相傳秘密閫奧。瀉瓶無遺。僧正者。五智山曇寂闍梨之嫡嗣。醍醐之正統也。
夫尊者起法幡於既傾之時也。一頼親證之懇請。法幡方起。未幾莫然長逝。悲夫。尊者曰命也哉。噫天喪予。作尼父歎辭以悼之。覺賢覺法。亦相継而亡。尊者曰。羽翼未成。不可以高飛。今吾失羽翼矣。我且從吾所好。從是修然有隠栖志。遂卜居于生駒峰西。長尾瀑布之上。有禪尼智鏡者。爲尊者造蘭若。扁曰雙龍菴。葢尊者所奉釈迦尊像。下有雙龍。而扶持蓮座。故得名也。
年三十、有馬桂林寺に移る。復結界し、廣く佛事を作す。尊者恒に唐宋已來、袈裟の裁製佛制に順ぜず、著法も亦塔肩の式を失い、隨意に鉤紐を施すを病み、遂に發憤して筆を執り、経律紀傳に依り、反覆參驗し、又古像古畵の徴とすべき者に據り、廣く搜り遠く索して、心を殫くし慮を畢して、方服圖儀二巻・廣本十巻を述し、其の略本を刻して、以て有志の徒に惠む。謂いつべし高見卓識、等夷に過越する者と。是に於て沙門の標式、再び千載の後に備りぬ。
居、常に大法を擔荷し、衰敗を毘翊するを以て志とす。惟法有ることを知て、己が躬有ることを知らず、汲汲として唯だ法輪の転ぜざらんことを恐る。學徒を煅煉して、諄諄誘掖す。苟も法門に益有れば、輙ち千里勞を辭せず。來って講を請う者有に遇ば、卽日道に就く。南海傳を南山に講じて解纜鈔を述し、表無表章を界浦に講じて隨文釈を著し、無門關を長慶に講じて鑰說を撰す。其の他、大小経論新旧諸律、或は密、或は禪、年として講ぜさることなし。凡そ尊者の書を講ずるや、善く宗會を標して、章句或は略す。因縁譬喩、冥に理と應ず。謂所、九方皐が馬を相するの風なり。是を以て聴く者、心地開朗、自ら其の疲を忘る。
年四十二、茲より聲華日に播し、遐邇に籍籍たり。根來寺常明僧正、尊者の德を歆て、地藏院相傳秘密の閫奧を授與して、瀉瓶遺すこと無し。僧正は五智山曇寂闍梨の嫡嗣、醍醐の正統なり。
夫れ尊者、法幡を既に傾く時に起こすや、一に親證の懇請に頼る。法幡、方に起って未だ幾ならざるに莫然として長逝す。悲いかな、尊者曰く、命なるかな。噫、天、予を喪すと。尼父の歎の辭を作て以て之を悼む。覺賢・覺法も、亦相い継で亡す。尊者曰く、羽翼未だ成らざれば、以て高飛すべからず。今吾羽翼を失ふ。我、 且に吾が好む所に從んとすと。是より修然として隠栖の志有り。遂に居を生駒峰の西、長尾瀑布の上に卜す。禪尼智鏡なる者有り。尊者の爲に蘭若を造り、扁して雙龍菴と曰ふ。葢し尊者奉する所の釈迦尊像、下に雙龍有て蓮座を扶持す。故に名を得るなり。
衣の着け方。禅宗では唐音にて「たっけん」と訓じる。ただし、ここでは曹洞宗に伝わる鎌倉時代に道元が宋に渡った際に始めてその式を観て感激したというものは意味しない。それは極めて支那的で、唐末から南宋代にかけ律儀が崩れていった際に誤伝あるいは創作されたと思われる大げさで滑稽な作法。律蔵や経蔵には袈裟を着ける際の作法など定められておらず、むしろ衣をつける際に跪くことは衣を汚すため非法とされている。
経典と律蔵、そして高僧伝や支那僧がインドに渡って留学した際に記録した『西域記』や『仏国記』あるいは『寄帰伝』などの紀行書。インドにおいて、僧がいかなるあり方をしていたかを知るのに現在でも大変貴重な資料。
慈雲が元照『仏制比丘六物図』を踏襲し、諸々の経や律蔵の所説および支那の僧伝やインド紀行書、さらには日本に古来伝わる仏像・高僧図像に至るまでをくまなく調査研究。仏所制の袈裟衣の形・大きさ・色など製法を復元し、さらにその着法に至るまで言及してまとめた書。これに広略二本がある。ここで挙げられているのは略本。広本は未完ながら現在その三巻が伝えられ、『慈雲尊者全集』に収録されている。
未完の広本でなく、『方服圖儀』を脱稿した後に慈雲自らが講説したものの筆記である『方服圖儀講解』十巻。
繰り返し何度も教え諭し、力を貸して導くこと。
紀州高野山。京都からみて北にある比叡山を北嶺と称し、南にある高野山は南山と称された。
『南海寄帰内法伝』の注釈書。『南海寄帰内法伝』とは、八世紀唐代の律僧、義浄が著したインドや南アジアに於ける仏教のあり方・僧の生活・修行法などについてを記した紀行書。義浄は支那から南海(ベトナム~ビルマ?)経由でインドに入っているため、当時の東南アジアの仏教事情についても記述されている。『寄帰伝』の注釈書として日本初であり、今やこれがあってようやく『寄帰伝』を読解できるほどの書となっている。
唐代の唯識の学匠にして法相宗の開祖とされる慈恩大師基が著した『大乗法苑義林鈔』所載の一章を別出した、主に法相宗で重用された書。覚盛が自誓受戒でも戒体を得られることの根拠として用いたため、中世以降の律宗でも非常に重要な書とされて、盛んに読まれ研究された。
南宋の無門慧開が著した禅宗の入門書。支那で古来用いられていた公案のうち、四十八則についての解釈が記載されている。
『列士』にある故事に基づいた話。秦の穆公が、名馬を見抜く名人とされた伯楽に後継者を持つように言ったところ、自分には子供がなく後継者もいないが、知るものに九方皐という男があって、馬の見立てを自分並みに能くすると紹介する。そこで秦の穆公は、試しに九方皐に名馬を探してくるように命じる。はたして九方皐は、三ヶ月後に黄色い牝馬を見つけたと報告。ただちに穆公はその馬を取り寄せると、なんとそれは黒い雄馬であった。そこで穆公は九方皐をとんでもない目の節穴の持ち主と考えたが、伯楽はそう考えず、「さすが九方皐は見るべきところを見て、見る必要のないところは見ない、大変な目利きである」と驚嘆した。実際、その馬は大変な名馬であった。
名声。
遠い所と近い所。広く世間に、の意。
口々に言いはやすこと。ここでは尊者を皆が誉め称えるようになったこと。
真言密教の事相三十六流の中の一流、地蔵院流。醍醐寺地蔵院を本拠としていたからこの名がある。三宝院流の支流であるが、小野流の正嫡であると主張され、同じく支流の報恩院流(幸心流)とその正傍を競った。
瓶から瓶に一滴漏らさず水を移し替えるように、その全てを残り無く伝え授けること。
江戸中期、悉曇学の権威とされた僧。京都五智山蓮華寺に住した。密教経軌の悉曇に関する著作を多く残している。遮梨は阿遮梨の略。
何事も無いかの様子。
孔子の雅号。孔子に先立って早逝したその高弟、顔回への孔子の憂愁の思いに倣った表現。
愚黙親証が没したのは寛延四年〈1750〉三月十日であり、即成覚法が没したのは同年九月以降(未詳)であった。覚賢が亡くなるのはその四年後の宝暦五年〈1755〉四月廿三日。したがって当時、長栄寺の初期からあった法弟・同志の多くはほとんど逝去したのであり、慈雲が隠棲を志すのも無理はなかった。
[S]araṇyaの音写で、一般に森の意とされるがインドの植生を想えばむしろ林の意とした方が良い。漢語では、空閑処などと訳される。町や村から遠からず近からずの場所にあって、人気のない閑静な禅定に適した場所のこと。ここではその様な土地に建てられた庵の意。