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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

明堂 『正法律興復大和上光尊者傳』

訓讀

年二十七、高井田たかいだに移住す。葢し師命に隨うなり。寺を長榮と號し、また西之坊にしのぼうと稱す。是に親證・覺法・覺賢、および四方有志の徒、召さずして座下集る。檀施の以て香積こうしゃくに供する無く、日に分衛して以て居諸をわたる。辛苦艱窘、人の耐ること能ざる所、之に處して裕如ゆうじょなり。精修純一、彷彿として佛世の風有り。

年二十九、三周界を結し寺を以て僧坊とす。明年、親證、登壇受具。謂所別受羯磨得べつじゅこんまとくなり。葢し吾邦わがくに過海大師の後、興正大悲已來、大抵通受自誓得なり。まま別受を唱る者有といえども、或は行われ或は否。而して又其の式一準ならず。尊者、據る所有って規則を創制し、後代の標準とす。是の時、門人中、親證最も賢にして純懿じゅんい。正法を匡衛するを以て己が任とす。動静云爲、一に尊者の爲す所にならふ。顔回仲尼に於るが猶し。尊者、亦特に之を器重して、間學徒を勵まして曰く、汝がそう、證の志をもって志と爲せば、乃ち大法其れ庶幾いくばくはまた振んかと。

一日、證、奮然として尊者に請て曰く、方に今、正法絶えざることの如し。いやしくも急に維持せざれば、恐くは佛日地に墜ん。今より後、大小無く、一に佛世の正軌に順じ、澆末の弊儀を雜ること莫ん。尊者曰く、汝の志嘉すべしと雖、其れ時未だ到らざるを何ぞすなわちただ斯の法にたすのみならず、反て他の訕謗せんぼうを來さん。證曰く、佛世尚外道のそしりを起す有り。況や今日をや。世、濁濫なりと雖、法水未だ悉く涸枯せず。又、幸に二三の同志、秘護密持する有り。今正く是れ時。失ふべからずと。尊者大に其の志に激し、即ち其の言に從ひ、僧制を作て以て同志に示し、始て正法律しょうぼうりつと號す。大にして衆法、界の結解けちげ、戒の受捨、の輕重、安居あんご要期、恣說しせつ治擯じひん等、小にして心念法坐具祇支ぎし覆肩ふけん等、及び日用鎖事、遠は律文にもとづき、近は傳戒相承の義に據り、悉く其の弊習を革め、其の規制を正し、悠久に貽すべからしむ。

時に刹嵓せつがん紹應しょうおうの二禪師有り。榮名利養を視ること、將にけがれとするが若し。尊者の所說を聞て拳拳服膺けんけんふくようし、尊者の化をたすけて以て其の身を終るに至る。正法の興る、二師すこぶる力有り。嗚呼、二師の若き者は、謂うべし能く道を守って遷ざる者と。

現代語訳

齢二十七、高井田に移住した。まさに師〈忍綱貞紀〉の命に随ってのことである。寺は長栄と号し、または西之坊と称したものである。ここに親證・覚法・覚賢および四方の道心ある者が、呼びかけたでもなくその元に集まってきた。(しかし長栄寺での生活は)信徒からの布施で香を(仏前に)供えることも出来ない程であり、(一日の糧を得るため)日々に分衛〈托鉢〉して家々を巡った。その辛苦艱窘たる様は常人の耐えられるものではなかったが、その様な場所にあってもおだやかでゆったりとしたものであった。精進修行するさまは純一で、仏陀御在世の当時もかくやと思われる風儀であった。

齢二十九、三周界を結して長栄寺をもって僧坊とした。明年、親證が戒壇に登って具足戒を受けた。それはいわゆる別受羯磨得〈三師七証・:白四羯磨による本来の受具の方法により比丘となること〉であった。思うに我が国では、過海大師〈鑑真〉以降(しばらくは正式で厳密な方法が続いたが平安期中頃に断絶し)、興正菩薩〈叡尊〉や大悲菩薩〈覚盛〉(が戒律復興を果たして)以降は大抵、通受自誓得〈三聚浄戒を受けることに拠って比丘の律儀戒も同時に受けることを通受と覚盛は云い、またそれを自誓受戒によっても可能であると主張した。本来的には決してありえない方法であったが、当時はそれ以外に術がなく、またそれが実行されたことによって既成事実化。後代になるにつれ通受自誓受が伝灯とすらなった〉であった。時として別受〈三師七証・:白四羯磨による本来の受具〉を唱える者もあったが、それを実行する者もいれば(唱えるだけで)実行しない者もおり、さらにその規則・次第も定まったものでなかった。そこで尊者は、(律蔵など確たる)典拠に基づいて授戒法則を作り、後代の為に標準としたのである。この時、門人の中で親證が最も智慧優れて純粋であった。正法を護ることこそ己の務めであるとしていた。その動静云為は、とにかく尊者の為す所に倣ったものであった。(それはまるで)顔回〈孔子の弟子〉と仲尼〈孔子〉のようなものである。尊者もまた、特に親證を大切に思い、ことあるごとに他の学徒を励まして言った、
「おまえ達の同志親證のような志をもって己の志とすれば、仏法は多少なりとも再び盛んになるであろう」
と。

ある日、親證は奮然として尊者に求めて言った。
「まさに今、正法は絶えようとすることか細い糸のようです。一刻も早くこれを維持しなければ、おそらくは仏教という太陽は地に墜ちてしまうでしょう。今より以降、比丘としてなすべき行為・行事について大乗・小乗の別無く、一途に仏陀御在世に定められた軌則に従い、末世の誤った習慣を雑えずにいたしましょう」
と。すると尊者は言う、
「おまえの志は喜ばしいものだが、(ものには好機というものがあって)それを行うに適した時機が到来していないのに断行すれば、仏法を興せないばかりか、むしろ他からの誹謗を招くだけとなろう」
親證は言う。
「仏陀御在世のときにも外道から謗られる者があったのです。まして今日であれば当たり前でしょう。世の人倫乱れているとはいっても、(仏陀の教えという)法水が未だ枯れ尽きてはおりません。また、幸いにもここに二、三の同志があって、軽はずみに他に吹聴して回るような者はいません。今こそがまさに『時』です。この機会を失ってはいけません」
ついに尊者は大いに親證の志に奮い立たされ、そして親證の言葉に従って僧制〈『根本僧制』〉を著して同志に示し、始めて「正法律」と号した。大事に関しては衆法・結界の結解・戒の受捨・懺の軽重・安居の要期 ・恣説・治擯など、小事については心念法・衣・鉢・坐具・祇支・覆肩など、および日用の些事に至るまで、遠くは律文〈律蔵の規定〉に直接基づき、近くは伝戒相承の義〈南山律宗の所伝や『南海寄帰内法伝』など印度紀行の書〉に拠り、全てにおいてその末世の弊習を改め、その規制を正して、常しなえにに存続しうるものとした。

その頃、刹嵓と紹應という二人の禅師があった。彼らの栄名利養を視る目は、まるで汚らわしいものを視るかのようであった。尊者の所説〈正法律復興の志〉を聞いて拳拳服膺し、尊者が教化を助けてその生涯を終えるまでに至った。正法が復興するのに、二禅師は大なる助力となったのである。嗚呼、この二師のような者は讃えられるべきである、「よく道を守って決して退転しない者」と。