時に父、已に沒す。母氏即ち尊者を以て和上に乞て弟子となす。時に年甫て十三なり。尊者剃染すと雖も、固より其の志に非ず。然れども性、至孝。母の命に從うのみ。明年秋、和上、授るに如意輪法を以す。道場觀を受るに至て汗流れて淋漓。歎じて曰く、豈料んや佛道此の如く甚深、此の如く廣大ならんとは。丞けに書を作って母に謝して曰く、今日方に出家の德を知る。亦是れ悲母の鴻恩なり。時從厥の後、激勵勤修、寢食殆んど廢す。和上喜で曰、弟子有ること是の如し。我復何をか憂んと。即ち悉曇章を授けて、梵字を習學せしむ。
年十八、和上命じて伊藤長胤氏に從って文字を學ば俾む。意謂ふ、苟も學術無れば、法將と作って以て外道を伏するに足らずと。尊者命を蒙り趨って京師に抵り、文辭を屬することを學ぶ。僅かに數月、藻思濬發、縦横順逆、意の言んと欲する所、筆亦之に隨う。先生大に賞稱を加ふ。未だ期年ならざるに、和上病有りと聞て、歸って医藥に侍す。病瘳るに迨まで、脇席を沽さざること數十日。人咸其の至孝に感ず。
年十九、和州に遊で、顯密の敎を肄ふ。冬、籍を河之野中寺に隷して、秀嵓和上に從って沙彌戒を受く。嵓師一見して、期するに遠大を以す。之に謂て曰く。子は實に千里の駒なり。善く自ら愛重せよ。寸を恃で人に傲ること莫れ。少を得て足れりとすること莫れ。噫我耄せり。恨むらくは子が他日法幡を建て法鼓を擊つを見るに及ばざるのみ。
ある時、父(安範)が亡くなった。すると母氏は、尊者を貞紀和上に頼んで仏弟子とした。その齢十三のことである。尊者は髪を剃り袈裟衣を着け(出家し)たとはいえ、本心から仏道を志していたのではない。しかし尊者の性格は至孝であり、ただ母の意志に従ったまでのことであった。明年秋、和上は(尊者に真言密教を)伝授するのに、如意輪法〈十八道加行.十八契印〉を行わせた。道場観〈十八道の第八〉を行うに至って、汗が流れて落ちて滝のようとなった。(今まで仏教を信ずることもなく、むしろ憎みさえしていた尊者は)感嘆し、「どうして知り得ただろうか!仏道がこれほどまで底知れぬほど深く、これほどまで広大(な教え)であったとは」と言った。そこで手紙を書き、母への感謝の気持ちをこのように綴った。「今日、まさに出家修行の徳を知りました。これは(図らずも私を出家させてくださった)母上の鴻恩であります」と。この時から以後、意を決して修行につとめ励むこと、寝食をもほとんど忘れてしまうほどとなった。(尊者のそんな姿をみた)和上は喜び、
「弟子に慈雲のような者がある。私は一体何を憂いる必要があろうか!」
と。そこで和上は、(梵字を学ぶための基礎典籍である)『悉曇章』を授け、梵字を習学せたのである。
齢十八、和上は(尊者に)命じて(京都における当代随一の大儒者)伊藤長胤〈伊藤東涯.伊藤仁斎の長子.親子二代にわたり堀川の古義堂にあって全国に名声を馳せた。古義堂は今も当時の地にあって伊藤家の子孫が住まっている〉のもとで学問させることとなった。その意図は、「かりそめにも世間一般の学問がなければ、仏の教えでもって人々を教導する僧 となり、外道と対論し、屈させるには至らない」というものであった。尊者はその命に受け、ただちに京都におもむき、文辞の要訣を学んだのである。わずか数ヶ月(の就学により)、尊者は藻思濬発、縦横順逆、自らが言わんとするところがあれば筆は自在に動いてこれを表すまでに至った。(伊藤東涯)先生はこれを大いに誉め称えた。しかし、(当初予定していた修学の)期年がいまだ満たない内に、和上が病床に就いたとの知らせがあったため、帰って和上の看病にあたった。その病が癒えるまで、病床の脇から離れずにいること数十日間。人々は皆、その至孝に感動した。
齢十九、和州〈奈良〉に遊学し、顕密の教を学んだ。冬、籍を河内野中寺に置き、秀嵓和上に従って沙弥戒を受けた。秀嵓師は(尊者を)一見して期待するのに遠大であった。そこで尊者にこのように語った、
「おまえは実に千里を駆け抜ける駒である。善く自らの行いを慎み身体を大切にしなさい。わずかばかりの才知を誇り、人に傲り高ぶってはならない。(仏法において)少を得て満足してはならない。嗚呼、私はすでに年老いてしまった。残念でならないのは、おまえが将来、法幡を建て、法鼓を撃つのを見ることが出来ないことだ」
と。
齢二十、具支灌頂〈伝法灌頂〉を秀嵓和上に受け、秘密儀軌を戒龍和上から受けた。
齢二十一、満分戒〈具足戒〉を受けた。それはいわゆる通受自誓得によるものであった。以降、毘尼〈vinaya. 律〉を研究して、わずかの時間でも無駄にしなかった。 四律五論〈四つの律蔵(広律)と印度撰述の五つの注釈書〉及び南山疏鈔〈道宣による主として『四分律』に対する諸注釈書〉など、その要所を探り真意を掴んでいった。