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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏説無常経』臨終方訣附

『三啓経』について

常用経典としての『三啓経』

ところで、『仏説無常経』を印度より支那へもたらし翻訳した義浄ぎじょう は、先に示した『 南海寄帰内法伝なんかいききないほうでん 』の一節もまさにそうですが、その処々にて唐代の支那における僧尼らが仏教ではなくむしろ儒教に基づいたあり方をしているのを批判しています。そしてまた義浄は、支那の南山律宗祖である南山大師道宣どうせんによる律の解釈については猛烈な批判を加えていました。

そもそも道宣は、印度における律の実際を知るために自ら渡天することを渇望していたものの、その望みをついに果たすことは出来なかった人です。そこで道宣は、支那国内にて『四分律』を主として漢訳の諸律蔵を読み込み、従来の支那における律学を継承もしくは斟酌し、また玄奘三蔵の渡天時の話や支那へ来訪した印度僧や胡僧から聞き取った話などによって、印度における僧院の有り様と比丘のあるべきようを、いわばあれこれ想像して律蔵を解釈し、その教義を構築しています。その著作の中には、どうしても律の理解出来ずにいた点について天人に質問し、その答えを得たなどというものすらあります。『律相感通伝』です。中でも道宣の律研究の結晶というべきものが、『四分律行事鈔』等のいわゆる律三大部でした。

道宣の諸著作は義浄三蔵の当時、支那の律宗には他に相部宗そうぶしゅう東塔宗とうとうしゅう 等がありましたが、道宣の南山律宗が結局最も盛んとなり、いわば絶対的権威ある書として南山律宗の徒らに奉じられていました。なお、日本に初めて正規の律をもたらした鑑真は道宣の孫弟子にあたる人です。鑑真は南山律宗だけでなく相部宗の律学も伝えていましたが、日本において律宗の祖としてはもっぱら道宣が篤く敬われています。

道宣の著作には非常に優れたものが多くあり、特に律を分析・整理した有益な概念・術語も甚だ多くあります。特に主として南山律宗に基づいて『四分律』を依行してきた日本においては、今に至るまで律学の徒に必読・必携の書であることに違いありません。しかし一方、道宣が印度の実体を知らぬままにその慕情をつのらせしたが故に、そして支那人は一般に修辞を過度に好むという性癖もあって、他の支那の祖師らも押しなべてそうであったように、その教義は過度に思弁的・空理的で冗長となっている点が多く見受けられます。

義浄自身もまた、支那にあった頃に諸律蔵はもとより道宣の説にもよく触れており、律に通じた者として自負していたようです。そして義浄は、法顕や玄奘など渡天した先徳らへの敬慕と憧憬との思いが強く、同じく印度に渡って仏教の実際を直接知ろうとし、ついに南海経由の海路にて渡天を果たしたのでした。

印度にわたった義浄は、五天竺だけでなくセイロン、そして東南アジアなど諸国をなんと二十五年間かけて遍歴し、各地の僧院の様子や比丘の律儀行儀などをつぶさに見聞しています。その途上、義浄は自身が支那にあった時に律学者などと自負していたのを恥じ、自身は何も知らないものであったなどと反省。そこで支那で信奉されている道宣を含む律の学匠らの説について、『南海寄帰内法伝』にて真っ向から批判を加えるに至っています。

帰国に際しては、それまで支那に請来されておらず、その存在もほとんど知られていなかった、あるいは何故か無視されていた根本説一切有部の律蔵、そして多数の顕教および密教の経典を持ち帰って翻訳を開始しています。それは武則天(則天武后)の治世、証聖元年〈695〉のことです。『仏説無常経』はそんな義浄が持ち帰った仏典の中の一つであったわけです。

さて、義浄は、支那における仏教者が準じている喪制があまりに表面的・形式主義的な儒教の礼式に倣ったものであって、本来依るべき仏教の要素が皆無であることを批判。その上で、印度におけるそれはどのようなものであるかを紹介する中、『無常経』が比丘の葬送において用いられていることを伝えています。

又復死喪之際。僧尼漫設禮儀。或復與俗同 哀將爲孝子。或房設靈机用作供養。或披黲布而乖恒式。或留長髮而異則。或拄哭杖。或寢苦廬。斯等咸非教儀。不行無過。理應爲其亡者淨飾一房。或可隨時 權施蓋幔。讀經念佛具設香花。冀使亡魂託生善處。方成孝子始是報恩。豈可泣血三年將爲賽徳。不飡七日始符酬恩者乎。斯乃重結塵勞。更嬰枷鎖。從闇入闇。不悟縁起之三節。欲死趣死。詎證圓成之十地歟然依佛教。苾芻亡者。觀知決死。當日輿向燒處。尋即以火焚之。當燒之時親友咸萃。在一邊坐。或結草爲座。或聚土作臺。 或置甎石以充坐物。令一能者誦無常經。半紙一紙勿令疲久 其經別録附上 然後各念無常。還歸住處。
 また(支那において、僧尼の親・親族などが)死して喪する際には、僧尼は濫りに(経律に根拠を求めず、むしろ外道の行儀に従って)礼儀を設けて行っている。あるいは俗〈儒教〉と同様に哀しむことを以て孝子とし、あるいは自房に(死者を祀るための)霊机を設けることによって供養とし、あるいは黲布〈青黒色の喪服〉を着用して通常とは異なった(喪中である)様を示し、あるいは(頭を剃らず)長く髮を伸ばして(悲しみで身だしなみすら整えられないという)非常な様を見せ、あるいは哭杖〈喪中を示す杖〉で身体を支え、あるいは(日常の住居でない)苦廬〈粗末な小屋〉に寝泊まりするなど、それらは全て(儒教の「礼」に則ったものであって、仏教者としての)教儀〈定められた行儀〉では無い。(よって、仏教徒がそのような儒教の礼式を)行わずともなんら過失とはならない。
 (対して、印度におけるそれを手本として、仏教者として本来なすべき)理とは、その亡者の為に一房を清掃して飾り、あるいは適宜に一時的に傘蓋や幔〈旗〉を設えて読経・念仏し、念入りに香花を供えて、亡魂が善処に転生するようにと願うのである。(それが)まさに「孝子」というものであって、そうして始めて報恩となり得るのだ。一体どうして(『礼記』のいう)「泣血三年」によって(亡き人の)徳に報いることとなり、また「不飡七日」して始めて恩に酬いることが出来るなどと云うのであろうか。それらはただ重ねて塵労〈煩悩〉を深め、更に(生死の苦海の)枷鎖に繋がらせるのみである。(それはあたかも)闇から闇へと入るようなものであり、縁起の三節〈三世両重の縁起〉を悟ることなく、死を欲して死に趣くのである。(そのようでは)どうして円成の十地〈大乗における菩薩の高い階位〉を証することなど出来ようか。
 そこで仏陀の教えに依ったならば、(その葬送に際しては先ず)苾芻びっす〈Bhikṣuの音写。比丘〉の亡者があったならば、観察して確実に死んでいることを確認しなければならない。そしてその当日に(遺骸を)担いで焼き場に向かい、次いで火を以てそれを焚く。その遺骸を焼く時には(生前の)親友ら皆で集まり、(焼き場の)傍らにて坐す。(その坐す場所は)あるいは草を敷いて座となし、あるいは土を集めて(坐すための)台を作り、あるいは甎石〈瓦〉を置いて坐席とするのである。そして一人の(読経の)堪能な者に『無常経』を読誦させるのであるが、それは半紙あるいは一紙ほど(の短いもの)であって、(読経が)長時間に渡って(参列者を)疲れさせるということが無い。その経については別途、録して(帝に)献上する。そうして後に(荼毘に参加した)各自は無常を念じつつ、それぞれの住房へと帰るのである。

義浄『南海寄帰内法伝』巻二(T54, p.216b)

この『南海寄帰内法伝』での一節は、支那における喪の諸相が馬鹿げたものであることを示した後、印度において比丘が死して荼毘に付された際には、その荼毘の様子を見守った同法侶の一人によって『無常経』が読誦され、他の比丘らはそれを静聴して無常を念ずる様子を伝えるものです。

ここでまた義浄は、「半紙一紙」といって『無常経』が非常に短いものであることを表現しています。事実『仏説無常経』自体は極めて短いもので、漢字の文字数で言えばわずか296文字(経題を除く)に過ぎません。日本で最も頻繁に読誦・写経などされている『般若心経』の274文字(経題を除く)より若干多い程度、ほとんど同じ分量である、と言えばわかりやすいでしょうか。

馬鳴によって前後に付された偈頌を併せても、漢字であれば1043文字程度で、千文字などと聞くと驚くほど長いように感じられるかもしれませんが、やはり短いものです。

故に比丘の葬送といっても、それは実に簡素で短時間にて済むものでした。むしろ荼毘の時間こそ非常に長くかかったに違いありません。亡くなった比丘の躯が薪の炎で焼かれるその様子を、ガスやマイクロ波により金属の箱の中で短時間であっさりと焼かれるような現代とは異なって、すぐ側で見続けることもまた、確かに人の身の無常なることを確認するものであったことでしょう。

そもそも、この記述にある比丘らの葬送における行動は、何に基づいて行われたものであったか。それは根本説一切有部の律蔵典籍の一つ、『 根本説一切有部毘奈耶雑事こんぽんせついっさいうぶびなやぞうじ』でした。そこには、比丘が死亡した際にはその遺骸を火葬、あるいは水葬・土葬・風葬に付すべきこと、そしてその時に『無常三啓経』を読誦すべきことが定められています。

縁在室羅伐城逝多林。時此城中有一長者。 娶妻未久便誕一息。年漸長大。於佛法中而爲出家。遇病身死。時諸苾芻即以死屍并其衣鉢棄於路側。有俗人見作如是語。沙門釋子身亡棄去。有云。我試觀之。見已便識報諸人曰。是長者子各共生嫌。於釋子中爲出家者無有依怙。向若在俗諸親必與如法焚燒。苾芻白佛。佛言。苾芻身死應爲供養苾芻不知云何供養。佛言。應可焚燒。具壽鄔波離請世尊曰。如佛所説於此身中有八萬戸蟲如何得燒。佛言。此諸蟲類人生隨生若死隨死此無有過。身有瘡者觀察無蟲方可燒殯。欲燒殯時無柴可得。佛言。可棄河中。若無河者穿地埋之。夏中地濕多有蟲蟻。佛言。於叢薄深處令其北首右脇而臥以草稕支頭。若草若葉覆其身上。送喪苾芻可令能者誦三啓無常經。并説伽他爲其呪願。
 (仏陀が)室羅伐城〈Śrāvastī. 舎衛城〉の逝多林〈Jetavana. 祇園精舎〉におられた時のことである。その時、この都城に一人の長者があった。妻を娶ってから間もなくして一人の息子が生まれた。(その息子は)年を経て成長した後、仏法において出家したが病に罹って死んでしまった。そこで苾芻〈比丘〉達は、その遺骸と衣鉢とを路傍に遺棄した。するとそれを見た俗人はこのように言った、
「沙門釈子が人の亡骸を遺棄した!」
と。そこである者は、
「どれ私がそれを見てみよう」
と言い、実際にそれを確かめて(その遺体が誰であるかが)判ると、それを人々に知らせ、
「これは長者の子である!」
と言ったのだった。人々は皆、(釈子らが人の遺骸を遺棄したことを)嫌悪し、
「釈子の中に出家した者には頼りとなる者など無くなるのだ。もし(死んだ長者の子が出家せず)俗に留まっていたならば、(死んだとしても)その親は必ず彼を如法に焚燒〈火葬〉したであろうのに」
と批難した。そこでこの事を苾芻らは仏陀に報告した。すると仏陀は、
「苾芻がもし死亡したならば、彼の為に供養しなければならない」
と定められた。しかし、苾芻らは具体的にどのように供養すべきかわからなかった。そこで仏陀は、
「適切に焚燒せよ」
と言われた。すると具壽鄔波離うぱり〈Upāli〉は世尊に尋ねて、
「仏陀が(以前)説かれたところによれば、「この身体には八万戸の蟲がある」のことでしたが、どうしてそれを燒くことなど出来るのでしょうか」
と申し上げた。そこで仏陀は、
「この諸々の蟲類とは人が生まれるに隨って生じ、人が死ぬ時に隨って死ぬものであるから、焚焼しても過失とならない。ただし、遺骸に瘡〈はれもの・傷〉がある際は、それをよく観察して蟲〈蛆虫〉の無いことを確かめて(死肉に湧いた虫を焼き殺さぬようにして)から火葬せよ」
と答えられた。(ところがある時、)火葬しようとした際に薪を得ることが出来なかった。そこで仏陀は、
「(火葬する薪を得られない時は)河に投じて水葬せよ。もし(水葬しえる)河が無い時は地に穴を掘って土葬せよ」
と言われた。(しかし、)夏季は大地が湿って多くの蟲・蟻がある。(そのため虫多き土を掘れば虫を殺めることとなり、土葬することが出来なかった。)仏陀はそこで、
「草むらの深い処で、その遺骸の頭を北にして右脇腹を下にして臥せさせ、草枕でもってその頭を支え、もしくは草、もしくは葉でその遺骸の上を覆え。そして(その亡苾芻を)葬送する苾芻は、(読経や諷誦に)堪能なる者に『三啓無常経』を読誦させ、併せて伽他がた〈gāthā. 偈頌〉を唱えさせて亡苾芻の為に呪願させよ」
と定められた。

義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻十八(T24. pp.286c-287a)

ここで釈尊から荼毘にせよといわれたのを聞いた、後代「持律第一」と称される尊者鄔波離が、「以前『この身体には八万戸の蟲がある』と言われたのに、どうしてそれを焼く(殺す)ことなど出来るでしょうか」などと聞くあたり、現代の感覚からすると面白いやり取りと思えるものかもしれません。ここでいわれる蟲とは、もちろん今の生物学でいうところの組織、細胞の集合体のことですが、当時は自身の身体に「自分とは異なる生命がある」・「自身とは雑多な生命の集合体である」という感覚や見方があったことが知られます。

そのような「人の身体には八萬戸の蟲がある」という表現は、譬えば法顯訳『大般涅槃経』などにも見られることで、それを尊者鄔波離は念頭にこう質問したのでしょう。義浄のこうした記録により、当時の比丘らはまさに律に基づいてその通りに行っていたことが裏付けられます。

律蔵と『三啓経』

ところで、そもそもこれは「律」であり、すなわち仏陀の時代に定められた諸々の経緯を記した筈のものであります。そして事実、ここにも仏在世のことであったとして、そのように記されています。にも関わらず、二世紀の馬鳴尊者が偈頌を付加して編纂した『三啓経』がここで当たり前のように言及されているのは甚だ不審です。こんな馬鹿な話はない。

あるいはここに言う「三啓」とは、実際そのような意味もあるのですが「三度申す」の意であって、「(その亡苾芻を)葬送する苾芻は、(読経や諷誦に)堪能なる者に『無常経』を読誦させること三啓し」と読むべきものであり、『無常経』を三度読誦させるという意味であるというならば、そのような不審も解消されるかもしれない。あるいは、訳者である義浄三蔵が、『南海寄帰内法伝』にてそう報告しているように、『無常経』の異称とされているのを訳語に持ち込んでそう記しただけと考えることも可能ではある。

しかしながら、戦前戦後の仏教学者西本龍山氏によれば、西蔵語による根本有部律の該当箇所を見ると紛れもなく「三啓経」に該当する語があり、それによって義浄が斟酌して「三啓」などとしたのでなく、梵本にもそのように書かれていたであろうことが予測されるといいます。そして、義浄訳出の根本説一切有部律には、「無常経」ではなくてむしろ「三啓経」との語こそが、それこそ一、二箇所どころではなくそこかしこに読誦すべきものとして頻出します。やはり、これはどう考えてもおかしなことでありましょう。訳者である義浄三蔵がそのような矛盾に気づかないはずはない。

冒頭、『仏説無常経』とは「必ずしも根本説一切有部独自のものであったと短絡的に見なすことは出来ない」と述べましたが、それは以上のようなこともあるためです。これは根本説一切有部の成立がいつであったかやその経緯にも関わる事項です。この点について、義浄はいかように考えていたかを知りたいところですが今となっては知り得よう筈もありません。またこの問題については全く別途の疑義を次々生じるものであるため、今は一応これ以上深追いしません。

なお、今示したうちの「送喪苾芻可令能者誦無常経」の一節は、道誠の『釈氏要覧』巻下に仏教者の葬送儀礼を示す中で引かれていますが、そこには「三啓」の語が欠落してありません。

さて、『三啓経』はただ単調に読誦されたのではなく「詠唱」されていたことが、また有部律の典籍によって知ることが出来ます。

佛告諸苾芻。從今已往我聽汝等。作吟詠聲而誦經法。佛聽許已諸苾芻衆。作吟詠聲而誦經法。及以讀經。請教白事亦皆如是。給孤長者因入寺中。見合寺僧音聲喧雜。白言聖者。今此伽藍先爲法宇。今日變作乾闥婆城。時諸苾芻以縁白佛。佛言苾芻不應作吟詠聲誦諸經法。及以讀經請教白事。皆不應作。然有二事作吟詠聲。一謂讃大師徳。二謂誦三啓經。餘皆不合。
仏陀は苾芻〈比丘〉たちに、
「今より以降、私は汝らに吟詠声によって経法を誦すことを許す」
と告げられた。仏陀が(そのように)許されると、苾芻衆〈比丘僧伽〉は吟詠聲声によって経法を誦し、さらに読経や請教、白事びゃくじ〈僧伽運営のための提議〉もまた同様にするようになった。そこへ給孤長者がたまたま寺の中に入ってきたところ、寺僧ら皆が音声喧しくして(なんでも吟詠して)いる様を見たのだった。そこで、
「聖者よ、この伽藍はつい先日までは法宇〈仏法の殿堂〉であったのに、まさか今日来てみると乾闥婆城〈gandharva. 音楽神の居城〉に変わっていようとは」
と(苾芻に)申し上げた。そこで苾芻たちはこれを仏陀に報告した。すると仏陀は、
「苾芻は吟詠声によって諸々の経法を誦してはならない。さらに読経や請教、白事も全てそのようにしてはならない。ただし、二つの場合は吟詠声をもってなせ。一つは大師の徳を称賛する時、二つには『三啓経』を誦す時である。その他は全て不可である」
と定められた。

義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻四(T24, p.223b)

これはそもそも、給孤独長者〈Anāthapiṇḍada. 祇園精舎の施主〉すなわち須達〈Sudatta〉が、外道らは(邪法であるとはいえ)その教法を朗々と美しい節をつけて吟じているのに対し、自らが信奉する仏教の比丘らは単調にそれを口にするだけで、それは「猶如瀉棗置之異器(あたかもなつめを器にカラカラ、バラバラと寫す音のようである)」と不満に感じたことがきっかけであったといいます。

そこで給孤独長者は、仏陀にその教法を外道のように調子をつけて唱えることを許されるよう上申した結果、一悶着をへて、上のように限定的にそれを許されたのだ、と有部律は伝えています。日本でいうところの声明しょうみょうの嚆矢が、まさにここに記されているわけです。

もっとも、声明〈śabdavidyā〉とは本来、古代印度における学問の分類「五明〈pañcavidyā〉」の一つであって、文法学・音韻学・文学のいわゆる梵語学を意味します。そして印度においては、これは現代にいたるまで同様ですが、サンスクリットの発音を正しく、そして美しく発し得ることは徳の一つであり、その詩偈を朗々と詠唱出来ることは大いに称賛されます。

最初に示した『南海寄帰内法伝』には、耽摩立底国(ターンラリプティ)の一僧院において、夕方の仏塔や制底での礼拝や読経の際には讃仏のための偈頌や『無常三啓経』が朗々と吟じられる様子が伝えられていました。それはまさしく今挙げた有部律に基づいたものでした。

神々への教化

『三啓経』が読誦されたのは、何も今まで上に示したような日常の晩課(夕勤)や比丘の葬送時に限られたことではありません。

佛在曠野林。如世尊教苾芻不應斬伐諸樹。時諸授事苾芻縁斯事故。於諸營造咸皆廢闕。于時世尊知而故問具壽阿難陀曰。何故授事苾芻所有營作悉皆停息。時阿難陀白佛言。世尊。佛在室羅伐城。告諸苾芻不應斬伐諸樹。由此縁故無木可求。遂廢營作。佛告阿難陀。營作苾芻所有行法。我今説之。凡授事人爲營作故將伐樹時。於七八日前在彼樹下作曼荼羅。布列香花設諸祭食誦三啓經。耆宿苾芻應作特欹拏呪願。説十善道讃歎善業。復應告語。若於此樹舊住天神。應向餘處別求居止。此樹今爲佛法僧寶有所營作。過七八日已應斬伐之。若伐樹時有異相現者。應爲讃歎施捨功徳説慳貪過。若仍現異相者即不應伐。若無別相者應可伐之。若營作苾芻如我所制不依行者。得越法罪。
 仏陀が曠野林におられた時のことである。世尊の教えによれば、苾芻〈比丘〉は(生きた)樹木を伐採してはならない。そこで授事苾芻〈維那。精舎の管理運営を司る比丘〉はそのような規定によって、様々な(精舎伽藍の)修理・造営において(新たに木を伐採して用いることが出来ず、様々な施設が)ことごとく荒廃していった。これを知った世尊は、敢えて具壽阿難陀〈Ānanda〉に、
「どうして授事苾芻のなすべき精舎の管理・運営が悉く停滞しているのであろうか」
と尋ねられた。そこで阿難陀が仏陀に、
「世尊よ、仏陀が室羅伐城におられた時、苾芻たちに『樹木を伐採してはならない』と言われましたが、それが為に材木を入手出来ず、ついに(精舎の)修理・造営が滞りました」
と申し上げた。すると仏陀は阿難陀に、
「営作苾芻〈精舎の造営・修理を担当する比丘〉のすべきことについて、私は今これを説こう。およそ授事人〈担当する比丘。または淨人に樹を伐採させる指示者〉が造営の為に樹木を伐採しようとする時は、その七、八日前にその樹の下に曼荼羅を作り、香花を敷き詰め、様々な祭食を設け、『三啓経』を読誦し、耆宿苾芻〈長老比丘〉は特欹拏呪願〈dakṣiṇā-gāthā. 施偈〉を唱え、十善道を説いて善業を讃歎し、さらに「もしこの樹を住処とする天神があったならば、他所に去って別の住処を求めよ。この樹は今、仏法僧宝の為の造営に用いることとなり、七、八日後にこれを伐採する」と告げよ。もし樹を伐ろうとした時に怪異が現じたならば、(天神に対して)施捨することの功徳を讃歎し、慳貪の過失を説け。もしそれでもなお怪異が現じるようであれば(その樹はもはや)伐ろうとしてはならない。もし特に何も起こらないようであれば、その樹を伐採せよ。もし営作苾芻でありながら、私が制した通りに依行しなかったならば、越法罪〈単堕に抵触する罪〉となる」
と告げられた。

義浄訳『根本説一切有部毘奈耶』巻二十七(T24, p.223b)

以上は波逸底迦〈Prāyascittika. 『四分律』でいう波逸提〉のうち「壊生種学処」が説かれる一節ですが、これにはまだ続きがあります。この後、六群比丘らが立ち木や生草を伐採し、あるいは果樹をもぎ取っているのを見た在家者らから批判され、それらの行為はすべて禁じられています。実は仏教の出家者、比丘は生草を刈り取ることや立ち木を伐採すること、立ち木になる果実や種子を収穫するなどの行為は禁じられており、出来ないのでした。

(現実問題、比丘のみで僧団を運営し、様々なそれら規定を「厳密に」遵守したならば、日々の営為がすこぶる不自由でほぼ立ち行かなくなることでしょう。そこでほとんどの精舎には、浄人といわれる在家信者が詰めることになっています。彼らは、比丘が律を遵守しつつ円滑に僧団運営出来るよう、比丘らの為し得ない行為をその代わりに行うのです。日本ではこれを近住ごんじゅう、あるいは寺男などとも言います。)

そして、これはなにも根本有部律に限って定められたことではなく、すべての律蔵にても同様です。その故は、生草は小さき虫など生命の住まいであり、樹木は(低級な)神々の住まいとされるものであってこれを伐採することは、その住処を奪うこととなるためです。

なおここで少々補足しておかなければならないことがあります。仏教は草木をいわゆる生命とは見ているものの、これをいわゆる「有情」・「衆生」・「群生」の枠に入れることはありません。植物は意識の無いものであって、故に生死輪廻するものでは無いためです。したがって、草木を伐採することを「殺生である」などと考えることはありません。

もっとも、支那にて時代を経るごとに道教などの影響をますます強め、戒も律も次第に無視するようになり独自の規律で動くようになった後代の禅宗では、営農によって自給自足生活を尊び良しとする風が生じています。それはまた、寺院が寄進だけで運営できなくなったという、支那の寺院のあり方・経済事情に起因することでもありました。そして日本においても、特に支那の風儀を全面的に取り入れようとした禅門の僧俗には、それを「そういうもので、そうあるべきだ」などと受け取っている者も多くあります。しかしやはり、農耕など僧である以上はしてはならない営為の一つです。

しかし、これは先にも述べたことですが、それにしても基本的に仏陀ご在世の出来事を伝える律蔵に、仏滅後五百年あまりを経た仏教詩人による偈頌を付した『三啓経』の称が用いられているのは実に可笑しいといわざるをえません。根本説一切部の僧徒はこれをいかに考えていたのか。

さて、いま示した根本有部律の一節には、律の規定に反して樹木を損ない、神々から住処を奪うことを回避するための(一時的な)例外法が示されています。伐採予定の木々を住まいとしている(可能性がある)神々に事前にこれを知らせ、曼荼羅を作壇して慰撫し、説き伏せて別の樹を探すように促す際、『三啓経』およびを施頌を詠唱し、さらに十善業道を説いて教化しすべきことが説かれているのです。中でも、神に対して布施の功徳と慳貪の過失を説くあたり、実に仏教的です。

しかしなぜ『三啓経』であるのか。

營造伐樹時 應從樹神乞 
以諸花果食 設祭可隨時 
應爲誦正法 謂三啓等經 
(精舎)造営のため樹木を伐採する時は樹神に(去ることを)乞い、
諸々の花や果実・食を以て祭祀を行い、然るべき時に 
(その樹神の)為に正法を読誦せよ。いわゆる『三啓経』等である。

義浄訳 毘舍佉造『根本説一切有部毘奈耶頌』巻中(T24, p.633b)

根本有部律の内容を偈頌として要約した『根本説一切有部毘奈耶頌』によれば、それはいわば「正法であるから」ということになる。しかし、そもそも「経典はすべて正法」の筈です。結局その要は、それを最も端的に程よい長さで表したものであったためと思われます。

誰しもが憶えやすい比較的短いもので、またその意義を解しやすく、しかも詠唱が許されている。自他を教化するのにこれ以上好条件を備えたものなど、そうそうありません。もしあったならば、それは必ず常用されることになるでしょう。四十種あったという『三啓経』は、まさに南アジア・東南アジアにおける十一の主要なパリッタや諸々の偈頌と同様なものであったと考えられます。

これ以上、さらに『三啓経』がどのように用いられてきたかの典拠を示すことは不要で、すでに冗長であるのにより一層となるかもしれません。が、最後にもう一節短いものを示しておきます。

凡渉路時應爲法語。勿出惡言。或爲聖默然勿令心散亂。若至天神祠廟之處。誦佛伽他彈指而進。苾芻不應供養天神。若於路次暫止息時。或至泉池取水之處。皆誦伽他。其止宿處應誦三啓。
およそ道を行く時は法の為に語らなければならない。悪しき言葉を語ってはならない。あるいは聖なる沈黙を保って、心を散乱させることが無いように。もし天神を祀る祠廟の処に至ったならば、仏陀の伽他を誦しつつ弾指して進め。苾芻〈比丘〉は天神を供養してはならない。もし路傍にて暫し休息するならば、あるいは泉池など水を得られる処にてし、そこでは皆伽他を誦さなければならない。そして止宿する場所では『三啓経』を読誦しなければならない。

義浄訳 勝友造『根本薩婆多部律攝』巻十(T24, p.583a)

これもまた波逸底迦〈Prāyascittika〉いわゆる波逸堤はいつだいの諸条項が説かれる中の「與苾芻尼同道行学処」が説かれる一節で、やむを得ず比丘が比丘尼と共に遠出しなくてはならない場合についての規定です。ここでは遠出し、その出先にて(当然比丘と比丘尼とは別々に)宿泊することとなった際は、その場所にて『三啓経』を読誦すべきことがいわれています。

ここで「比丘は天神を供養してはならない」すなわち「天神を崇敬し、もてなしてはならない」と言われる一節があることに気づき、不審に思った人もあるかもしれません。しかし、これは神は人より勝れて強い力ある存在で一種の脅威ではあるが尊敬や帰依・信仰の対象にはなりえない、という仏教の基本的立場を表したものです。

今も南アジアや東南アジア、そしてチベットなどでも神々に対して誦経などしますが、それはあくまで神々を教化するためであり、またそれによって仏教の守護を依頼するためです。決して神々を「信仰」してのことではありません。ここで『三啓経』を誦せとされているのは、旅先の土地の神々を教化するのと、(比丘尼と同行していることで)比丘が心を散乱させぬようにする目的であるとみて良い。

以上、示してきた有部律にある様々な記述に依り、根本説一切有部において『三啓経』は、普段から常々用いられていた重要な経典であったことが知られます。『無常経』は、そんな『三啓経』の一つとして、印度の僧院において日常頻繁に唱えられていた経典の一つでした。