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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

不飲酒 ―なぜ酒を飲んではいけないのか

飲酒について

飲酒戒とは

画像:酒という毒

仏教の戒には、その最も基本的なものとして「五戒」があります。これは仏教の在家信者が最低限保つべきとする、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の五ヵ条からなる戒めです。ここでは、その中の飲酒戒おんじゅかい(不飲酒戒・不飲酒)について講説しています。

飲酒戒とは、穀物酒であれ果実酒であれどのような酒類であっても、これを飲むことを戒めたものです。ここで酒とは、また「酔わせるもの」・「中毒性のもの」全般を意味することから、麻薬類もこれに含まれます。なお、仏教の出家修行者いわゆる坊さんの場合は、戒められているのではなく禁止されており、その罰則も詳細に規定されています。仏教において、在家信者に対しては酒は飲むべきものでないとされ、僧侶であれば決して飲んではならないものです。

巷間、具体的な根拠無く、漠然としたイメージや俗説によって、「仏教における飲酒」を語る人が多くあります。どこかでなんとなく聞いた話や拾い読みしたことを、その説の真偽を確かめずそのまま語っているのでしょう。また、独自の解釈によってなんとか飲酒を「仏教的に」正当化しようとする人も大変多くあります。しかし、「仏教における云々」を語るならば、何よりもまず仏典に基づいて具体的に論じるのが第一であり、それが道理というものです。でなければそれは、市井の徒の戯言に過ぎない。

もっとも、実はそのようなことははるか昔、支那は唐代長安の名刹、 西明寺さいみょうじにあった道世どうせいによって編纂されて以来、大変便利な書として用いられてきた『法苑珠林ほうおんじゅりん 』においてなされています。この書は、全百巻からなって項目別に百編六百六十八部に分けられており、仏教の術語や思想について諸経論の典拠を一々挙げて示している、当時のまさに仏教大百科事典です。これはまったく偉大な仕事で、日本でも過去多くの学僧がこれを参照して用いていた事が知られます。いまだ現在もなお、支那及び日本の仏教を学ぶに優れて貴重な書として用い得ようものですが、今やそれを読む者は極めて稀で、学者以外にこの書の存在を知る者はまずありません。

そこで、本稿ではただ飲酒戒に限り、今改めて逐一仏典の原文を挙げ現代語訳を併記して対訳とし、仏教がなぜ飲酒を戒めるかを直に示します。もっとも、ここで紹介しているのは、飲酒の過失を説き戒めている仏典の、比較的名の知られているものの極一部に過ぎません。さらにまた、日本仏教の祖師や高徳と言われる人々の著作や伝記に見られる飲酒に関連した文言を、若干ながら併せて示し、その補助としています。

遮戒と性戒

画像:メタノールとエタノールの化学式・構造式

往往にして、「不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し、悪を行うことを戒めているのだ。よって多少ならば良い」という者が多くあります。が、これは典型的な詭弁です。

確かに、飲酒という行為自体が悪である、酒という存在が罪である、などということはないでしょう。たとえば戒律の分類法の一つに、その行為が悪しき結果を引き起こす可能性が高いことから戒められた 遮戒しゃかいと、その行為自体が本質的に罪であるから戒められた性戒しょうかい という、大まかに二つに区別するものがあります。この分類法によれば、五戒でいうならば、殺生戒や偸盗戒、妄語戒、邪淫戒は性戒であり、飲酒戒は遮戒であるとされます。

しかし、性戒と遮戒という戒の分類は、遮戒であれば犯しても良いなどと勧めたものでも、その根拠になり得るものでもありません。なぜその行為事態が罪でも悪でもないのに戒められるのかの理由を知れば、「遮戒であるから犯しても良い」などという事は出来ない。

たとえば、これを酒と銃と置き換えてみるとわかりやすいかもしれません。日本では銃器の所持および使用は相当厳しく法律で規制されていますが、アメリカ合衆国では銃器の所持および使用が憲法により許されており、州によってかなり異なるものの、大型スーパーマーケットにおいてすら大小様々な口径の殺傷能力の非常に高い銃器を簡単に購入することが出来、個人が自由に使用することが出来ます。

ところが、誰でもその所持・使用が許されていることによって頻繁に銃乱射事件が発生し、日本では考えられないほど多くの人が毎年無意味に生命を奪われ続けています。当然、もう銃の所持自体を禁止しようではないか、という社会的動きがそのたびに生じていますが、建国以来の歴史的な経緯およびアメリカの国土がとてつもなく広大であるなどの点からその実現は非常に困難となっています。

そこでよく言われるのが「銃が人を殺すのではない。人が殺すのである」ということで、「銃自体に善悪など無い」ことが強調されます。

銃など基本的に縁遠い存在であって、その実物を目にすることすら稀な我々日本人が、アメリカの銃問題を傍から見た時には、「いや、銃自体に善悪など無いにしても、それが危険なものであることに変わりなく、その銃の所持が無闇に許されているために銃乱射事件が起き、容易く人が殺されるのだろう。ならば銃の所持を禁止してしまえば、少なくとも銃乱射事件や銃犯罪という恐ろしい事件は無くなるであろうに」と大体が考えることでしょう。そのような点で、酒も銃も同じ様なものです。

したがって、「不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し、悪を行うことを戒めているのだ。よって多少ならば良い」といった如き言は、自身が酒を仏教的に批判されることを好まない、仏教を信仰しているはずの者らが捻り出す詭弁に過ぎません。

なぜ酒を飲んではいけないのか

画像:酒≒麻薬

そもそも、仏教ではなぜ「酒を飲んではいけない」と説くのか。

その答えをきわめて簡潔に言ってしまえば、「自分の為にならないから」の一言につきます。仏典では、様々にその具体的理由を挙げていますが、それらはいわゆる宗教的な、あるいは俗に言うところの抹香臭いものではありません。ほとんど「世間での評判が落ちる」・「健康を害する」・「財産を損減する」などといった、社会的理由や健康上の理由で占められています。宗教的、というよりむしろ仏教的というべきものとして挙げられる理由は、酒が「智慧を損なう」すなわち「知性・理性を損なう」ためです。

人は酒など飲まずとも病を生じて苦しみ、あるいは軽重問わず多くの「あやまち」を犯すものです。飲酒することにより、意図的にその要因をうたた増やすのは愚かなことである、というのが仏教の見解です。

そもそも、酒とは「飲むと重大な悪影響を種々様々に身体に及ぼす」ことが科学的・医学的に明瞭であり、さらに法律で「飲んだら車に乗ってはいけない」と規制され、飲んだ上での運転が発覚すれば非常に重い罰則が課されるものです。にも関わらず、社会のそこら中で誰でも購入することが出来、日常ごく当たり前に飲用されていることを全く疑問に思わない、というのは実に不思議な話です。

たとえ少しであっても「飲んだら車両を運転してはいけない液体」…、その理由は要するに「人をまともに思考・反応・運動できなくさせるものであるから」ですが、そう考えると実に危険なものです。しかし、飲酒文化なるものを形成し、そのような酒を飲んであたりまえと思っている人がそのように考えることなど、万に一つもありません。これは「毎年、餅を食べた際に喉につっかえ窒息死した人の数が400人近くある。そう考えたならば餅は実に危険なものである」などといった類の話ではありません。アルコールは確実に人の身心に害を及ぼし、不正常ならしめるものです。

日本の道路交通法においては、「飲酒運転(酒酔い)」も「麻薬等運転」も、5年以下の懲役刑または100万円以下の罰金刑であって同等です。

実はアルコールの害は喫煙などより甚だしく、場合によっては麻薬と同等あるいはそれ以上の中毒性・麻痺性があります。にも関わらず、これを法律でそれほど制限・禁止しようとしないのは、酒というものと人類との付き合いが非常に長く、その経験から許容しているのでしょうが、健康的・社会的多くの問題を生じさせています。

近年、欧米の多くの国やアジアの一部において、酒に対して規制を強めていく一方で、麻薬でも特に大麻を合法化している流れがあります。その背後には、実は酒や煙草のほうが大麻より身心の健康に対して有害であるというデータがあり、逆に大麻には中毒性は無く、むしろ害を超える種々の益があるとする見方があります。あるいは反社会的組織による大麻の製造販売の収益を断ち切ろうとするものでもあるのでしょう。

日本人はそのような理解が欠落していることから、これに全く感情的・反知性主義的に反発する人が多く見られます。けれども、酒も麻薬も同じく人を酔わせ、中毒にし、また健康に有害である点で同じならば、それらを比較してその害の種類や有無多少で判断しようとする、合理的で必然的に生じた世界の流れです。

しかし、いずれにせよ、仏教の観点からすれば酒も大麻も同じです。「やめておけ」ということに変わりありません。

また、先に酒を飲んではいけない理由として「自分の為にならないから」と言いましたが、日本ではむしろ酒を飲まなければ社交上「自分の為にならない」ではないか、と思う人もあるでしょう。「自分の為にならない」と言っても、そこには様々な観点がある。ただ社会的な観点からすると、多少は酒を飲んでも良い、いや、飲まなければならない、飲まないなど以てのほかだ、ということになるかもしれません。「常識的な範囲なら、自分の為にならないことはない。むしろ為になることのほうが多い」というのが、これは太古の昔から同様のようですが、一般的な見解でしょう。

そこでまた、飲酒文化・酒文化というものが形成されて久しいことから、これを冷静に振り返って考える人はまず無く、むしろそのように考えられること自体を脊髄反射的、感情的に嫌う人こそ多いように思われます。

酒の他にも賭博と売買春、いわゆる「飲む・打つ・買う」の三種は人類が非常に古くから行ってきた並列的に見なされる行為で、現代においても社会のあちこちで当たり前に、しかも盛んに行われています。売春は「世界で最も古い職業」などと言われているほどです。それらは日本でも法律で一応、様々な形で規制しているような格好がつけられてはいます。しかし、非常に面白いことに、警察が思い出したかのようにたまに取り締まる風を装うことはあっても、国家がそれらを厳しく取り締まることは今もありません。

しかしながら飲酒については今後、飲酒運転に関しては幾多の恐ろしい結果をもたらしてきたことからようやくその取締と罰則が比較的厳しくはなっていますが、今後さらに事情が変わっていくと思われます。

画像:WHO 酒に関する宣伝・支援・促進規制

近年、やはり長く人が愛好してきた喫煙が健康衛生上の観点からかなり厳しく制限され、愛煙家の肩身が非常に狭められ、その業界も文化も縮小の一途を辿っています。そこで、その次なる矛先が飲酒に向けられることは確実です。とはいえ、さすがに酒造・飲食業界とその市場が巨大であるため反対の声が非常に大きくなることもまた確実で、喫煙ほど急速に締め付けられることはないでしょう。しかし、この流れはもはや避けられません。飲酒関連の広告・広報から次第に規制の声しようとする動きが、実は世界的にすでに始まっています。

昔のように禁酒法などといった直接的な法律を発布、施行する必要などありません。酒という毒物、麻薬に等しい飲料を人が摂ることを抑制するには、税制を使うのです。

少々時間はかかっても、人を経済的に少しずつ締め上げていくことが、どのような類のことであれ最も効果的です。それに税を利用するのは、作る側や売る側、そして買う側にも違法・脱法行為をしにくくさせる強力な抑制となるでしょう。すなわち、次はタバコがそうであったのと同様、まず先進諸国はそれにかかる税を次第に、そして継続的に重くし続けることによって、物理的にその締め付けを強めていくことでしょう。