《第丗五》
問て曰く、僕、𠹉て于闐の國に遊び、數沙門道人と相ひ見へ、吾が事を以て之を難じたるに、皆な對莫くして詞退し、多く志を攺め意を移せり。子、獨り攺革し難きか。
牟子曰く、輕羽高きに在るが風に遇へば則ち飛ぶ。細石谿に在るが流れを得れば則ち轉ず。唯だ泰山、飄風の爲にも動ぜず、磐石、疾流の爲に移らず。梅李は霜に遇て落葉するも、唯だ松栢は之れ凋み難し。子が見る所の道人は必ずや學未だ浹からず、見未だ博からざるなり。故に屈退有るのみ。吾が頑を以て且つ窮すべからず。況や明道の者をや。子は自ら攺めずして人を攺めんと欲す。吾、未だ仲尼の盜跖を追ひ、湯武の桀紂に法る者を聞かず。
《第丗六》(⇒現代語訳)
問て曰く、神仙の術は秋冬食らはず。或は入室累旬して出でず。憺泊の至りと謂つべし。僕以爲らく、尊にして貴ぶべしと。殆ど佛道、之に若かざらん。
牟子曰く、南を指し北と爲して自ら不惑と謂ひ、西を以て東と爲して自ら不矇と謂ひ、鴟梟を以て鳳凰を笑ひ、螻蚓を執て龜龍を調るなり。蟬の食はざるは君子貴ばず。蛙蟒の穴藏は聖人重んぜず。孔子曰く、天地の性、人を以て貴と爲すと。蟬蟒を尊ぶを聞かず。然れども世人、固より菖蒲を啖ひて桂薑を棄て、甘露を覆して酢漿を啜る者有り。毫毛は小なりと雖も之を視て察すべし。泰山の大ひなるも之を背にして見ず。志に留と不留と有り。意に鋭と不鋭と有り。魯は季氏を尊んで仲尼を卑しめ、呉は宰嚭を賢として子胥に肖ず。子の疑ふ所、亦た宜ならざらんや。
《第丗七》(⇒現代語訳)
問て曰く、道家云く、堯・舜・周・孔・七十二弟子、皆な不死にして仙なりと。佛家云く、人皆な當に死すべく、能く免るる莫しと。何ぞや。
牟子曰く、此は妖妄の言にして聖人の語る所に非ず。老子曰く、天地すら尚ほ長久を得ず。而るを況や人をやと。孔子曰く、賢者は世を避くと。仁・孝は常に在り。吾れ六藝を覽、傳記を觀るに、堯に殂落有り、舜に蒼梧の山有り、禹に會稽の陵有り、伯夷・叔齊に首陽の墓有り。文王、紂を誅するに及ばずして沒し、武王は成王の大を待つこと能はずして崩じ、周公に攺葬の篇有り。仲尼に兩楹の夢有て、伯魚に先父の年有り、子路に𦵔醢の語有り、伯牛に亡命亡命の文有り、曾參に啓足の詞有り、顏淵に不幸短命の記、苗として不秀の喩へ有り。皆な著れて經典に在り。聖人の至言なり。吾れ經傳を以て證と爲す。世人は驗と爲して而も不死と云ふは、豈に惑にあらざらんや。
《結文》(⇒現代語訳)
問て曰く、子の解する所は誠に悉く𠏆はれり。固より僕等の聞く所に非ず。然るに子の理とする所は何を以てか止だ三十七條を著せる。亦た法有りや。
牟子曰く。夫れ蓬漂轉じて車輪成り、窊木流れて舟楫設けらる。蜘蛛布きて罻羅を陳べ、鳥跡見られて文字を作る。故に法有らば成り易く、法無ければ成り難し。吾れ佛經の要を覽るに三十七品有り。老氏道經も亦た三十七篇なり。故に之に法る。
是に於て惑ふ人、之を聞き、踧然として色を失ひ、叉手して席を避け、逡巡俯伏して曰く、鄙人矇瞽、幽仄に生る。敢て愚言を出して禍福を慮らず。今や命を聞くこと霍として湯雪の如し。請ふ、情を革むことを得、洒心自ら勅めんことを。願くは五戒を受けて優婆塞と作らん。
《第丗五》
問う。私はかつて于闐〈Khotan. ホータン〉の国に遊行し、しばしば沙門道人と相見え、我が(儒教の)事をもって仏教を難じたところ、誰も対抗出来ずに沈黙し、その多くは志を改めて(儒教に)意を移した。あなただけが改革し難いのか。
牟子は云う。軽い羽で高いところに在るものは風に遇ったならばすぐに飛び、細かい石で谿に在るものは流れを得たならばたちまち転がり動く。ただ(雄大なる)泰山は飄風〈つむじ風〉によっても動ずることはなく、磐石は疾い流れによって移ることはない。梅や李は霜に遇えば落葉するが、ただ松や栢は凋み難い。あなたが見た道人は、必ずやその学徳がいまだ浹からず、その見識もいまだ博くなかったのであろう。故に(仏教を捨て、儒教に走るという)屈退があったのだ。(あなたは)我のような頑な者をすら窮することは出来ない。ましてや道を明かした者ならば言うまでもない。あなたは自ら改めることなく人を改めようとしている。(しかし、)私は、いまだ仲尼〈孔子〉が盜跖〈春秋時代の大盗賊〉に追従し、(殷の始祖)湯王や(周の始祖)武王が(夏の末代)桀王や(殷の末代)紂王を模範としたなどという話を聞いたことはない。
《第丗六》(⇒訓読)
問う。神仙の術では秋も冬も食らわず、あるいは室に籠もって累旬〈数十日〉もの間出てきはしない。まさに憺泊〈あっさりとして無欲なこと〉の至りと謂うべきものである。私が思うに、それこそ尊く貴ぶべきものである。ほとんど仏道は、神仙の術に及ぶものでないであろう。
牟子は云う。南を指して北と為しつつ自ら「惑っていない」と謂い、西を以て東と為して自ら「矇ではない」と謂い、鴟梟〈フクロウ〉を以て鳳凰を笑い、螻や蚓を執って亀や龍を調るようなものだ。蟬が(何も)食べないからといって、君子はそれを貴びはしない。蛙や蟒の(数ヶ月間冬眠するための)穴蔵を、聖人が重んじることはない。孔子は「天地の性、人を以て貴と為す〈天地の中で人ほど貴いものは無い〉」〈『論語』〉と云っている。(孔子が)蟬や蟒を尊んだなどと聞いたことはない。しかしながら世人とは、そもそも菖蒲〈平凡な生薬〉を啖って桂薑〈桂皮と生姜。生薬の長〉を棄て、甘露〈天子が善政を布いたときに降るという不老不死の妙薬〉を覆して酢漿〈酢〉を啜る者がある。毫毛はごく微小なものではあるけれども、これをよく視れば観察することが出来る。泰山という偉大なものであっても、それを背にしたならば見ることは出来ない。志にはよく留めるものと留めないものとが有り、意には鋭さと鈍さとが有る。魯は季氏〈季桓子〉を尊んで仲尼〈孔子〉を卑しめ、呉は太宰嚭〈越から収賄していた奸臣〉を賢者として伍子胥
〈越を滅ぼすべきと進言していた高官〉の助言を容れることがなかった。(その結果、魯は滅亡に向かって、呉はすぐ滅んだ。)あなたが(いわゆる世人であるならば)そう疑うことは、なるほどもっともなことと云うべきか。
《第丗七》(⇒訓読)
問う。道家は、「堯・舜・周公旦・孔子・(孔子の高弟)七十二弟子は皆、不死にして仙人である」と云う。(それに対して)仏家は、「人は皆まさに死すべきものであり、よく(老・病・死から)免れる者など無い」と云う。これはどうしたことであるか。
牟子は云う、(道家の云う)それは妖妄の言葉であって聖人の語ったものではない。老子は「天地尚お長久を得ず。而るを況や人をや〈天地すら永遠たりえず、人は言うまでもない〉」と云った。孔子は「賢者は世を避く〈賢者は世を避ける〉」と云っている。仁・孝は常に在り。私が六藝〈六経.儒教の聖典〉を覧て、伝記を観たところ、堯には殂落〈天子の死没〉があり、舜には(没した地であり墓の作られた)蒼梧の山があり、禹には会稽の陵があり、伯夷・叔齊には首陽山の墓がある。文王は紂王を誅する前に没しているし、武王は成王が成長するのを待つことなく崩御し、周公旦には改葬の篇がある〈『書経』〉。仲尼には(その死を予見させた)「両楹の夢」〈『礼記』〉があったし、伯魚〈孔子の実子〉には父に先立って死んだ年の記録があり、子路は(衛の内乱で殺された後に)𦵔醢〈塩漬け〉にされたという言葉が伝わっており〈『孔子家語』〉、冉伯牛には(その病に罹ったことを悲しんだ孔子による)「亡命の文」〈『論語』〉があり、曾參には「啓足の詞」〈『論語』〉があり、顏淵には(孔子による)「不幸短命の記」〈『論語』〉があって、「苗として不秀の喩え」〈『論語』〉もある。それらは皆、(儒教の)経典に記され伝わった、聖人の至言である。私は経伝を以て証とするが、世人が(道家の術の)験として、しかも(儒教の聖人・賢人を)不死であるなどと云うことは、一体惑いでなくて何だというのか。
《結文》(⇒訓読)
問う。あなたの解する所は、誠に悉く備わったものである。もとより我等が(儒家や道家、神仙などで)聞いてきたのとはまるで異なったものであった。しかしながら、あなたの理とする所は、どうしてただ三十七条を著すのみであるのか。また(その根拠・由来となる)法があるのだろうか。
牟子は云う。そもそも、「漂う蓬の草が転がっているのを見て車輪が作られ、窪んだ木が(水の上を)流れるのを見て舟が設けられ、蜘蛛が(巣を)張るのを見て鳥を捉える網が編まれ、鳥の足跡を見て文字が作られた」〈『淮南子』説山訓〉のだ。故に、(物事とはその模範とすべき)法があれば成り易く、法が無ければ成り難い。私が仏経の要を覧てみると、三十七品〈三十七菩提分法〉がある。老氏道経〈『老子道徳経』〉もまた三十七篇〈上巻が三十七篇〉である。故にそれに則ったのだ。
ここにおいて、惑える者は今までの問答を聞き、踧然〈かしこまった様子〉として色を失い、腕を組んで席を立ち、逡巡〈決断できずためらうこと〉し俯伏〈頭を下げうつむくこと〉して言った。「鄙人〈田舎者.自分をへり下って云う語〉は矇瞽〈盲目〉、幽仄〈物事に昏く、いやしいこと〉な者として生まれました。わざわざ愚かな言葉を出して禍福について慮ることがありませんでした。しかし今、あなたの命を聞いたことによってたちまち雪に湯をかけたかのようです。これまでの情を革め、心を洗い清めて自らを勅めたいと思います。願くは五戒を受け、優婆塞〈upāsaka. 仏教の在家男性信者〉となりましょう」と。
現代語訳 沙門覺應