《第一》
或が問て曰く、佛は何れ從り出生せりや。寧ろ先祖及び國邑有りや不や。皆、何をか施行し、狀、何に類するや。
牟子曰く、富めるかな問ひや。請ふ、不敏を以て略して其の要を說かん。蓋し聞く、佛化の狀たるや、道德を積累すること數千億載にして紀記すべからず。然して佛を得るの時に臨んで天竺に生じ、形を白淨王夫人の晝寢の夢に、白象の身の六牙有るに乘るに假る。欣然として之を悦び、遂に感じて孕む。四月八日を以て、母の右脅從りして生ず。地に墮ちて行くこと七歩、右手を擧て曰く、天上天下、我に踰ゆる者有ること靡しと。時に天地大いに動き、宮中皆明かなり。其の日、王家の靑衣も復た一兒を產む。廏中の白馬、亦た白駒を乳す。奴の字は車匿、馬は揵陟と曰ふ。王、常に太子を隨はしむ。太子に三十二相八十種好有り。身長丈六、體は皆金色。頂に肉髻有り、頬車は師子の如し。舌自ら靣を覆ひ、手に千輻輪を把り、頂光、萬里を照らす。此れ略して其の相を說くものなり。年十七、王、爲に納妃す。鄰國の女なり。太子坐すれば則ち座を遷し、寢れば則ち床を異にす。天道、孔だ明かにして陰陽にして通じ、遂に一男を懷く。六年にして乃ち生る。父王、太子を珍偉とし、爲に宮觀を興し、妓女・寶玩、並に前に列ねる。太子、世樂を貪らず、意、道德に存す。年十九、四月八日夜半、車匿を呼び揵陟を呼して之に跨る。鬼神扶擧して飛んで出宮す。明日、廓然として所在を知らず。王及び吏民、歔欷せざる莫く、之を追て田に及ぶ。王曰く、未だ爾有らざるの時、神祇に禱請せり。今既に爾有ること玉の如く、珪の如し。當に祿位を續ぐべくして去るは何爲れぞと。太子曰く、萬物は無常なり。存する有るも當に亡ぶべし。今道を學んで十方を度脱せんと欲すと。王、其の彌々堅きを知て、遂に起て還る。太子、徑に去る。道を思ふこと六年、遂に成佛す。孟夏の月に生るる所以は、寒からず熱からず、草木華英にして狐裘を釋き、絺𥿭を衣る中呂の時なればなり。天竺に生るる所以は、天地の中處にして其の中和なればなり。著す所の經に凡そ十二部有て、合して八億四千萬卷。其の大卷は萬言以下、小卷は千言巳上。佛、天下を敎授して人民を度脱す。因りて二月十五日を以て、泥洹して去る。其の經戒續き存す。履で能く之を行へば、亦た無爲を得。福、後世に流る。五戒を持す者は、一月に六齋。齋の日は專心壹意、悔過して自ら新む。沙門は二百五十戒を持し、日日齋す。其の戒は優婆塞の聞き得る所に非ず。威儀進止、古の典禮と異なること無し。終日竟夜、道を講じ經を誦して世事に預らず。老子曰く、孔德の容は唯だ道に是れ從ふと。其れ斯れの謂なり。
《第二》(⇒現代語訳)
問て曰く、何を以てか正に佛と言ふ。佛とは何の謂と爲すや。
牟子曰く、佛とは諡號なり。猶ほ三皇を神とし五帝を聖と名づけるがごとし。佛は道德の元祖、神明の宗緒なり。佛は之に覺と言ふ。怳愡變化、分身散體、或は存し或は亡ふ。能く小に能く大に、能く圓に能く方に、能く老に能く少に、能く隱に能く彰に、火を蹈んで燒けず、刃を履んで傷まず。汙に在て染まず、禍に在て殃無し。行んと欲すれば則ち飛び、坐すれば則ち光を揚ぐ。故に號して佛と爲すなり。
《第三》(⇒現代語訳)
問て曰く、何を謂てか之を道と爲す。道とは何の類ぞや。
牟子曰く、道之を導と言ふ。人を導て無爲に致らしむ。之を牽くも前無く、之を引くも後無し。之を擧ぐるも上無く、之を抑ふるも下無し。之を視るも形無く、之を聽くも聲無し。四表を大と爲して、其の外に綩綖たり。毫釐を細と爲して、其の内に間關たり。故に之を道と謂ふ。
《第四》(⇒現代語訳)
問て曰く、孔子は五經を以て道の敎へと爲す。拱きて誦し、履で行くべし。今、子は道を說くに虗無怳愡として、其の意を見ず、其の事を指さず。何ぞ聖人の言と異るや。
牟子曰く、習ふ所を以て重と爲し、希なる所を輕と爲すべからず。外類に惑ひ、中情に失ふも、事を立るに道德を失はざるは、猶ほ調絃に宮商を失はざるがごとし。天道は四時に法り、人道は五常に法る。老子曰く、物有り混成し、天地に先んじて生ず。以て天下の母と爲すべし。吾れ其の名を知らず、强て字して之を道と曰ふと。道の物爲るや、家に居りては以て親に事ふべく、國を宰りては以て民を治むべく、獨り立ては以て身を治むべし。 履で之を行へば天地に克ち、廢して用ひざれば消ゆれども離れず。子、之を解さざるも、何の異りか之有らん。
《第一》
ある者が問う。仏は何処で出生したのであろう?むしろ先祖や(生まれた)国・村などあるのだろうか?総じて何を行い、その容貌はどのようなものであったろう。
牟子は云う。実に良い問いである。どうか(私、牟子が)不敏〈才知に乏しいこと〉ながらも略してその要を説くことを許していただきたい。およそ聞くところによれば、(釈迦牟尼が)仏となるに至るまでの様相は、道徳を積み累ねること数千億年にも及ぶものであって、記録し尽くせたものではない。そうして仏をついに得る時となって天竺〈印度〉に生を受けたのである。そしてその身を、白淨王〈[P].Suddhodana. 浄飯王。釈尊の父王〉の夫人〈[S/P].Māyā. 摩耶夫人。釈尊の実母〉が昼寝しているその夢で、白象の六つの牙があるのに乗って入るのを見せた。(そんな吉祥なる夢を見た夫人は)非常に嬉しくなってこれを喜び、ついにその通り懐妊。四月八日、母の右脇より生まれた。(仏は生まれて)地に落ちるとただちに行くこと七歩。右手を挙げて、「天上天下、我を踰える者のあることは無い」と言った。すると天地は大いに動き、宮中はすみずみまで光り輝いた。その日、王家の青衣〈下民・奴婢〉もまた一子を産み、厩にある白馬もまた白い駒を出産していた。奴婢の字は車匿〈[P].Channa〉、馬は揵陟〈[P].Kanthaka〉といった。王は常に太子を随行させた。太子には三十二相八十種好〈転輪聖王あるいは仏陀となる者が具える身体的特徴〉があった。身長は丈六〈一丈六尺〉、身体はすべて金色のように輝き、その頭頂には肉髻があり、頬車はあたかも師子のようであった。舌は(大きく長く)、自ら顔を覆うことが出来、手のひらには千輻輪の文様があって、その頭頂からの光〈いわゆる後光〉は万里を照らすほどであった。これが略して(仏の)その姿を説いたものである。年十七となって、王は(太子の)為に妃を娶らせた。隣国の女〈[P].Yasodharā. 耶輸陀羅〉である。太子が坐ったならばただちにその座を遷し、(太子が)寝たならばすぐ床を別にしていた。(しかしながら)天道〈ここでは「自然の摂理」の意〉というものは誠に明かなものであって、陰陽〈ここでは「男と女」の意〉のことであるからそのうち通じ、ついに一男子を孕んだ。(しかし、懐妊してから)六年目となって生れている。父王は、そんな太子を珍偉〈生来、貴く偉大になる者〉として、その為に宮殿・楼閣を建造し、妓女や宝物をズラリとその前に並べていた。(ところが)太子はそんな世間の快楽を貪ろうとはせず、心を道徳に向けていた。年十九となった四月八日の夜半、(ついに宮殿を出て出家するために)車匿を呼び、また揵陟を呼んでこれに跨った。すると鬼神が(揵陟の蹄の音がしないよう、その足を宙に)助けて持ち上げ、飛んで宮殿を出た。明日、(太子の部屋は)すっかり空となってその所在が知れなかった。王および家臣や民衆は、歔欷〈咽び泣き〉しない者は無く、太子を追って(宮城から離れた)田園地帯にまで及んだ。(そこでようやく太子を見つけることが出来た)王は、「いまだお前が生まれていなかった時、(私は男子を得られるよう)神祇に祈請したのだ。そして今、既にお前がこうしてあって、(私にとってお前は非常に大切な)宝石のようであり、また水晶のようなものである。いずれ禄位〈財産と王位〉を継ぐべきであるのに、それを去るは一体どういうわけであろうか」と言った。すると太子は、「万物は無常であります。存在するものはいつか亡びるものです。今、道を学んで十方(の生けるもの達)を度脱〈解脱〉させたいと思うのです」と答えた。すると王は、その(決意が)いよいよ堅いことを知って、ついに(城に戻ることを説得するの諦め)立ちあがって還った。そこで太子もまたただちに去った。そうして道を(求め、種々様々の修行を試すなど苦心し)思惟すること六年、遂に仏と成ったのである。孟夏の月〈陰暦四月.初夏〉に生まれた所以は、寒くもなく熱くもなく、草木や華が盛んであって狐裘〈冬に着る狐の毛皮で出来た上等な上着〉を脱ぎ、絺𥿭〈夏用の薄く上質な帷子〉を着る中呂〈陰暦四月〉の時であったからこそ。天竺に生かれた所以は、天地の中処であってその中和であったからである〈仏教を信じる支那人にとって「中国」とは印度であった〉。(仏が)著した経には、およそ十二部の別があって、合わせて八億四千万卷がある。その大部の卷は万言以下、小部の巻でも千言以上である。仏は天下を教授して人民を度脱したが、ついに二月十五日をもって、泥洹〈[P].nibbāna. 涅槃〉して死去した。その経と戒〈法(Dhamma)と律(Vinaya)〉とが(様々な国で今に至るまで)継がれ存しており、踏襲して能くそれを行ったならば、また無爲〈ここでは「泥洹(涅槃)」・「解脱」に同じ〉を得る。(泥洹に至らないまでも、現世で積み重ねた)福〈功徳〉は後世に引き継がれる。五戒を持つ者〈在家信者〉は、一ヶ月に六斎日があって、斎の日は一意専心して悔過し、自ら(それまでの生活を顧みて)改める。沙門〈[P].Samaṇa. 出家修行者.ここでは特に「比丘」〉は二百五十戒を持って(六斎日に限らず)日日に持斎する。(沙門の)その戒(の詳しい内容)は、優婆塞〈在家男性信者〉が聞き得るものではない〈比丘は在家信者に二百五十戒の内容を語ってはならないことの指摘〉。(しかしながら、その沙門の)威儀進止は、(支那における)古の典礼〈『礼記』〉と異なるところは無い。(沙門は)終日竟夜、道を講じて経を誦し、世俗の事業に関わらない。老子は「孔徳の容は唯だ道に是れ従う〈大いに徳ある者の姿は、ただひたむきに「道」に従うのみである〉」と言うが、そんな(沙門の生活の)様子はまさにその謂である。
《第二》(⇒訓読)
問う。何を以てまさに仏と言うのであろう。仏とは何の謂であるのか。
牟子は云う。仏とは諡号である。例えば(儒教において)三皇〈支那の伝説で人の祖先とされる天皇・地皇・人皇の三人の神〉を神とし、五帝〈支那の伝説的五人の帝王.黄帝・顓頊・帝嚳・尭・舜〉を聖人と名づけるようなものだ。仏は道徳の元祖であり、神明の宗緒〈祖業.大元〉である。仏は(天竺の語であって、)ここでは「覚〈覚れる者〉」と言う。恍惚〈捉え所がない様〉として変化し、分身したり体が離れたり、有るかと思えば無く、小さくなったり大きくなったり、丸くなったり四角くなったり、老人になったかと思えば子供になり、消えたと思えば現れ、火の上を歩いても焼けず、刃を踏んでも傷つかず、汗にまみれても汚れず、災害にあってもに殃無い。行こうと思えばたちまち飛び、坐ったならば光を放つ。そのようなことから号して仏という。
《第三》(⇒訓読)
問う。何を言ってこれを道とするのであろう。(仏教のいう)道とは何の類であろうか。
牟子は云う。道、それは導くものである。人を導いて無為〈涅槃〉に致らせる。それを牽くにも前は無く、それを引くにも後ろが無い。それを挙げるにも上は無く、それを抑えるにも下も無い。それを視るにも形は無く、それを聞くにも声も無い。(それは)四表〈四方.世界・宇宙〉という最も大いなるものの、その外に綩綖〈宛延.長く伸びやかに連なった様〉としている。(それはまた)毫釐〈ごく僅かなこと〉という最も微細なものの、その内にあって間関 としている。そのようなことから、これを道と謂うのだ。
《第四》(⇒訓読)
問う。孔子は五経を以て道の教えであるとした。(それをこそ)拱いて〈両手で抱えるように奉持すること〉誦し〈暗誦.素読すること〉、履行すべきものであろう。しかるに今、あなたは道を説くのに虚無にして恍惚とした(意味のよくわからない)ことを提示している。(そこには五経と同じ)その意義を見ることが出来ないし、その事を示したものでもない。どうして(堯・舜や孔子などの)聖人の言葉と異っているのか。
牟子は云う。(自らが今まで)慣れ親しんできたものを以て価値あるとし、(自らが今まで接することのなかった)珍しいものを軽んじてはならない。たとえ(自らが奉じ、慣れ親しんできたのではない)外の事物に戸惑い、心情として理解出来なかったとしても、その事を明らかにしていくのに道徳を失わないことは、あたかも(音の狂った弦楽器を)調絃するにも宮商〈支那の伝統的音楽における五つの音階のうちの二つ.ここでは「音感」の意〉を失うことがないようなものである。天道〈自然の摂理〉は四時〈四季〉に法るものであり、人道は五常〈仁・義・礼・智・信〉に法るものである。老子は「物有り混成し、天地に先んじて生ず。以て天下の母と爲すべし。吾れ其の名を知らず、强て字して之を道と曰ふ〈まず何か混じり合った物があって、それが天地より先に生じていた。それは世界の母というべきものである。私はその名を知らないが、あえて称するならばこれを「道」と言う〉」と云っている。道というものは、(若くして)家にある時は(それを)以て親によく仕え、国を宰
る時は以て民を治め、(家から離れ、また仕官もせずに)独立してある時は以てその身を治めるべきものである。(人々が道を)模範としてこれを行ったならば(徳は)天地〈世界〉に充ち、(道を)廃して用いなければ(徳も)消えるけれども、(しかし道が世界から)離れることは無い。あなたはこのことを理解できなかったであろうが、そこにどのような異りが有るだろうか。