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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

牟融『理惑論』 (『牟子理惑論』)

訓読

《第五》
問て曰く、夫れ至實は華にあらず、至辭は飾にあらず。ことばつづまやかにして至れるものはうらら、ことすくなくして𨔶たっするものはあきらかなり。故に珠玉は少くして貴く、瓦礫は多くして賤し。聖人、七經しちけいの本を制するも、三萬言を過ぎずして衆事𠏆そなはる。今、佛經は卷は萬を以てはかり、言は億を以て數ふ。一人の力の能く堪ふる所に非ず。やつがれ以爲おもへらく、煩にして要ならずと。
牟子曰く、江海こうかい行潦こうろうに異る所以は、其のふかく廣きを以てなり。五嶽ごがくの丘陵に別つ所以は、其の高く大なるを以てなり。若し高きこと山阜せんぷを絶たずんば、跛羊はようも其のいただきを淩ぎ、㴱きこと涓流けんりゅうを絶たずんば、孺子じゅしも其の淵に浴せん。麒麟きりん苑囿えんゆうの中に處せず、呑舟どんしゅううおは數仞のたにに遊ばず。三寸のほうきて明月の珠を求め、枳棘ききょくの巢を探て鳳皇の雛を求めんも、必ず獲ること難し。何者なんとなれば、小は大を容れること能はざればなり。佛經は前は億載の事を說き、却ては萬世のかなめふ。太素たいそ未だ起らず、太始たいし未だ生ぜず、乾坤けんこんはじめて興るも、其の微なることは握るべからず、其のせんなることは入るべからず。佛悉く其の廣大の外に彌綸みりんし、其の寂にして窈妙ようみょうの内に剖析ほうせきして之を紀せざる靡し。故に其の經卷は萬を以て計り、言は億を以て數ふ。多多益々具はり、衆衆益々富む。何の不要か之れ有らん。一人の堪ふる所に非ずと雖も、譬へば河に臨みて水を飲むがごとし。飽て自ら足れば、いずくんぞ其の餘れるを知らんや。

《第六》(⇒現代語訳
問て曰く、佛經は衆多なり。其の要を得て其の餘を棄て、じきに其の實を說きて其の華を除かんと欲するや。
牟子曰く、否。夫れ日月は倶に明かにして各々照す所有り。二十八宿は各々つかさどる所有り。百藥は並に生かすれども各々愈す所有り。狐裘こきゅうは寒に𠏆へ、絺𥿭ちげきは暑を御す。舟輿しゅうよ路をことにすれども倶に行旅を致す。孔子は五經の𠏆れるを以てせずして、復た春秋・孝經を作れるは、道術を博め人意をほしいままにせんと欲するのみ。佛經は多しと雖も其の歸は一たり。猶ほ七典は異と雖も其の道德仁義を貴ぶは亦た一なるがごとし。孝の說く所以の多きは、人の行ふに隨て之れに あたふればなり。子張しちょう子游しゆうともに一孝を問ふに、仲尼ちゅうじは之に答ふるに各々異るが若し。其の短を攻むればなり。何のつるか之れ有らんや。

《第七》(⇒現代語訳
問て曰く、佛道は至尊至大なるに、ぎょうしゅんしゅうこうなんぞ之を修めざるや。七經の中、其の辭を見ず。子は既に詩書にふけり、禮樂を悦ぶ。奚爲なんすれぞ復た佛道を好み、異術を喜ぶや。豈に能く經傳をへ、聖業よりも美ならんや。ひそかに吾子が爲に取らざるなり。
牟子曰く、書は必ずしも孔丘こうきゅうの言のみにあらず。藥は必ずしも扁鵲へんじゃくの方のみにあらず。義に合ふ者は從ひ、病を愈す者は良きなり。君子は博く衆善を取り、以て其の身を輔く。子貢しこう云く、夫子ふうし何ぞ常師か之れ有らんと。堯は尹壽いんじゅに事へ、舜は務成むせいに事へ、たん呂望りょぼうに學び、きゅう老聃ろうたんに學ぶ。亦た倶に七經に見ざるなり。四師ししは聖なりと雖も、之を佛に比せば、猶ほ白鹿びゃくか麒麟きりんと、鷰鳥えんちょうと鳳凰との如し。堯・舜・周・孔すら且つ猶ほ之れのごとし。いはんや佛身の相好變化し神力無方なるをや。 焉んぞ能く捨てて學ばざらんや。五經の事義は或は闕くる所有らん。佛を記するを見ざるも、何ぞ怪しみ疑ふに足らんや。

《第八》(⇒現代語訳
問て曰く、佛に三十二相八十種好有りと云ふ。何ぞ其れ人に異ることの甚しきや。殆ど富耳ふうじの語にして實に非ざるの云ならん。
牟子曰く、ことわざに云く、見る所少なければ怪しむ所多しと。馲駝たくだを覩ては馬の腫背しゅはいと言ふ。堯眉ぎょうび八彩はっさい舜目しゅんもく重瞳じゅうどう皋陶こうよう烏喙うかい文王ぶんおう四乳しにゅう禹耳うじ三漏さんろ周公しゅうこう背僂はいる伏羲ふくぎ龍鼻りょうび仲尼ちゅうじ反頨はんう老子ろうし日角月玄にちかくげつげん、鼻に雙柱そうちゅう有り、手に十文じゅうもんり足に二五を蹈むと。此れ人に異なるに非ずや。佛の相好、なんぞ疑ふに足らんや。

現代語訳

《第五》
問う。そもそも至実〈真実〉とは華々しいものでなく、至辞〈修辞がよく調った言葉〉とは(無駄に)飾られたものではない。言葉が端的で(核心に)至っているものは端麗であり、(言う)事が少なくとも(結論に)達するものは明快である。したがって、珠玉は希少であるから貴重であり、瓦礫は雑多であるから無価値である。聖人は、七経しちけい〈儒教の聖典〉の本を制したけれども、三万語を過ぎることなく、諸々の要諦を完備している。今、仏経は巻数としては万を超えて計れるほどあり、その語は億をすら超えて数えるほどである。(そのような膨大な言葉を学び、知り尽くすことなど)一人の力では不可能である。私が思うに、(そのような膨大な言葉は)煩雑なだけであって要点を突いたものではない。
牟子は云う。江海こうかい〈大きな河と海〉行潦こうろう〈水たまり〉に異っている所以は、その深く広いことにある。五嶽ごがく〈支那の五つの霊山〉が(そのあたりの)丘陵とは別である所以は、その高く大きいことにある。もしその高さが凡庸な山や岡と隔絶したものでなければ、跛羊はよう〈足の悪い羊〉であってもそのいただきを超えることが出来、その深さが涓流けんりゅう〈小川〉と隔絶していなければ、孺子じゅし〈童子〉であってもその中に入ることが出来よう。麒麟きりん〈支那の伝説的聖獣〉苑囿えんゆう〈動物公園〉の中に住むことはなく、呑舟どんしゅううお〈常識外の大魚〉は少しばかり深さあるだけの渓谷を遊泳することはない。三寸のどぶがいいて明月の珠〈真珠〉を求め、枳棘ききょく〈いばら〉の巣を探って鳳皇の雛を求めたとしても、決してることは出来ない。なぜならば小には大をれることが出来ないからである。仏経は先は億年の事を説き、却っては万世のかなめを言うのだ。太素たいそ〈天地開闢以前の混沌〉すら未だ起こっておらず、太始たいし〈天地開闢の始め〉も未だ生じていない時、乾坤けんこん〈天地〉が初めてまさに興ろうとしても、それは微細であって把握することは出来ず、それは繊細であって入ることも出来ない。(ところが、)仏は悉くその広大なるものの外に彌綸みりん〈満ち渡ること〉する。その寂静にして窈妙ようみょう〈深遠なる様子〉なるものの内に剖析ほうせき〈細かく分かつこと〉して、それを記さないことはない。故にその経巻は万を超えて計れるほどで、その語は億をすら超えて数えられる。(仏の説くところは)多多ますます具わり、(その内容は)衆衆ますます富んでいる。何の不要とするものがあろうか。(そのような膨大な言葉を学び尽くすなど)一人の力では不可能であったとしても、それは譬えば河で水を飲むようなものである。(水を飲んで)十分であると自ら満足したならば、どうして(自分が飲まなかった河の水が)どれほど余っているかを知る必要などあるだろうか。

《第六》(⇒訓読
問う。仏経は衆多である。その要をこそ得てその他を棄て、直接その実をこそ説き、(虚飾である)その華を除こうとは思わないのか。
牟子は云う。思いはしない。そもそも太陽と月とはいずれも明るいものであって、それぞれ(異なって)照らすところがある。二十八宿はそれぞれつかさどるところがある。百薬はどれも(生命を)生い永らえさせるけれどもそれぞれが愈すところがある。狐裘こきゅう〈キツネの毛皮で作った上等な冬用の上着〉は寒さに備え、絺𥿭ちげき〈夏用の薄く上質な帷子〉は暑さを和らげる。舟と輿こしとは、(河・海と道とで)その道程をことにするけれども、いずれも旅行くものである。孔子は五経〈儒教の聖典〉では充分でないとして、さらにまた『春秋』と『孝経』を作ったのは、道術を広め、人のこころほしいままにしようと欲したからこそである。仏経が多いといっても、その帰するところは一つである。たとえば七典〈七経.儒教の聖典〉がそれぞれ異なっているといっても、それらが道徳・仁義を貴ぶの点でまた一つのようなものである。(孔子が)孝を説いた所以の多くは、(様々な)人の行いにしたがって(そのそれぞれの者にふさわしい言葉を)与えていたためである。子張しちょう子游しゆうとのいずれもが「孝」の一点について問うたのに、仲尼ちゅうじ〈孔子〉はそれに答えるのにそれぞれ異っていたようなものだ。(それぞれ異なる)その短所を指摘したためである。(以上のことから、)何のてるべきものがあるというのか。

《第七》(⇒訓読
問う。仏道は至尊・至大であるならば、ぎょうしゅん周公旦しゅうこうたん孔子こうしはどうしてそれを修めなかったのか。七経の中には、その(仏道に関する)言葉は見えない。あなたは既に詩書〈儒教の聖典〉を読みふけり、(それらが説いている)礼・楽を悦んでいるではないか。どうして(その上に)また仏道を好み、(自らの国の教えである儒教・道教に異なる)異術を喜ぶのか。どうして(仏道が儒教の)経伝をえ、(支那の古の聖人の)聖業よりも美なるものであるだろうか。(いや、そんな筈はない。)ひそかにあなたの為を思い、(私は)そうは考えていない。
牟子は云う。書というものは、必ずしも孔丘こうきゅう〈孔子〉の言葉に限られたものではなく、薬は必ずしも扁鵲へんじゃく〈支那の伝説的名医〉の処方に限られたものでもない。義に合致するものに従うのであって、病を癒やすものであれば良いのである。君子とは広く諸々の善を取り、もってその身を助けるものだ。子貢しこうは「夫子ふうし何ぞ常師か之れ有らん〈孔子にどうして特定の師だけから学ぶということがあろうか〉〈『論語』〉と言っている。堯は尹壽いんじゅを(師として)仕え、舜は務成むせいに仕え、周公旦しゅうこうたん呂望りょぼう〈太公望〉に学び、きゅう〈孔子〉老聃ろうたん〈老子〉に学んでいる。また(その事実は)いずれも七経に見えないことである。四師しし〈堯・舜・周公旦・孔子〉は聖人であったといっても、それを仏に比したならば、たとえば白い鹿と麒麟きりん、または燕と鳳凰のようなものである。堯・舜・周公旦・孔子であってもなお、そのようであった。仏身という相好の変化自在で、神力の無辺なる者であれば言うまでもないことである。どうして(経伝にその言葉が見えないからというだけで、仏道を)捨てて学ばないなど出来ようか。五経の事義であってもあるいは欠けたところもあろう。(五経の中に)仏について記しているのが見えないとしても、(仏道の真偽について)どうして怪しみ疑うことなど出来ようか」

《第八》(⇒訓読
問う。仏に三十二相八十種好があるというのは、あまりに(常の)人に異っているにも程があるであろう。ほとんど富耳ふうじの語〈他愛もない作り話〉であって事実でない話であろう。
牟子は云う。ことわざに「見る所少なければ怪しむ所多し〈見識の狭い者は何でも怪しみ疑う〉」という。駱駝らくだを見たならば、「あの馬の背には腫瘍がある」と言う(ようなものだ)。ぎょうの眉は(漢字の)八の字のようであったし、しゅんの目は重瞳じゅうどう〈多瞳孔症〉であった。皋陶こうようの口はカラスのクチバシのようであったし、(周の)文王ぶんおうには乳首が四つあった。の耳には穴が三つあり、周公旦しゅうこうたんはセムシ〈クル病〉であり、伏羲ふくぎ龍鼻りょうびを持っていた。仲尼ちゅうじは(その頭の頂きが)凹んでいたし、老子ろうし日角月玄にちかくげつげん、鼻柱が二つあり、手に十文じゅうもんり、足に二五を蹈んでいた〈この一節は意味不明〉。それら(支那の聖人・道人にあった特徴は、常の)人に異なっていないというのか。仏の相好(が異相であったとしても)、どうして疑うことなど出来よう。