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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

牟融『理惑論』 (『牟子理惑論』)

訓読

《第十七》
問て曰く、孔子稱す、しゃなれば則ち不遜ふそんけんなれば則ちなり。其の不遜ならんよりは寧ろ固なれと。叔孫しゅくそん曰く、けんは德のきょうなり。は惡のだいなりと。今、佛家は財を虗しくして布施ふせを以て名と爲し、貨をつくして人にあたふるを貴と爲す。豈に福有らんや。
牟子曰く、かれ一時いちじなり。これも一時なり。仲尼の言は、奢にして無禮ぶれいなるをにくむなり。叔孫の論は、嚴公げんこう刻楹こくえいそしるなり。布施を禁ずるには非ず。舜は歴山を耕せども、恩は州里に及ばず、太公たいこうは牛をほふれどもめぐみは妻子におよばず。其の用ひらるを見るに及びて、恩は八荒はっこうに流れ、惠は四海に施す。饒財にょうざい多貨なれば其の能く與ふるを貴び、貧困しばしば空しければ其の道を履むことを貴ぶ。許由きょゆうは四海をむさぼらず。伯夷はくいは其の國に甘んぜず。虞卿ぐけい萬戸まんこふうてて、窮人ぐうじんの急を救ふ。おのおの其の志なり。僖負羇きふき壹飱いっそんの惠を以て、其の居る所のりょを全うし、宣孟せんう一飯いっぱんの故を以て其の不貲ふしを活かす。陰施いんせは不意に出で、陽報ようほうこうとして白日はくじつの如し。況や家財を傾け善意に發すれば、其の功德は巍巍ぎぎとして嵩泰すうたいの如く、悠悠ゆうゆうとして江海こうかいの如し。善をいだく者は之に應ずるにさいわいを以てし、惡をはさむ者は之にむくひるにわざわいを以てす。未だいねを種えてむぎを得、を施してふくを獲たる者は有らじ。

《第十八》(⇒現代語訳
問て曰く、夫れ事は誠に過ぐるは莫く、說は實に過ぐるは莫し。老子は華飾かしょくことばを除き、質䃼しつぼつの語をたっとぶ。佛經の說には其の事を指さず。いたずらに廣く譬喩ひゆを取る。譬喩は道のかなめに非ず。異を合して同と爲すは事の妙に非ず。辭多く、語博しと雖も、猶ほ玉屑ぎょくせつ一車なれば以て寶と爲さざるがごとし。
牟子曰く、事𠹉かつて共に見る者は、說くに實を以てすべし。一人は見、一人は見ざれば、與に誠に言ひ難し。昔人、未だ麟を見ず。𠹉て見し者に問ふ、麟は何の類かと。見し者曰く、麟は麟の如しと。問ふ者曰く、若し吾れ𠹉て麟を見れば則ち子に問はず。而るを麟は麟の如しと云ふは寧ぞ解すべけんやと。見し者曰く、麟は麏身きんしん牛尾ぎゅうび鹿蹄ろくてい馬背ばはいと。問ふ者にわかに解す。孔子曰く、人知らずしていからず。亦た君子ならずやと。老子云く、天地の間、其れ猶ほ槖籥たくやくのごときかと。又曰く、たとへば道の天下に於けるは、猶ほ川谷と江海のごとしと。豈に復た華飾ならんや。論語に曰く、まつりごとすに德を以てするは、譬へば北辰ほくしんの如しと。天を引き以て人に比するなり。子夏曰く、これ草木そうもくして以て別あるに譬ふと。詩の三百さんびゃくは物をき類を合す。諸子の纎緯しんいより聖人の祕要にいたるまで、譬を引き喩を取らざる莫し。子は獨り佛の經を說くに譬喩を牽くをにくむや。

《第十九》(⇒現代語訳
問て曰く、人の世に處すは、富貴ふきを好みて貧賤ひんせんを惡み、歡逸かんいつねがっ勞倦ろうけんはばからざるは莫し。黄帝こうていせいを養ふに五肴ごこうを以て上と爲す。孔子云く、しらげかず、まなすほそきをを猒かずと。今、沙門は赤布せきふを被、日に一食、六情ろくじょうを閉ざして自ら世をふ。の若きは何のたのしみか之有らん。
牟子云く、富と貴とは是れ人の欲する所といへども、其の道を以て之を得るにあらざれば處らず。貧と賤とは是れ人の惡む所といへども、其の道を以て之を得るにあらずんば去らず。老子曰く、五色ごしきは人目をしてもうならしめ、五音ごいんは人耳をして聾ならしめ、五味ごみは人口をして爽ならしめ、馳騁畋獵ちていでんりょうは人心をして發狂せしめ、得難きの貨は人行をして妨げしむ。聖人は腹の爲にして目の爲にせずと。此の言、豈に虚ならんや。柳下惠りゅうかけい三公さんこうの位を以てしても其の行をへず。段干木だんかんぼくは其の身を以てしても魏文ぎぶんの富に易へず。許由きょゆう巣父そうほは木にすんで居し、自ら帝宇ていうよりも安しと謂ふ。夷齊いせい首陽しゅように餓え、自ら文武よりも飽くと謂ふ。蓋しおのおの、其の志を得るのみ。何の不聊ぶりょうか之有らんや。

《第廿》(⇒現代語訳
問て曰く、若し佛經、深妙靡麗しんみょうびれいならば、子はなんぞ之を朝廷に談じ、之を君父くんぷに論じ、之を閨門けいもんに修し、之を朋友ほうゆうに接せざらんや。何ぞ復た經傳けいでんを學び、諸子を讀むや。
牟子曰く、子未だ其のみなもとに達せずして、其のながれを問ふなり。夫れ俎豆そとう壘門るいもんつらねて、旌旗せいき朝堂ちょうどうに建て、狐裘こきゅうて以て蕤賔ずいひんに當り、絺𥿭ちげきて以て黄鍾おうしょうを御するは、不麗ふれいに非ざるも、其の處にそむき、其の時に非ず。故に孔子のみちを持ちて商鞅しょうおうの門に入り、孟軻もうかの說をもたらして蘇張そちょうの庭に詣らば、功は分寸ぶすん無くしてとが丈尺じょうしゃく有り。老子曰く、上士じょうしは道を聞けばつとめて之を行ふ。中士は道を聞けばるが若くきが若し。下士は道を聞けば大いにして之を笑ふと。吾は大いに笑はるるをおそれるが故に談を爲さず。渇すれば必ずしも江河こうがを待たずして飮む。井泉せいせんの水、何の飽かざる所ぞ。是を以て復た經傳けいでんを治むるのみ。

現代語訳

《第十七》
問う。孔子は「しゃなれば則ち不遜ふそんけんなれば則ちなり。其の不遜ならんよりは寧ろ固なれ〈奢侈であれば不遜となり、倹約であれば固陋となる。不遜となるならばむしろ固陋たれ〉〈『論語』〉と称した。叔孫しゅくそん〈前漢の儒者.朝廷の儀礼を質素ながらも非常に荘重なものとした人〉は「けんは德のきょうなり。は悪のだいなり〈倹約は徳のつつしみであり、奢侈は悪として大なるもの〉〈『春秋左氏伝』荘公〉と云った。今、仏家は財産を虚しいものとして布施ふせを名誉なことだと言い、財貨をつくして人にあたえることを貴いこととしている。そんなことでは、どうして福など得られようか。
牟子は云う、「かれ一時いちじなり。これも一時なり〈あの時はあの時、この時はこの時である〉〈『孟子』公孫丑下〉。(あなたが引用した)仲尼〈孔子〉の言葉は、奢侈であって無礼ぶれいであることをにくんでのものであり、叔孫の論は、厳公げんこう〈魯の君主、荘公〉が(過分な贅沢となる)柱に装飾のための彫り物をしたことをそしったのである。布施を禁じたのではない。舜は歴山を耕したけれども、その恩は州里に及びはせず、太公望たいこうぼうは(生活のために)牛をほふっていたが、そのめぐみは妻子に及びはしなかった〈『史記』斉太公世家〉。(両者が時の権力者に)用いられるようになって、その恩は八荒はっこう〈国のすみずみ〉に流れ、恵みは四海〈世界〉にまで届いたのだ。財産に恵まれ、多くの財貨を有したならば、それをよく(他者に)與えることを貴ぶのであり、貧困でしばしば(資財が)空しければ、(貧しいなりに)道を履むことを貴ぶのだ。許由きょゆう〈隠遁者の名〉は(堯から天下を譲られても、それを断り)四海をむさぼりはしなかった。伯夷はくいは(父から位を譲られてもそれを断り、)その国に甘んじて居続けることはしなかった。虞卿ぐけい万戸まんこふうをなげうって、困窮困窮した人の急を救った〈『史記』虞卿列伝〉おのおのその志に基づいてのことである。僖負羇きふきはただ一食の恵みを施していたことから、その居所のりょが襲われず〈『淮南子』道応訓〉宣孟せんう一飯いっぱん(を三日飲まず食わずであった霊輒に施していたこと)の故にその掛け替えのない(命ある)身体を活かすことができた〈『春秋左氏伝』宣公二年〉陰施いんせ陽報ようほうとして、明らかなること白日はくじつのように結果する〈『淮南子』人間訓〉。ましてや家財を傾けて善意を発したならば、その功徳は巍巍ぎぎ〈高く大きい様子〉として嵩山すうざん泰山たいざんのようであり、悠悠ゆうゆう〈果てしない様子〉として江海こうかいのようである。(心に)善をいだく者は、それに応じるのにさいわいを以てし、悪をはさむ者は、そのむくひいとしてわざわいを以てする。いまだいねを種えてむぎを得、を施してふくを獲る者など無いのである。

《第十八》 (⇒訓読
問う。そもそも事物は「誠であること」に過ぎたものはなく、言說は「実であること」に過ぎたものはない。老子は華飾かしょくことば〈修辞を重ねて飾り付けた言葉〉を除き、質䃼しちぼくはなしたっとんだ。仏経の説はそうではなく、いたずらに広く譬喩ひゆを用いている。譬喩は道のかなめではない。(そのものとは)異なった事物を持ち出してそれと同じであるとするのは、事物について好ましいことではない。(仏経に伝える)ことばが多く、はなしが広範に渡るとはいえ、それは例えば玉屑ぎょくせつ〈玉を砕いた粉末〉が一つの車に満載されても宝とは言わないようなものだ。
牟子は云う。何か事物でかつて二人共に見た者は、それについて語るのは事実に基いてのこととなる。(それに対し、)一人は見てもう一人は見ていないのであれば、互いにその誠を言うことは難しい。昔、人がいまだ麟〈麒麟.支那における伝説の聖獣〉というものを見たことがなく、かつて見たことのある者に「麟とはどのような類のものか」と問うたとしよう。すると見た者は「麟とは麟のようなものだ」と答える。すると問う者は「もし私がかつて麟を見たことがあるならば、あなたに問いはしない。それを『麟とは麟のようなものだ』と言って、どうして理解出来るだろうか」と言う。そこで見た者は「麟とは、身体はくじか、尾は牛うし、蹄は鹿しか、背中はうまのようだ」と答えた。すると問う者はたちまち理解できる。孔子は「人知らずしていからず。亦た君子ならずや〈人が(自分の能力・存在を)知らなくとも怒らない、それこそ君子というものでないか〉〈『論語』〉と言い、老子は「天地の間、其れ猶お槖籥たくやくのごときか〈天と地との間は、あたかもふいごのようなものであろう〉〈『老子』〉と言い、また「たとえば道の天下に於けるは、猶お川谷と江海のごとし〈譬えば道が天下にあることは、あたかも川や谷と大河と海の関係のようなものだ〉〈『老子』〉と言っている。これがどうしてまた華飾であるというのか。『論語』に「まつりごとすに徳を以てするは、譬えば北辰ほくしんの如し〈政治を行うのに徳を以てするのは、譬えば北極星のようなものである〉〈『論語』〉とある。天を(譬えとして)引いて人に比したものである。子夏は「これ草木そうもくして以て別あるに譬う〈それは草木もそれぞれ違って(形や性質など)別であることに譬える〉〈『論語』〉と言った。『詩経』の三百篇さんびゃくへんは、(それとは異なる)物をいて(譬え)、その類を合わせたものである。諸子百家や纎緯しんい〈予言書.未来記〉から聖人の秘要にいたるまで、譬えを引いて喩えを取らないものはない。あなたは、ただ仏が経を説くのに譬喩を牽くことだけはにくむというのか。

《第十九》(⇒訓読
問う。人が世で暮らすのに、富貴ふきを好んで貧賤ひんせんにくみ、歓逸かんいつねがっ勞倦ろうけんはばからない者はない。黄帝こうてい〈支那の伝説的帝王〉せいを養うのに五肴ごこう〈牛・羊・豕・魚・麋の五種の肉〉をもって最上であるとした。孔子は「しらげかず、まなすほそきを猒かず〈米はどれほど精白しても良く、膾は細ければ細いほど良い〉〈『論語』〉と云った。今、沙門は赤い布〈袈裟衣〉を被て、日に一食だけを取り、六情ろくじょう〈六種の感覚。眼・耳・鼻・舌・身・意〉を閉ざして自ら世をえている。そのようでは一体何のたのしみがあるというのか。
牟子は云う。「富と貴とは是れ人の欲する所といえども、其の道を以て之を得るにあらざれば處らず。貧と賤とは是れ人の惡む所といえども、其の道を以て之を得るにあらずんば去らず〈富と名声は人が求めるものであるけれども、「道」をもって生きていなければそれらを得ても長続きすることはない。貧困と下賤さとは人が憎み避けるものであるけれども、「道」をもって生きていなければその状態に陥っても長くそこから脱することは出来ない〉〈『論語』〉。老子は「五色ごしきは人目をしてもうならしめ、五音ごいんは人耳をして聾ならしめ、五味ごみは人口をして爽ならしめ、馳騁畋獵ちていでんりょうは人心をして発狂せしめ、得難きの貨は人行をして妨げしむ。聖人は腹の為にして目の為にせず〈五色は人の目を盲にし、五音は人の耳を聾とさせ、五味は人の口を惑わせ、狩猟は人の心を狂わせ、得難きの財貨は人の行いを妨げる。そのようなことから聖人は生きるために行って、娯楽や贅沢のために行うことはない。したがって彼を去てて此を取る〉〈『老子』〉と云う。これらの言葉がどうしてうつろなものであろう。柳下惠りゅうかけい〈春秋時代の魯における有力者〉三公さんこう〈天子に側仕えて政務を担当する高官〉の位を与えられても、その行いをえることはなく〈『孟子』〉段干木だんかんぼく〈子夏の弟子〉はその身を以て魏の文公ぶんこうの富にえることはなかった〈『淮南子』秦族訓〉許由きょゆう巣父そうほは(世間を避けて)木にんで居りながら、自らは帝宇ていうよりも安楽であると謂った。伯夷はくい叔斉しゅくせい首陽山しゅようざんで餓えたけれども、自ら文王・武王よりも満ち足りていると謂った。まさしく各々おのおの、その志に従って満足したのであろう。それがどうしてたのしみでないことあろうか。

《第廿》(⇒訓読
問う。もし仏経が深妙しんみょうであり靡麗びれい〈華やかで美しいこと〉であるならば、あなたはどうしてそれを朝廷で談じ、それを君父くんぷ〈主君と父親〉に論じ、それを閨門けいもん〈夫婦、家庭〉において修め、それを朋友ほうゆうに伝えないのか。どうしてさらに(儒教の)経伝けいでんを学び、諸子の書を読むのか。
牟子は云う。あなたはいまだそのみなもとに達することなく、そのながれをのみ問うている。そもそも、(祭祀で用いる)俎豆そとう〈俎は生贄の肉をのせる板、豆は野菜を盛って祀るための高坏〉を(兵馬を並べた)壘門るいもんつらね、(戦陣で用いる)旌旗せいきを(政や祭祀を行う)朝堂ちょうどうに建て、狐裘こきゅう〈狐の毛皮で出来た上等な冬用の上着〉蕤賔ずいひん〈陰暦の五月〉(の暑さ)に当たり、絺𥿭ちげき〈夏用の薄く上質な帷子〉黄鍾おうしょう〈陰暦の十一月〉(の寒さ)を御すようなのは、(今挙げた個物それぞれは)不麗ふれいではないけれども、その処にそむき、その時に相応しくないものである。故に(儒家の)孔子のみちを持って(法家の)商鞅しょうおう〈秦の官僚で思想家(法家).秦の政治大改革を断行した人〉の門に入り、孟軻もうか〈孟子〉の説をもたらして蘇秦そしん張儀ちょうぎ〈いずれも春秋時代における遊説家〉の庭に詣ったならば、功は寸分すんぶんも無くしてとが丈尺じょうしゃくもあるだろう。老子は「上士じょうしは道を聞けばつとめて之を行う。中士は道を聞けばるが若くきが若し。下士は道を聞けば大いにして之を笑う〈上士が道を聞いたならば努めて実践する。中士が道を聞いてもその価値のあるであろうことを理解はするが行うことはない。下士が道を聞いたならばそれを大いに馬鹿にして笑う〉〈『老子』〉と云った。私は(下士によって)大いに笑われるのをおそれるから(世間のあちこちで仏教について)談じないのだ。喉が渇いたならば必ずしも江河こうがの水でなければ飲めないなどということはない。(近くで水を手に入れられる)井戸や泉の水で、どうして足りないということがあろう。そのようなことから、(私は)また経伝けいでんをも学ぶのである。