爾時佛在支陀國。與大比丘衆千二百五十人倶。時尊者娑伽陀。爲佛作供養人。爾時娑伽陀。下道詣一編髮梵志住處。語梵志言。汝此住處第一房我今欲寄止一宿。能相容止不。梵志答言。我不惜可止宿耳。但此中有毒龍恐相傷害耳。比丘言。但見聽止。或不害我。編髮梵志答言。此室廣大隨意可住。爾時長老娑伽陀。即入其室自敷草蓐。結跏趺坐繋念在前。時彼毒龍。見娑伽陀結加趺坐。即放火烟。娑伽陀亦放火烟。毒龍恚之復放身火。娑伽陀亦放身火。時彼室然如似大火。娑伽陀自念言。我今寧可滅此龍火令不傷龍身耶。於是即滅龍火使不傷害。時彼毒龍火光無色。娑伽陀火光轉盛有種種色。青黄赤白緑碧頗梨色。時娑伽陀其夜降此毒龍盛著鉢中。明日清旦持往詣編髮梵志所語言。所言毒龍者。我已降之置在鉢中故以相示。爾時拘睒彌主。在編髮梵志家宿。彼作如是念。未曾有。世尊弟子有如是大神力。何況如來。即白娑伽陀言。若世尊來至拘睒彌時。願見告勅欲一令禮覲。娑伽陀報言大佳。 爾時世尊從支陀國人間遊行至拘睒彌國。時彼國主。聞世尊將千二百五十人弟子至此國。即乘車往迎世尊。遥見世尊顏貌端政諸根寂定。其心息滅得上調伏。如調龍象猶若澄淵。見已篤信心生。以恭敬心即下車至世尊所。頭面禮足已在一面住。爾時世尊無數方便説法勸化令得歡喜。時拘睒彌主。聞佛無數方便説法勸化。心大歡喜已。顧看衆僧不見娑伽陀。即問諸比丘言。娑伽陀今爲所在耶。諸比丘報言。在後正爾當至。
爾時娑伽陀與六群比丘相隨在後至。時拘睒彌主見娑伽陀來。即往迎頭面禮足已在一面立。時娑伽陀。復爲種種方便説法勸化令心歡喜。時拘睒彌主聞娑伽陀種種方便説法勸化。得歡喜已白言。何所須欲可説之。娑伽陀報言。止止此即爲供養我已。彼復白言。願説何所須欲。六群比丘語彼言。汝知不。比丘衣鉢尼師壇鍼筒此是易得物耳。更有於比丘難得者。與之。彼即問言。於比丘何者難得。六群比丘報言。欲須黒酒。彼報言。欲須者明日可來取隨意多少。時彼禮娑伽陀足遶已而去。明日清旦。娑伽陀著衣持鉢。詣拘睒彌主家就座而坐。時彼拘睒彌主出種種甘饌飮食兼與黒酒極令飽滿。時娑伽陀食飮飽足已從座起去。於中路爲酒所醉倒地而吐。衆鳥亂鳴。
爾時世尊知而故問阿難。衆鳥何故鳴喚。阿難白佛言。大徳此娑伽陀。受拘睒彌主請食種種飮食。兼飮黒酒醉臥道邊大吐。故使衆鳥亂鳴。佛告阿難。此娑伽陀比丘癡人。如今不能降伏小龍。況能降伏大龍。 佛告阿難。凡飮酒者有十過失。何等十。一者顏色惡。二者少力。三者眼視不明。四者現瞋恚相。五者壞田業資生法。六者増致疾病。七者益鬪諍。八者無名稱惡名流布。九者智慧減少。十者身壞命終墮三惡道。阿難是謂飮酒者有十過失也。 佛告阿難。自今以去以我爲師者。乃至不得以草木頭内著酒中而入口。爾時世尊以無數方便呵責娑伽陀比丘。已告諸比丘。此娑伽陀比丘癡人。多種有漏處最初犯戒。自今已去與比丘結戒。集十句義乃至正法久住。欲説戒者當如是説。若比丘飮酒者波逸提。 比丘義如上。酒者。木酒粳米酒餘米酒大麥酒。若有餘酒法作酒者是。木酒者。梨汁酒閻浮果酒甘蔗酒舍樓伽果酒蕤汁酒蒲桃酒。梨汁酒者。若以蜜石蜜雜作。乃至蒲桃酒亦如是雜。酒者。酒色酒香酒味不應飮。或有酒非酒色酒香酒味不應飮。或有酒非酒色非酒香酒味不應飮。或有酒非酒色非酒香非酒味不應飮。非酒酒色酒香酒味應飮。非酒非酒色酒香酒味應飮。非酒非酒色非酒香酒味應飮。非酒非酒色非酒香非酒味應飮。彼比丘若酒酒煮酒和合。若食若飮者波逸提。若飮甜味酒者突吉羅。若飮醋味酒者突吉羅。若食麴若酒糟突吉羅。酒酒想波逸提。酒疑波逸提。酒無酒想波逸提。無酒有酒想突吉羅。無酒疑突吉羅。比丘尼波逸提。式叉摩那沙彌沙彌尼突吉羅。 是謂爲犯不犯者。若有如是如是病。餘藥治不差以酒爲藥。若以酒塗瘡一切無犯。無犯者。最初未制戒。癡狂心亂痛惱所纒。五十一竟
その時、仏陀はチェーティ国〈[S]Caitya, [P]Ceti. 支陀〉にあって、大比丘衆1250人と行動を共にされていた。尊者サーガタ〈[S]Svāgata, [P]Sāgata. 娑伽陀。善来〉は、仏陀の随行〈作供養人〉であった。ある時、サーガタは道を下って一人の髪を結い上げたバラモン〈編髮梵志〉のところに行き、そのバラモンに、
「あなたのこの家の一番の部屋を、私は一晩だけ宿として借りたいのですが可能でしょうか?」
と尋ねた。するとバラモンは、
「私は一向にかまいませんので泊まったらよろしいでしょう。しかし、その中には毒蛇〈毒龍〉が住み着いており、(あなたが泊まったとしたら蛇は)おそらくあなたを害するでしょう」
と答えた。するとサーガタは、
「ただ泊まることを許してもらえさえすれば、あるいは私を害することもないでしょう」
と言った。するとその髪を編み上げたバラモンは、
「この部屋はとても広いのでご自由にお使いください」
と言ったのだった。長老サーガタは、その部屋に入って草を編んで作られた敷物を敷き、結跏趺坐してよく気をつけ注意深く〈繋念在前〉して(定を修めて)いた。するとその(部屋に住み着いている)毒蛇は、サーガタの結跏趺坐している姿を見ると、たちまち火炎を放った。(これに対して)サーガタもまた火炎を放つ。毒蛇はこれに怒ってまたさらに身から炎を放ち、サーガタもまた身から炎を放ったのである。そこでその部屋の様子は大火事になっているかのようであった。ここでサーガタは自ら考えた、
「私は今、むしろこの蛇の炎をこそ消し去って、蛇の体を傷つけないようにするべきであろうか」
と。そこでたちまち蛇の放つ炎を消し去って(蛇の体を)傷つけることがなかった。ところで、その毒蛇の放った炎の光は無色であったが、サーガタの炎の光はいよいよ強くなって様々な色が発せられていた。その色とは青・黄・赤・白・緑・碧・玻璃色であった。サーガタはその夜、その毒蛇に打ち勝ち、(自分の托鉢用の)鉢の中に入れておいた。そして翌日早朝、これを持って髪を結い上げたバラモンのところに行って語ったのだった。
「あなたが言っていた毒蛇を、私はすでに降して鉢の中に入れておきました。そんな訳でお見せしましょう」
と。ちょうどその時、コーサンビー〈[S]Kauśāmbī, [P]Kosambī. 拘睒彌〉の国主は、髪を結い上げたバラモンの家に泊まりあわせていた。(サーガタを見た)彼はこのように思った。
「いまだかつてないことである。世尊〈仏陀釈尊〉の弟子にはこのような大神通力があるのか。ならば如来〈仏陀釈尊〉であればなおさらであろう」
と。そこで(国主は)サーガタに、
「もし世尊がコーサンビーに来られることがあれば、どうかそれをお知らせ願います。一度でもお目にかかりたいのです」
と懇願した。サーガタは
「大いに結構です」
と快諾した。
やがて世尊は、チェーティ国から町や村々を経巡りつつコーサンビーに入られた。そこでコーサンビーの国主は、世尊が1250人の弟子と共にこの国に来られたことを聞き、すぐに車に乗って釈尊を迎えに向かったのである。遥か遠くにある世尊を見ると、その顔貌が端正であり、その挙動は落ち着いてゆったりとしており、その心がよく制御されて落ち着いていること、あたかも訓練された蛇や象のようであり、あるいは深く水をたたえる澄み切った池のようであった。そのように見た(国主は)篤い信仰を心に生じ、恭敬の心をもって車から下りて世尊のところに至り、五体投地の礼をなして片側に座った。そこで世尊は様々な方法でもって説法して勧化させ、喜びを生じさせたのである。コーサンビーの国主は、仏陀が様々な方法でもって説法して勧化されるのを聞き、心に大いに喜びを感じると、(そんな世尊に縁を結んでくれたサーガタに感謝しようと)衆僧を見渡したけれども、サーガタの姿を見いだせなかった。そこで比丘達に、
「サーガタは今どこにいますか」
と尋ねた。比丘達の答えを聞くと、
「まだこの地には至っていないが、すぐにたどり着くだろう」
とのことであった。はたしてサーガタは六群比丘と共に後からやって来た。コーサンビーの国主はサーガタのやって来るのを見、すぐに迎えに行って五体投地して片側に立った。するとサーガタは、またコーサンビー国主のために種々の方法でもって説法勧化して心に喜びをもたらせた。コーサンビー国主は、サーガタの種々の方法でもって説法勧化するのを聞き、歓喜を得てこの様に言った、
「何か欲しい物、必要な物があればどうか言ってださい」
と。するとサーガタは、
「よいのです、よいのです。そのような申し出をしてくれただけで私を供養したのと同じですから」
と辞退した。しかし彼は再び、
「どうか何か欲しい物があれば言って下さい」
と聞いたのであった。すると(連れ立っていた)六群比丘が彼にこう告げた。
「あなたは知っているだろうか。比丘の衣や鉢・坐具〈niṣīdana. 尼師壇〉・針筒など、これらは容易く得られる物ばかりである。しかし比丘にとって得難い物がある。そのような物を与えれば良いだろう」
と。そこで彼は(六群比丘に)、
「比丘にとってはどのような物が得難いのでしょう」
と尋ねた。六群比丘は、
「黒酒が飲みたい」
と答えたのであった。コーサンビー王は
「欲しいと思われるのでしたら明日来て下さい。思う存分飲まれるといいでしょう」
と言った。彼はサーガタの足を礼し、右遶〈インドの礼法。尊敬すべき人の周りを右回りに三度まわること〉して帰って行った。翌日の早朝、サーガタは衣を着け鉢を持ち、コーサンビー国主の家に行って座に就いた。そこでコーサンビー王は種々の美味なる飲食を振る舞い、加えてさらに黒酒を飽きるほど勧めて満腹にさせた。そこでサーガタは存分に飲食し終わって座から立ち去った。(ところが、)帰途にあって酒の酔いがまわり、地面に倒れて嘔吐したのである。そしてこれに鳥たちが騒ぎ立てた。その時、世尊はそれに気づき、ことさらにアーナンダに尋ねた。
「鳥たちは何故に鳴き喚いているのか」
と。アーナンダ〈Ānanda . 阿難〉は仏陀に、
「大徳、あれはサーガタがコーサンビー国主の食事の招待を受けて種々に飲食し、かねて黒酒を飲んだために酔いがまわり、道端で吐きまくっているのです。それが鳥たちを乱れ騒がせているのです」
と報告した。そこで仏陀はアーナンダに、
「あのサーガタ比丘は愚か者である。今のようでは小さな蛇すらも降伏させることは出来ないだろう。まして大蛇を降伏させるなど出来ようはずもない」
と言われた。そしてまた仏陀はアーナンダに、
「およそ酒を飲むことには十の過失がある。何をもって十とするのか。一つには顔色が悪くなる。二つには体力が弱まる。三つには目がうつろになる。四つには怒りを現す。五つには生業に支障をきたす。六つに病気を起こし、また悪化させる。七つには争いを増す。八つには名声を損なって悪評が立つ。九つには智慧が減少する。十には身体が壊れ生命が終われば三悪道〈地獄・餓鬼・畜生〉に生まれ変わる。アーナンダよ、これらが酒を飲むことの十の過失という」
と語られた。 仏陀はアーナンダに、
「今より以降、私を師とする者は、草木の先ほどの量〈極々わずかな量・一滴〉であっとしても、酒を口にしてはならない」
と言われた。そして世尊は数々の方法でもってサーガタ比丘を呵責し、そこで比丘達に
「このサーダカ比丘は愚か者であり、多種なる有漏〈煩悩の有ること〉の最初の犯戒である。今より以降、比丘の為に(飲酒戒を)結戒する。十句義〈十項目からなる律が制定される目的〉を挙げ、正法を久しく伝えんとする。説戒〈布薩〉する際にはこのように説かなければならない、『もし比丘が飲酒したならば波逸提〈[S]prāyaścittika, [P]pācittiya. 単堕。比丘・比丘尼がなすべきでない行為を犯した際の罪名〉である』」
と告げられた。
比丘の定義はすでに説いた通りである。酒とは、木酒・粳米酒・餘米酒・大麦酒、あるいはその他の醸造法によって造られた酒である。木酒とは、梨汁酒・閻浮果酒・甘蔗酒・舍樓伽果酒・蕤汁酒・蒲桃酒である。梨汁酒とは、あるいは蜜や石蜜〈砂糖飴の類〉を雑ぜて作るものであり、乃び蒲桃酒もまたそのように雑ぜて作ものである。酒で、酒の色・酒の香り・酒の味あるものを飲んではならない。あるいは酒であって、酒の色はなく、酒の香り・酒の味あるものを飲んではならない。あるいは酒であって、酒の色なく、酒の香りなく、酒の味あるものを飲んではならない。あるいは酒であって、酒の色なく・酒の香りなく・酒の味ないものでも飲んではならない。酒でないものであって、酒の色・酒の香り・酒の味あるものは飲んでも良い。酒でないものであって、酒の色なく、酒の香り・酒の味あるものは飲んでも良い。酒でないものであって、酒の色なく、酒の香りなく、酒の味するものは飲んでも良い。酒でないものであって、酒の色なく、酒の香りなく、酒の味ないものは飲んでも良い。
比丘でありながら酒・酒を熱したもの・酒を混ぜたものを、あるいは食べ、あるいは飲んだならば波逸提である。甜味酒〈みりん〉を飲んだ者は突吉羅〈[S]duṣkṛta, [P]dukkaṭa. 悪作罪。比丘・比丘尼における最軽罪〉である。醋味酒を飲んだ者は突吉羅である。麴あるいは酒粕を食べた者は突吉羅である。酒を「これは酒である」と思って飲んだならば波逸提。酒を「これは酒ではないのか?」との疑いをもって飲んだならば波逸提。酒を「これは酒ではない」と思って飲んだならば波逸提。酒でないものを「これは酒である」と想って飲むことは突吉羅。酒でないものを「これは酒ではないのか?」との疑いをもって飲むことは突吉羅である。
比丘尼は(上記のいかなる場合でも)波逸提であり、式叉摩那・沙彌・沙彌尼は突吉羅である。以上に挙げたものを(飲酒戒の)犯戒とする。
不犯とは、もし何らかの病を得て、他に有効な薬がない場合に酒を薬として服すること。あるいは酒をもって瘡〈皮膚疾患。傷〉に塗るのは犯戒にならない。無犯とは、未だ(飲酒)戒が制される以前に飲んでいた場合〈したがってサーガタは無犯〉と、精神異常、ならびに激痛により錯乱して、酒を飲んでしまった場合である。第五十一竟る。
仏陀耶舍・ 竺仏念訳『四分律』巻十六(T22, pp.671b-672b)
『四分律』とは、支那に伝わって漢訳された五つの律蔵のうちの一つで、インドはカシミール出身とされる仏陀耶舎〈Buddhayaśas〉によって弘治十年〈408〉に長安にもたらされたものです。支那の竺仏念 という訳経僧と共に、弘治十二年〈410〉その翻訳が開始され、同十四年〈412〉に訳了しています。訳者の仏陀耶舎は強記の英才であったとされる人で、『長阿含経』を訳出したことでも知られています。
なお、律蔵とは、比丘や比丘尼など出家者の禁則や所有物、そして諸々の儀式・儀礼についてなどあらゆる規定を、その制定の由来から一々記録されたものの集成です。それは、僧伽 〈[S]Saṃgha, [P]Saṇgha〉すなわち出家者組織を維持し、仏教を後世に久しく伝えるために編纂されたものです。仏滅後いくばくかの時を経た後、その僧伽が分裂して異なる部派を構え、それぞれの伝承を加えさらに独自に編纂していったことにより、律蔵もまたいくつか異なったものが存するようになっています。その一つが『四分律』であり、これは法蔵部( 曇無徳部)〈[SDharmaguptaka, [P]Dhammaguttika]〉という部派が伝持していたものです。
『四分律』の「四分」とは、その全体が四つに分割され伝えられたことに因む称とされます。その分割の仕方は内容によったものではなかったことが知られますが、その原典は分量的に四等分であったかもしれません。しかし、漢訳された『四分律』は、現行の六十巻本でいうと、初分21巻・第二分16巻・第三分12巻・第四分11巻と、分量的に等分となっていません。これはインド語と支那語とで文法から文辞・修辞がまるで異なるため、原典はおおよそ四等分であったとしても、翻訳によってそうなったのかもしれません。もっとも、翻訳当初は『四分律』は四十巻であったようで、一巻の分量が長大であったためか、後に調巻し直されて今の六十巻となったと伝えられています。
『四分律』が仏陀耶舎により翻訳されたその三年前となる弘始十一年〈409〉、支那に初めてもたらされた律蔵『十誦律』が、鳩摩羅什などにより訳出されていました。支那に仏教が伝わったのは一般に後漢の永平十年〈67〉とされますが、それから350年近くの間、仏教僧としてあるには不可欠の律が完全な形では伝わらず、したがって支那の僧は正統なものとしてあり得ませんでした。慧皎 『高僧伝』巻一によれば、当時の支那の僧の有り様と言えば、頭を剃っただけで三帰依すらまともにしておらず、ただ祭祀を行うだけであって俗人とまるで変わらないものであったようです。
しかし、5世紀初頭にようやく『十誦律』が翻訳されたことにより、急速に僧が戒律を具備して研究することへの意識が高まっています。そんな中で『四分律』もまた翻訳されたのですが、最初に伝わった律蔵ということもあり、当時の僧が依行したのはもっぱら『十誦律』となっています。
その後さらに『五分律』や『 摩訶僧祇律 』など他の律蔵やその注釈書などが続々と支那にもたらされて訳され、ただし南北朝時代〈439-589〉の支那における仏教の様相はその南北でかなり異なっていたようではありますが、律への関心とその研究もいよいよ昂じています。
そして唐代初頭に至って『四分律』を中心とする律宗(相部宗)が成立し、次第に依行される律蔵が『十誦律』から『四分律』へと変わっています。日本に律を初めて伝えた鑑真は、南山律宗という律宗の系譜にある人であり、その律は『四分律』に基づくものでした。したがって、日本における律は通じて、近世後期に一部の例外が発生してはいるものの、もっぱら『四分律』に依ったものとなっています。
そのようなことから、『四分律』の所説・所制は、それを護持する者が鑑真の没後百年を過ぎた頃からほとんどいなくなってしまうものの、しかし依然としてその後の日本仏教にもなんらかの形で広く、そして様々な影響を及ぼしています。その後、日本では戒律復興運動が中世初頭と近世初頭の二度行われ、それぞれ成功して大きなうねりを起こしています。その復興の方法こそ大乗の書典に基づくものではありましたが、その行儀はやはり『四分律』に基づいたものでした。
『四分律』では、仏陀がその弟子である出家者たちに飲酒を禁止するに至った経緯を克明に伝えています。なお、出家者の場合、飲酒は「戒」ではなく「律」による禁止であるため、五戒などにて説かれる飲酒戒とは全くその性質を異にしたものです。
酒が出家者について具体的に禁止されるに至った原因となった人、それは『四分律』の表記で娑伽陀という比丘です。それはサンスクリットでSvāgata、パーリ語ではSāgata の音写で、他の漢訳仏典では娑伽陀や莎伽陀、沙伽陀、蘇揭多などと様々に音写され、あるいは善来と漢訳された名が用いられています(以下、サーガタで統一)。そして飲酒戒制定の因縁の人として、その逸話に若干の相違点が見られるものの、現存するすべての律蔵がサーガタの名を挙げています。
『四分律』にてもそう伝えられているように、サーガタは神通力に秀でていたとされ、他の経にても仏陀の命によって人々に神変を示した人と伝えられています。またサーガタは、アーナンダと同様に、老いた釈尊の身の回りの世話をする随行の一人でもあったようです。
サーガタが神通力を備えていたということからすると、サーガタは修禅によって相当に高い境地に達した人であったのでしょう。実際、この飲酒戒制定の経緯を伝えている『四分律』の記述でも、サーガタは「尊者」・「長老」などという敬称でもって呼ばれていることから、この時出家してすでに年久しく、行を積んだ人であったようです。しかしながら、このような痴態を晒してしまったということからすると、その当時はいまだ阿羅漢ではなかった、ということなのでしょう。
飲酒という行為自体は、もともと仏陀が僧伽を形成される以前から、在家信者に対して離れるべき行為の一つ、戒の一つとして挙げられていました。しかし、僧伽が組織されてから相当の期間、比丘が飲酒して醜態をさらすなどという事態が生じていなかったことから、釈尊は比丘に対して「出家者は酒を飲んではならない」などと、律として禁止されてはいません。そもそも律を制定するに際しての釈尊の根本方針が「 随犯随制 」といい、何事か悪しき事件、好ましからざる事態が出家者あるいは僧伽内に発生して初めてそれを禁止する、というものでした。
また、律とは、いわゆる「法の不遡及」という現代では当たり前となっている大原則がすでに敷かれ、運用されるものでした。なにか律として制定される以前、同様の行為を行っていた者があったとしても、その者は過去に遡ってその罪で罰せられることはありません。したがって、初めて釈尊により禁止とされた行為をなした者は、釈尊から厳しく呵責されはしますが、それにまつわる罰則は適用されません。よってサーガタはその破戒者第一号ではない。ただし、飲酒戒制定の因縁として人の世が続く限り語り継がれてしまうという不名誉を被っています。
いずれにせよ、出家者として修行する以上、酒を飲まないなどというのは修行者として「あたりまえ」であったでしょうし、また酒を飲んで仏道修行など出来たモノではないのは今も昔も変わりありません。
しかし、神通をもって毒蛇を降したとされるサーガタは、悪行名高い六群比丘 らの勧めによって出された、コーサンビーの支配者からの酒を含む飲食の供養を受けた事により、文字通り泥酔。道に倒れて吐きまくったとされます。これによって、ブッダは出家者が飲酒することを「禁止」されます。いくら強力な神通力を備えていたサーガタとはいえ、酒を飲む事、そしてそれに酔うことがどういうことかわからなかったのでしょう。火炎を吐き散らすという毒蛇を降すほどの神通力もかたなしです。ここにおいて神通力など無意味でありましょう。
もっとも、これは小さいことでありますが、『四分律』ではサーガタに酒を勧めたのが六群比丘であり、実際に酒を供えたのはコーサンビーの支配者であったとされるのですが、他の律蔵ではそのあたりがそれぞれ若干相違して伝えられています。
さて、これを想像するとちょっと面白いのですけれども、しかしサーガタも酒だと知っていながらよくそこまで飲んだものです。飲む前は酒だとわからなかったとしても、それを口にすれば直ちにそれが酒であるとわかるでしょうに。
と、私は最初思いましたが、よく考えればそうも言い切れない。不佞は以前、ある寺で何かの行事があってそれを見物していました。そして、そこで振る舞われていた子供でも飲めるアルコールゼロだという甘酒が結局大量に余ったため、「捨てるのは勿体ないから是非飲んで。アルコール入ってないから」と勧められたことがあります。そこでそれを一口飲んだところ、そりゃ甘酒ですからもちろん酒の匂いはします。が、確かにアルコールは全く感じられず、ちょうど喉もカラカラに乾いていたので皆から勧められるままにどんどん飲んでいました。ところが、その後一時間もたたずにフラフラと気分も具合も非常に悪くなって起きていられなくなり、すぐ帰ってしばらく寝込んだことがあります。
後で聞けば、ある高齢の男性が使い所のない三本の清酒一升瓶を全て、火にかければアルコールは飛ぶからといって、甘酒の鍋にドボドボと秘かに入れていたとのこと。結局、冷ますのに時間がかかるためそれほど火にもかけなかったらしく、そりゃ具合も悪くなるはずだけれども案外わからないものだ、と思ったものです。他にも同様に具合が悪くなったのが幾人かあったようですが、一体、あれを飲まされた子達はどうなったのか。
そういえばまた似たような話で、人からもらったホタルイカの沖漬けのこともありました。あれにもまいりましたが、…いや、そんな話はどうでもよい。サーガタの当時の状況がどうであったかはわかりませんが、酒であっても酒とわからず飲むことはあり得、実際あることです。
さて、そこで釈尊が列挙されたという、酒を飲むことの十種の過失を表にして示せば以下のようになります。
1. | 顏色惡 | 顔色が悪くなる。 |
---|---|---|
2. | 少力 | 体力が減少する。 |
3. | 眼視不明 | 目がうつろになる。 |
4. | 現瞋恚相 | 瞋恚の姿を現す。 |
5. | 壞田業資生法 | 生業に支障をきたす。 |
6. | 増致疾病 | 病の元となり悪化させる。 |
7. | 益鬪諍 | 争いを引き起こす。 |
8. | 無名稱惡名流布 | 良い評判はたたず、むしろ悪評が立つ。 |
9. | 智慧減少 | 智慧が減少する。 |
10. | 身壞命終墮三惡道 | 死後、地獄・餓鬼・畜生いずれかの境涯に生まれ変わる。 |
これら『四分律』で説かれる飲酒の十過失は、ただ出家者を対象としたものでなく、その第五に「壊田業資生法(農耕など生業に支障をきたす)」を挙げていることからも、人一般に通じる酒の過失として挙げられたものだったようです。また、冒頭触れたように『長阿含経』と『四分律』とは同じく法蔵部が伝持したと思われるものですが、これら酒の十過失は、『長阿含経』「善生経」にて挙げられた「飲酒の六過失」をさらに広説したものとも言えます。
ただし、これら十過失は『四分律』に独特の説であって、『十誦律』など他の漢訳律蔵、そして『パーリ律』にも挙げられていません。
釈尊はサーガタを、「此娑伽陀比丘癡人。如今不能降伏小龍。況能降伏大龍(この娑伽陀比丘は癡人なり。今の如きは小龍をも降伏すること能わず。況や能く大龍を降伏せんをや)」と厳しく叱責。飲酒には十の過失があることを示されたのちに、「これより以降は出家者が酒を飲む事は禁止である」と律の条項として制されています。
そして、もし出家者が酒を飲んだ場合は、 波逸提 という罪に抵触すると定められています。『四分律』には比丘の波逸提として90種、比丘尼の波逸提は178種の行為が規定されています。
波逸提とは、サンスクリットprāyaścittikaあるいはパーリ語pācittiyaの音写で、その原意は「贖い」あるいは「贖罪可能」・「贖罪を要するもの」であり、仏教においては出家者の「懺悔可能な罪」を意味します。漢訳では単堕であるとか堕罪などとされ、その意を直ちに掴み難いものとなっています。出家者の罪には五あるいは七段階の軽重がありますが、波逸提はそのうち五段界でいえばその中間、三番目の罪となります。しかしその原意どおり、贖罪すなわち懺悔が可能な罪であり、その懺悔は三人以上の比丘の面前でその罪を発露(告白)し、一定の反省の言葉を述べることによって成立します。
また、波逸提に次いですべきでない行為は突吉羅とされますが、これはサンスクリットduṣkṛtaあるいはパーリ語dukkaṭaの音写です。その原意は「悪しき行為」。漢訳ではそのまま悪作などとされ、特に言葉についての突吉羅は悪語として分類されることもあります。これは出家者としてはもっとも軽微な罪とされ、漢訳では軽垢罪とされてもいます。そこで、その懺悔は一人以上の比丘の面前でその罪を発露し、一定の反省の弁を述べることにより成立します。もし、近くに比丘が一人も存在しない場合は、「心念」といい、ただ心の中で自ら発露懺悔することで出罪することも出来ます。
なお、比丘がもしこれら波逸提や突吉羅の罪を犯していながら、懺悔せずにいればどうなるか。まず、その比丘は僧伽における布薩 (説戒)に参加することが出来ません。したがって、布薩に参加する前にかならず懺悔し出罪していなければならず、しかしその布薩は月二回行われて、比丘は必ず参加しなければなりません。故に、比丘が懺悔せずに長年いるのは、基本的にはあり得ないことになります。
日本では布薩について、「僧侶が懺悔する儀式」などと非常に誤解されています。しかし、それは僧伽の成員が戒律に違反せず生活していることを、波羅提木叉 〈[S]prātimokṣa, [P]pātimokkha. 戒本〉といわれる律の条項を簡潔に列挙してまとめたものを一人の長老比丘が暗誦し、それを皆が静聴してその内容を再認識し、その全員が律に違反していないことを「確認する儀式」です。
(日本の寺家においても、本来毎月二回すべき筈の布薩を思い出したかのように極稀に、あるいは人集めの興行として行うことがあります。しかし、その様子を見ていると、まず例外なくその参加者全員が波羅提木叉を斉唱するという間抜けな痴態をさらしています。律にせよ大乗戒にせよ、波羅提木叉はその会の上座一人が読誦して他は静聴すべきことは明記されており、それも上記のような意味あってのことなのですが、まったく「論語読みの論語知らず」とはまさにこのことだとそれを見るたび失笑し、愉快に思うものです。読経が商売となっている彼らからすれば、皆で斉唱しなければ気が済まない、参加した気がしないという精神が働いてのことかもしれませんが、形式的・儀礼的にすら如法に出来ないとは実に詮無いことです。)
布薩はまた原則としてその地域、これを僧界だとか大界だとかいうのですが、そこに在る比丘全員が出席しなければならないため、全員でその地域の一味和合が保たれていることをもやはり「確認」するのです。一味和合とは、僧が律に従って生活していることを大前提として、異見を持たず一致していることを意味する語です。
したがって布薩は「懺悔の儀式」などではなありません。仮に布薩中、上座によって波羅提木叉が暗誦されるのを聞いているうちに自身が懺悔すべき罪を犯していたのに気づいた場合は、布薩が終わってから別途に相応する方法で懺悔せよ、ということになっています。一旦布薩が開始されたら、その進行を妨げてはならないとされるのです。よって布薩中に懺悔など出来ません。
さて、律は戒とは異なり、その性質上、具体的に「酒とは何か」の定義がされている必要があります。律は「僧侶の規則・僧伽の運営法」であるため、いわゆる法律と同様の厳密な定義が必要です。そこで、『四分律』など律蔵には、出家者が酒を飲んではならないと制定した後に、酒とは何かとの定義、どのような場合に罪となり、また無罪となるかなどの例が挙げられています。また、比丘が飲酒した場合に該当する罪は何か、比丘尼の場合はどうか、式叉摩那・沙弥・沙弥尼の場合は何の罪が適用されるかなど詳細に説かれます。
例えばそのうち、「酒無酒想波逸提(酒にして無酒想は波逸提)」とする規定がありますが、それは「これは酒ではないのだ」などといって酒を飲む輩があったことから加えられたものと言えます。なんとしてでも律の規定、法の網の目をかいくぐって飲もう、という者があったのでしょう。
また、面白いのは「無酒有酒想突吉羅(無酒にして有酒想は突吉羅)」、すなわち「これは酒だ」と思いつつ酒でないものを飲んだとしても、それは一段低いものではありますが、悪作罪としていることです。したがって、律では、酒を飲むこと自体を出家者に対して禁じているのと同時に、出家者として酒を実際に飲まずとも、飲もうとすること、そしてその思いを実行に移すこと自体を規制していることが知られます。
ここで『四分律』における飲酒に関する規定の、その概要を示せば以下の通り。
酒を、「これは酒である」と知って飲むこと。 |
酒を、「これは酒ではないか」と疑いつつ飲むこと。 |
酒を、「これは酒ではない」と想いつつ飲むこと。 |
酒、熱した酒、あるいは酒を混ぜた物を飲み、あるいは食べること。 |
みりんを飲むこと。 |
酒酢を飲むこと |
麹もしくは酒粕を食べること |
酒でないものを、「これは酒である」と想って飲むこと。 |
酒でないものを、「これは酒ではないか」と疑いつつ飲むこと。 |
何か病気に罹患した際、他に有効な治療薬がない場合に、酒を薬として用いること。 |
皮膚病や傷に、酒を塗布すること。 |
激しい痛みや精神異常により、心神喪失状態で酒を飲むこと。 |
要するに、ごく一部の例外を除いて、出家はなんであれ酒を決して飲むな、ということに尽きます。
Bhikkhu Ñāṇajoti(沙門覺應)