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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

不飲酒 ―なぜ酒を飲んではいけないのか

Suttanipāta(『スッタニパータ』)

“gahaṭṭhavattaṃ pana vo vadāmi, yathākaro sāvako sādhu hoti.
na hesa labbhā sapariggahena, phassetuṃ yo kevalo bhikkhudhammo.
(…)
“majjañca pānaṃ na samācareyya, dhammaṃ imaṃ rocaye yo gahaṭṭho.
na pāyaye pivataṃ nānujaññā, ummādanantaṃ iti naṃ viditvā.
“madā hi pāpāni karonti bālā, kārenti caññepi jane pamatte.
etaṃ apuññāyatanaṃ vivajjaye, ummādanaṃ mohanaṃ bālakantaṃ.
さて在家者〈gahaṭṭha〉の行うべきつとめを、私は汝らに語ろう。この通りに行う者は、善い声聞しょうもん〈sāvaka. 弟子〉である。全き比丘の法〈bhikkhudhamma. ここでは出家者と同じ戒律の意〉は、財を所有する者〈sapariggaha. 妻帯者。ここでは在家者の意〉によっては成し遂げることは出来ない。
《中略》
誰であれこの法〈dhamma. 仏陀の教え〉を受け入れる在家者は、酔わせるもの〈majja〉を飲むことを行ってはならない。他に飲ませてもならない。他が飲むことを容認してもならない。それは畢竟、(人を)狂わせるものであることを知って。
まさに愚者たちは酔い〈mada〉によって諸々の悪事を行い、また他の人々を酔わせて(悪事を)なさしめる。この不利益〈apuñña〉の元を避けよ。それは愚者の好むところであり、人を狂気へ誘い、迷わせるものである。

Suttanipāta, Culavagga, Dhammikasutta 395, 400-401 (KN 5.26)

Suttanipātaとは

Suttanipātaスッタニパータ(以下『スッタニパータ』)とは、往古のセイロンを拠点として発展し今に至るまで主として東南アジアにおいて伝えられてきた、分別説部ふんべつせつぶ(上座部・赤銅鍱部しゃくどうしょうぶ )がパーリ語という古代印度の一言語によって伝持する経・律・論の三蔵、いわゆる「パーリ三蔵」の中に含まれた経典の一つです。

「パーリ三蔵」の経蔵は、Dīgha Nikāyaディーガ・ニカーヤ(長部)・Majjhima Nikāyaマッジマ・ニカーヤ(中部)・Samyutta Nikāyaサンユッタ・ニカーヤ(相応部)・Anguttara Nikāyaアングッタラ・ニカーヤ(増支部)・Khuddaka Nikāyaクッダカ・ニカーヤ(小部)の五つに分類されており、そのうち最後のKhuddaka Nikāyaはさらに15章(シャムおよびセイロンにおける伝承)あるいは18章(ビルマにおける伝承)に分けられ、『スッタニパータ』はその第5章として収録されています。

なお、Suttanipātasuttaスッタは「たて糸」あるいは「経典」を意味し、nipātaニパータ は「降下」または「不変化詞」そして(書物の)「篇」・「節」を意味します。すなわちSuttanipātaとは、「経の集篇」を意味した題目です。事実、『スッタニパータ』は主題ごとに五章に分けられた小経の集成となっています。

『スッタニパータ』は過去、支那に伝来して漢訳されたものでなかったことから、その内容は支那や日本の仏教にはほとんど全く知られなかったものです。しかしながら、近現代に英国を始めとして独国など欧州で極めて盛んとなった仏教研究、仏教学の成果として分別説部の三蔵が広く世界に紹介され、それを日本人も学ぶようになってようやく知られることになっています。そして本経が知られるや、その内容の平易ながらも核心に直截迫る言葉に満ち溢れ、まさに達磨(真理)を解き明かしたものであると人々の胸を強く打ち、今や世界の仏教徒に広く愛読される経の一つとなりました。その事情は、次項に示している Dhammapadaダンマパダにおいてもおおよそ同様です。

文献学的にも、『スッタニパータ』は、仏陀が悟りを得られその教団が形成されて間もないごく初期の頃の言葉と形式を伝えたものであると様々な点で認められ、いわゆる原初の仏教の様相を生々しく伝えるものとして非常に貴重で重要だと見なされています。

『スッタニパータ』の説く「なぜ酒を飲んではいけないのか」

『スッタニパータ』において不飲酒戒が説かれるのは、その第2章Cūḷavaggaチューラ・ヴァッガ(小品)の第14経Dhammikasuttaダンミカ・スッタ(以下、「ダンミカ経」)です。「ダンミカ経」では、仏弟子でも在家信者としてのつとめとして、五戒および八斎戒が説かれる中に飲酒から離れるべきこと、そしてその理由が説かれています。

『スッタニパータ』「ダンミカ経」において、なぜ酒を飲んではいけないのかとされる理由、それは「酒は人を酔わせるものであるから」です。

酒が人を酔わせるものであるのは、いわばあたりまえのことです。だからこそ、人は酒を飲むのでしょう。「自分は酒に強く、決して酔いはしない。ただ味わいたいのだ」という人もあるでしょうが、ほとんどの人が酒を飲むのは、その味が良いのと同時に「酔えるから」でありましょう。

「酒は憂いの玉箒たまぼうき」とばかりに、酔う事によって普段の憂さを晴らしたい。酔いによって、忘れたい苦い記憶、想いから、一時でも解放されたい。あるいは、普段から楽しいが酒を飲むともっと楽しくなるから。一日の終わりに仕事の緊張を解くこの上ない妙薬として、酒を飲む人もあるでしょう。

しかし、それがここでは戒められています。酒は人を酔わせるものであり、酔いとは狂気、怠惰を惹起するものであるために。

さらに、『スッタニパータ』「ダンミカ経」では、酒を人に勧めて飲ませる事、いや、他人が酒を飲むこと自体を容認してもいけない、とすら説いています。飲酒について、自他に対して大変厳しい態度をとるべきことが説かれているのです。しかし、他人が酒を飲む事を容認してはいけない、などと聞けば、「そんなの人の勝手でしょ」と言い出す人もあるかもしれません。勝手ではあるでしょう。しかし、仏教では、現代人が麻薬に対してする態度と同じ態度を、酒にも採っているのです。酒も麻薬も、人を酔わせる点、中毒になる点で同じなのですから。

では、なぜ酔ってはいけないのでしょうか。それは、人は酔って(普段はなさぬような)悪事をなし、またあるいは怠惰となるからである、とされます。実際、人が酒に酔って痴態をさらし、何らか悪事を行うのは珍しい事ではなく、重大な犯罪すら引き起こすことすら決して稀な事ではありません。

酔い。実にそれは人を狂わせ、日常の小さな過ちから、取り返しのつかぬ悲劇をすら巻き起こす原因となりうるものです。それは、わざわいの起こるもとです。

莫妄想 ―人は普段から酔っている

おそらく、「それは稀な事例。極端な事例であって、普通はそうまで飲まない。少なくとも私は彼等とは違う」と言う人があることでしょう。「私に限ってそのようなことはない」と。

仏教では、すべての人はまともに世界を見てはいない、と考えます。人はさまざまな物事について正しく認識出来ていない、というのです。人は見ているようで見ていない、聞いているようで聞いていない、あるいは見たいことだけ見、聞きたいことだけ聞きいている。人は世界を自分の見たいように見て、聞きたいように聞いているのであり、それはどれも結局妄想にすぎません。

ここで「妄想」というのは、なにも頭の中であれこれとファンタジックなことを想い描く事だけを言うのではありません。仏教からすれば、人のほとんどすべての認識は「妄想」であり、普段から酔っているようなものです。酒を飲まずとも酔った状態でありながら「私は酔ってなどない!」などと、人は人生という車を、酔っぱらい運転しているようなものです。

そして、それはまったくの蛇行運転であり、まるで見当違いの方向に車を走らせていながら、本人はそれなりにまっすぐ目的地に向かって走っているつもりなのが、一般的な人生といえるでしょう。「自分(五根)」というフィルターを通して見聞きし、自分の意識の内に作り上げた世界(妄想)と、現実の世界はまるで食い違っており、それがために人は苦しみ、迷い、同じ過ちを永遠に繰り返していくと、仏教では説きます。

酒を飲むことに対して、「普段ただでさえ狂酔しているのに、その上、ことさらに狂酔を重ねてなんとする」と言え、故に仏教は飲酒を戒めます。

そこで、戒をまもったうえで修禅することにより、物事のありのままを見知し、この苦しみ深き世にあってその連鎖を断ち、平安を得んとします。これを如実知見にょじつちけん といいます。そしてそれが、仏教です。

Bhikkhu Ñāṇajoti(沙門覺應)