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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

不飲酒 ―なぜ酒を飲んではいけないのか

『長阿含経』「善生経」

善生。當知飮酒有六失。一者失財。二者生病。三者鬪諍。四者惡名流布。五者恚怒暴生。六者智慧日損。善生。若彼長者長者子飮酒不已。其家産業日日損減。
善生ぜんしょう〈[S]Sīṅgālaka, [P]Siṅgāla〉よ、まさに知るべきである、飲酒には六つの過失がある。一つは財産を失う、二つには病を生じる、三つには争いを起こす、四つには悪名を轟かす、五つには怒り狂って暴れる、六つには智慧が日に日に減退する。善生よ、もし資産家と資産家の子が飲酒を止めることがなければ、その家の財産と生業は日々に衰退していくであろう。

仏陀耶舍・竺仏念訳『長阿含経』巻十一「善生経」(T1, p.70c)

『長阿含経』

長阿含経じょうあごんきょう』とは、その主題も内容も異なる三十の経典の集成です。比較的その内容が長い経典の集成であることから、「長い阿含経」との名があります。そもそも阿含あごんとは、サンスクリットあるいはパーリ語Āgamaアーガマ の音写で、それは「近づいて来るもの」・「到来」・「根源」を意味する語です。それがまた転じて「伝承された教え」を意味するものととして用いられます。

Āgama(阿含)は、東南アジアおよびセイロンに伝わった分別説部ふんべつせつぶ(上座部)においても仏教・仏典を指す言葉として用いられています。しかし、分別説部の場合はĀgamaではなく、「集まり」や「部」などを意味するNikāyaニカーヤ という語を以て、五つに分類された経典群に対して用い伝持しています。『長阿含経』は、そんな「パーリ三蔵」の五ニカーヤのうち、 Dīgha Nikāyaディーガ・ニカーヤ(以下「長部」)に対応します。ただし、『長阿含経』の収録経典が30経であるのに対し、「長部」は34経と若干の相異が見られます。

支那にもたらされ漢訳された「阿含経」には、『長阿含経』の他に、『中阿含経』・『雑阿含経ぞうあごんきょう』・『増一阿含経ぞういちあごんきょう』があり、これらは一般に「四阿含」と総称されます。ただ「四阿含」には、パーリ三蔵におけるKhuddaka Nikāyaクッダカ・ニカーヤ (小部)に該当する「阿含経」が存在していません。しかしながら、例えば前項の『ダンマパダ』に対する『法句経』のように、小部の中の経と対応するものが、単独で漢訳された経典がいくつか伝わっています。

分別説部の立場では、Āgamaとは「パーリ三蔵」(および蔵外文献)であり、Nikāyaは仏説の経典すべてを網羅したものであって、それ以外の経の存在を認めていません。しかしながら、特定の部派そのものが伝わらず、またいわゆる大乗小乗の経論が長い時間をかけて無作為、闇雲に伝わったことから、本拠インドにおける実際の仏教事情を理解することが出来ず、大乗こそ真の仏教であると理解してきた支那においては、「阿含経」とはただ小乗経の一部であって、それらは大乗に一等劣るものと考えられてきました。そして、そんな「四阿含」は古来、唐代の僧、玄奘三蔵の弟子で法相宗の祖師とされる基法師(窺基きき)により、すべて大衆部だいしゅぶに属する経であるとみなされています。

もっとも、これは日本の近世中期という比較的時代の新しいことではありますが、高野山金剛峯寺の有力な子院の一つ金剛三昧院にあった若いながら傑出した学僧法幢ほうどう により、『雑阿含経』および『中阿含経』は説一切有部の、『増一阿含経』は大衆部の、そして『長阿含経』は化地部の所伝であると、従来の見方は杜撰な誤りであると指摘されています。現代、『長阿含経』はその訳者が法蔵部の律蔵『四分律』の訳者に同じ仏陀耶舎ぶっだやしゃであることなどから、法蔵部の所伝であろうと学者らにより見なされていますが、それにしても法幢の炯眼には敬服せざるを得ません。

近世江戸期は、その最初期において仏教再興を目指した戒律復興運動が京都を中心に生じ、また時代の機運として儒教や国学などにおいても復古思想や合理思想がやはり京都と大阪、そして江戸を中心に非常な高まりを見せていました。その ふうは当時の真摯に求道する仏教僧も同じくしており、勢い「阿含経」や律に対する見方が大きく見直されてよく読まれています。

一方、近世中期の大阪北浜に産した不世出の天才町人学者、 富永仲基とみながなかもと は、黄檗山萬福寺の鉄眼版一切経の校合に参加した折に数々の仏典を読破した結果、「阿含経」こそ仏説の根源であって大乗は仏説ではなく後代に新たな思想が次々と「加上かじょう」されたものである、と喝破した『 出定後語しゅつじょうごご』を著しています。それは、当時の仏教者に衝撃と与え、多く感情的な反発を招いています。

もっとも、それまで「阿含経」がまるで顧みられていなかったかと言えばそうではなく、日本で祖師と言われる僧や、今に名を残す学僧などが書き残した典籍の中には、「阿含経」からの引用がよく見られます。特に「 仮名法語かなほうご 」と言われる、鎌倉期以降様々な僧達が一般庶民のために盛んに著した、漢文ではなく平易な仮名文による書にもまた、「阿含経」に依拠したものが多くあります。そもそも、支那や日本に伝わった大乗において最も重要視されてきた、八宗の祖といわれる龍樹によるとされる『大智度論』や瑜伽行唯識学派の祖、 無著むじゃく世親せしんによる諸々の論書は、「阿含経」を抜きにしては決してあり得ないものです。

したがって、支那以来、「四阿含」が小乗教に属するなどと見なされてきたとはいえ、それが無視されたということは全く無く常に重視されています。特に『長阿含経』はその中でも、世に広く知られ読まれてきた経典が数多く収録されています。

「善生経」における「なぜ酒を飲んではいけないのか」の理由

「阿含経」にはそこかしこに不飲酒が説かれており、その枚挙に暇ありません。しかし、冒頭その一節を示したように、ここでは特に『長阿含経』の第十六経にあたる「 善生経ぜんしょう」の説を紹介しています。

「善生経」は、仏陀が善生という名の、これはサンスクリットSīṅgālakaシーンガーラカまたはパーリ語Siṅgālaシンガーラの漢訳名ですが、裕福な資産家の子に対し、在家としていかに生きるべきかを広く説かれた経です。その概要は以下のようなものです。

ある朝、善生が、東南西北上下の六方を礼拝しているのを見かけられた釈尊から、なぜ六法を礼拝するのかと問われると、それはただ亡父の遺言であるからと答えます。すると釈尊は、まず少欲知足して行いを正すべきことを説かれます。そして、ただ無暗に意味もなく六方を礼拝するのではなく、東方を父母、南方を師長、西方を妻、北方を親族、下方を使用人、上方を出家修行者であるとの思いを起こし礼拝すべきであると説かれ、さらに六方にかけて様々な人生訓が説かれると、ついに善生は釈尊に心服して在家の弟子となる、というものです。

そんな「善生経」とほとんど同内容の漢訳経典に、『優婆塞戒経うばそくかいきょう』あるいは『六方礼経ろっぽうらいきょう』があります。「パーリ三蔵」の長部で「善生経」に対応する経典はSiṅgālasuttaシンガーラ・スッタSiṅgālovādasuttaシンガーローヴァーダ・スッタ)です。いずれも在家者がいかに生きるべきかの教えを、実際的で簡潔に説くものとして古来よく知られた、今なお仏徒に必読の経の一つです。

以下、参考までに冒頭に掲げた一節に対応する、Siṅgālasuttaにおけるそれを示します。

“cha khome, gahapatiputta, ādīnavā surāmerayamajjappamādaṭṭhānānuyoge. sandiṭṭhikā dhanajāni, kalahappavaḍḍhanī, rogānaṃ āyatanaṃ, akittisañjananī, kopīnanidaṃsanī, paññāya dubbalikaraṇītveva chaṭṭhaṃ padaṃ bhavati. ime kho, gahapatiputta, cha ādīnavā surāmerayamajjappamādaṭṭhānānuyoge.
長者の子〈gahapatiputta. 資産家の子〉よ、これら六つの不利益〈ādīnava〉が、穀物酒や果実酒など(人を)酔わせ放逸とさせるものにより引き起こされる。①財産を失い、②争いを増長させ、③病気の原因となり、④不名誉を生じ、⑤陰部を露出し、⑥智慧〈pañña〉を弱める。実に、長者の子よ、これら六つの不利益が、穀物酒や果実酒など(人を)酔わせ放逸とさせるものにより引き起こされるのだ。

Pathikavagga, Siṅgālasutta (DN 31.6)

以上のように、「善生経」とSiṅgālasuttaとは、極めて若干の相違点があるものの、ほぼ同内容となっています。これも参考までに、その両経における「飲酒の六失」を比較対照しやすいよう表にしたものを示しておきます。

飲酒の六失
  「善生経」 Siṅgālasutta
1 失財 (財産を失う) 財産を失う。
2 生病 (病気になる) 争いを増長させる。
3 闘争 (争いを起こす) 病気の原因となる。
4 悪名流布 (悪評がたつ) 不名誉が生じる。
5 恚怒暴生 (怒って暴れる) 陰部を露出する。
6 智慧日損 (智慧が減少していく) 智慧を弱める。

このように、両経の相違点と言えば、その順序に小異があることと、「善生経」で「怒って暴れる」とあるところをSiṅgālasuttaでは「陰部を露出する」となっている点です。

いずれにせよ、「善生経」における「なぜ酒を飲んではいけないのか」はいたって簡潔です。そしてこれらはいわゆる「宗教臭い」理由でなく、ほとんど社会的なものばかりとなっています。それにしても、これらは実に単純で、馬鹿らしいものばかりだ、と思われるかも知れません。いや、菲才は実際そう思いました。またごく単純なことばかりであるが故に、「なんだそんなことか」と軽視する者も出てくるかも知れません。

しかし、その馬鹿らしいことの数々は、古今東西問わず、まさに人が酒によって大小様々に引き起こしてきた過失です。

酒を飲む人、好む人の中で「これらの事は一つとして自身には当てはまらない。私はつねに楽しい酒を飲んでおり、問題を起こした事は一度としてない。よって私は酒を飲んでも問題は無い。いや、当てはまらない人ならば酒を飲んでもいいのだ」と言う人が必ずあるでしょう。あるいは、「これらは酒のもっている一側面に過ぎない。酒には健康に資する面もデータもあり、人間関係を円滑にする潤滑剤でもある。それに、酒は百薬の長と古来言うではないか」という人もあるでしょう。

たしかに、今の日本社会で酒により財産を失う人は稀かもしれません。日本のように酒に対して寛容な、ある意味ではルーズな面をもった文化を形成している国では、ある人が少々酒癖が悪くとも、悪評がたつまでのことも稀でしょう。それがむしろ愛嬌とすら捉えられる場合もあるようです。

しかし、酒あるいは酒に伴う食事によって、病気になる人は現実として跡を絶たちません。酒は「百薬の長」などと言われますが、また同時に「百毒の長」あるいは「万病の元」、「きちがい水」とも言われます。また、酒によって些細なことから争い、無闇に怒り、暴れる人も決して稀ではありません。

酒にまつわる日常生活の積み重ねによって夫婦が不仲となり、酒の勢いにまかせて不適切な男女関係を結ぶこと、永年の友情に亀裂を走らせることもよくある話で珍しい話でない。なにより、酒を飲むことによって、仏教が説き、その獲得を目指す智慧を失うことはあっても、それが磨かれ強まる人など決してありません。

Bhikkhu Ñāṇajoti(沙門覺應)