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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

不飲酒 ―なぜ酒を飲んではいけないのか

古代日本と酒

漢人が見た「倭人と酒」

仏教では飲酒が戒められている。特に仏教の僧侶は、禁止されており、決して飲んではならないとされている。このような話をしますと、「いや、そんな筈はない。私の知っているお坊さんは皆、酒が大好きでウワバミのようであるし、私も好きで毎日晩酌している」などという人が現れます。実際、地方によっては、葬式や法事のあとに坊さんを含めた皆で酒をたらふく飲むことが故人の慰めになる、と考えているところもあります。

しかしその一方、日本のボーサンというものが、葬式や法事のあと檀家の前で酒を飲み、赤ら顔で管を巻いて時に醜態をさらすことを、非常に苦々しく思われている人も多くある。「なぜこのような、忌憚なく言ってしまえば人の死にむらがって金品を巻き上げることこそ生業とする卑しい輩を、近親の死を悼み悲しむ場に意味もわからず大枚をはたいて招き、酒や食事の接待までしなければならないのか」と憤懣やるかたない人の実際の声を聞いたことは、一度や二度ではありません。

もっとも、最近は通夜などの席でボーサンを接待することは都市部ではほとんど行われなくなっていますが、結局これは酒だけのことではなく、「葬式仏教」と揶揄される現今の日本仏教のあり方そのものに対する嫌悪感と猜疑心に関わることでもあるのでしょう。

実は、葬式の場で酒宴を開いて皆で飲み騒ぐことは、日本では遥か昔から行われていたことのようです。今からおよそ千七百年前の三世紀後半、漢人から見た日本の様子を伝えたものとされるいわゆる『魏志倭人伝』に、このような記述があります。

其死有棺無槨。封土作冢。始死停喪十餘日。當時不食肉。喪主哭泣。他人就歌舞飮酒。
人が死ぬと棺に収めるが、かく〈棺を更に納めるための外棺〉はない。(棺を)土で封じこめて盛った墓を作る。始め、死んでから停喪〈もがり〉する期間は十余日。その間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。

『魏志倭人伝』(『三国志』東夷伝倭人条)

酒については直接関し無い話ではありますが、古代の支那人がまず最初に倭人が「かく 」(木製の外棺)を用いないことを指摘しているのは、古代支那では人を葬るのに槨を用いないことは「礼」に反することであって、基本的に槨は必ず用いるべきものであるとされていたからです。当時の漢人たちは、そもそも中夏(中原)以外の東西南北にあるのは全て夷国であったのですが、そのような日本の風習を未開で野蛮なものだと見なしていたに違いありません。

もっとも、かの孔子が実の父や弟子の為に槨を用いることが出来なかったとする記述がわざわざ『論語』などにあります。経済的に貧しい人々は槨を故人の為に用意することが出来ず、それをひどく苦に感じていたことが知られます。

さて、通夜など葬式の際、嘆き悲しむ遺族の横で、葬儀の参加者らが歌い踊って酒を飲むことは、これほど昔から行われていたことでした。また同じく『魏志倭人伝』には、倭人(日本人)がそもそも酒好きであるとする記述もあります。

其會同坐起。父子男女無別。人性嗜酒。
その会合での所作には父・子・男・女の区別はない。人の性質は酒好きである。

『魏志倭人伝』(『三国志』東夷伝倭人条)

わざわざ異邦人である漢人がこのような記述を残したということは、日本人の酒好きの度合いが、傍から見て著しかったためであったのでしょう。普段は世界的に見ると非常に大人しく行儀の良い日本人が、何故か酒宴の場となると無礼講であり、男女老若の別なく大声で騒ぐ光景は、今も巷の居酒屋などでよく目にすることです。特に欧州など西洋から来た友人が、日本人の普段の振る舞いと酒宴の席でのそれとの違いに驚いたと、これは良い悪いではなく感想するのを、私個人も幾度も耳にしたことがあります。

実に面白いことですが、それは千七百年も以前から続くものであったようです。

酒を讃むる歌

それから三世紀ほど時代が下った千三百年ほど昔の日本の公卿であり、優れた歌人であった大伴旅人おおとものたびと 〈665-731〉は、「酒をむる歌」と題した歌を十三首読んでおり、それが『万葉集』に収録されています。

しるしなき ものを思はずは 一坏いっぱいの にごれる酒を 飲むべくあるらし
結論の出ない物思いをするよりも、一杯の濁り酒を飲んだほうが良い、ということだ。
黙然もだをりて さかしらするは 酒飲みて 酔泣ゑひなきするに なほかずけり
おし黙ってかしこばることは、酒を飲んで酔い泣きすることに、なお及びはしない。

『万葉集』

ここで大伴旅人が歌っているように、万葉の昔にも日本人にとって酒とは人生の大きな楽しみであったようです。そのように古来日本人が好んで酒を飲んできたことであるのに、「不飲酒」などといって仏教がそれを戒め、あるいは否定していると聞くと、たちまち「何事であるか、けしからん!」と感情的になってしまうのかもしれません。

実は先程紹介した「酒を讃むる歌」の中には、こんな歌も残されています。

あなみにく さかしらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る
なんと醜いことか。賢こばり酒を飲まない人をよく見ると、まるで猿のようだ。
生者いけるひと つひにも死ぬる ものにあれば 今の世なるは 楽しくをあらな
人とは終いには死んでしまうものなのならば、今生きている間は楽しくやらねば。

『万葉集』

大伴旅人は最終的には天皇の臣下として最高位(ただし従二位大納言)に昇り詰める人ですが、これらの歌を謡っていたのはその以前、太宰師だざいのそちすなわち太宰府(九州筑紫)にて国防と外交の長官として赴任させられていた時のことです。

大伴旅人はここで酒を讃えているように、無類の酒好きであったのでしょう。また酒について歌を詠ずることは、陶淵明とうえんめいなど支那の偉大な詩人達に倣ってのことでもあったのでしょう。しかし同時に、これらの歌は、大伴旅人の人生が案外不幸で満ち足りないもの、酒が唯一の逃げ道となっていたかもしれないことを匂わせます。当時は貴人が京から離れること、すなわちその氏族親族から離れることは一般に非常な苦しみを感じるものであったらしく、さらに大伴旅人は太宰府に下向してまもなくその妻を亡くしていました。彼はその死を悲しみ、寂しさを詠った歌もまたいくつか遺しています。

それにしても大伴旅人のこれらの歌は、後代となるにつれ形式張り、作為的となっていったものに比べ、実に奔放で作為の無い率直なものばかりです。古歌の本歌取りした中にもそれを超えるかのような優れたものもありますが、多くは猿真似というか、技巧をこらそうなどという意図の見え隠れする詰まらないものとなっている。近世の本居宣長もとおりのりながや近現代の正岡子規まさおかしき など国語学の雄が『万葉集』ひいては『古今和歌集』に収録された歌を高く評価したのも、 むべなることであります。

さて、これは大伴旅人とはまったく異なる次元の話となりますが、現代、定年退職してほとんど丸一日自由な時間が出来た老翁のほとんどには、歌を詠むなどという教養、高尚な習慣があるわけもなし。ただ日がな一日テレビをぼーっと見続け誰に対してでもなくボヤき、あるいは用もないのに街をふらふら徘徊しつつ他人を詮索することを事とし、夕方になって社会や人に対する漫然とした不満を持ってブツブツ言いつつ安酒をススルのを無上の楽しみとするが如き日々を送って漫然と死を待つばかり、となっているようなのを見かけます。

しかし、それもまた人生。

その人が、自身の人生をそのように生きてきた結果としてそうなっているのであり、それを自ら良しと考えているのであればそれまでのことです。それで良しと考えていなくとも、自らそれを改めよう、変えようとしないのであれば結局同じこと。多くの場合、酒文化にどっぷり浸かって、酒を飲まなければ人と腹を割ったざっくばらんな話も出来ない、大人の遊びといえば酒がつきものだ、酒が出ないなど考えられない、と決め込んでいる中高年の人は、そのような習慣、固定観念から抜け出すことはもはや困難となっているかもしれません。

僧はすでに方外の士

以上のように日本人と酒とのあり方が、実は古代から現代に至るまで似たようなものであるからといって、それで日本の仏教者が無反省にそれと同様で良い、というわけにはいかない。先に述べたように、仏教では飲酒を離れるべきものとしており、特に出家者においては一切禁止されているためです。大伴旅人が「酒を讃むる歌」を幾首も遺しているといっても、そもそも彼は俗人であって僧ではありません。

当時、日本のあらゆる寺院および僧尼らは七世紀末に国家の定めた法律によってようやく管理されるようになり、それは俗人の規定とは当然異なるものでした。そこでまた唐の『道僧格』に倣い、『大宝律令』の一編に加えられ施行されたのが「僧尼令」です。その中、やはり僧が酒などを飲むことは禁じられており、もし飲んだ者は苦役が課せられ、さらに飲んで濫行に及んだ場合は還俗させられています。

凢僧尼飲酒。食宍。服五辛者。謂。飲酒者。不至醉亂也。食宍者。廣包含生之肉也。五辛者。一曰大蒜。ニ曰慈葱。三曰角葱。四曰蘭葱。五曰興菃也。卅日苦使。若爲疾病藥分所須。三綱給其日限。若飲酒醉亂。及與人鬪打者。各還俗。謂。若本罪徒以上。及僧尼相鬪打者。並依下條也。
およそ僧尼が酒を飲み、肉を食べ、五辛を服したならば謂く、酒を飲むとは酔い乱れるに至らないことも含む。肉を食うとは、広く生物の肉すべてである。五辛とは、一つには大蒜、ニには慈葱、三には角葱、四には蘭葱、五には興菃である。 、三十日間苦使〈苦役.ただし僧の場合、その期間を隔離して写経や寺院の修繕などさせるといった程度で俗人のそれに比せばごく軽いものであった〉せよ。もし疾病の薬として用いなければならない場合は、三綱〈三種の寺院管理職。上座・寺主・維那〉はその期限を定めよ。もし酒を飲んで酔乱し、人と闘争して暴行に及べば、それぞれ還俗させよ。謂く、もし本罪が徒罪以上であれば、あるいは僧尼が互いに闘打したならば、いずれも下条に順じて罰せよ。

『令義解』「僧尼令」第七 飲酒条(新訂増補『国史大系』, vol.22, p.82)

以上に示したのは平安初期の天長十年〈833〉に編纂された律令の解説書『令義解』における解釈(割注)を含んだものですが、本文は同じです。このように当時、仏教の戒律としてだけではなく、国法としても僧の飲酒は禁じられていました。酒にまつわる暴力沙汰を起こした場合は、強制的に還俗に処することなど、律の波羅夷罪に該当する非常に重い罰となっています。

もっとも、おそらくはそのような律令が布かれる以前は、僧であっても当然のごとく酒を飲む者が多くあったことが想像されます。そして、令が布かれてもなおしばらくはそれまでの習慣を急に止めることが出来ず、公然とあるいは秘かに、飲酒に耽る者があったと思われます。そこで勢いその処罰が非常に重いものとなったのでしょう。

そんな古代、未だ日本に正統な戒律の伝来がなされていなかった時代にあって、唐にて十七年の長きに渡って仏教を修学し帰国した当代きっての学徳高い人、道慈どうじ という僧があります。古代日本史をかじった人であればその名を聞いたことがあると思いますが、現在の僧職の人も知る人は極少ない、宗派で言えば今は亡き三論宗に属した僧で、大伴旅人とほぼ同世代の人です。

かなり気骨のある人であったようで、当時の仏教僧らのあり方や頽廃を嘆き批判した『愚志』という書を著していたことが、『続日本紀しょくにほんぎ』に記されたその卒伝〈高位の貴族や高僧の死去を機に記載された伝記〉から知られています。

そんな道慈が遺した漢詩で、時の権力者であった長屋王ながやおうからの酒宴の誘いを断るものが、現存する日本最古の漢詩集『懐風藻かいふうそう』に収録されています。

緇素杳然別 金漆諒難同 衲衣蔽寒體 綴鉢足飢嚨
結蘿為垂幕 枕石臥巖中 抽身離俗累 滌心守真空
策杖登峻嶺 披襟稟和風 桃花雪冷冷 竹溪山沖沖
驚春柳雖變 餘寒在單躬 僧既方外士 何煩入宴宮
〈出家。玄人〉〈在家。素人〉杳然ようねん〈遠く隔てられた様〉として別れており、
金とうるしとをまことに同じくすることなど出来ない。
(僧は)衲衣のうえ〈粗末な布を紡ぎ合わせた衣。袈裟衣〉で寒さを凌ぎ、
綴鉢てっぱつ〈幾度も修繕した鉄鉢。ここでは乞食の意〉で飢えに充て、
かずら〈つたかずら〉を結んで垂幕すいまく〈垂れ幕。ここでは壁の意〉とし、
石を枕にして岩窟の中に臥す。
その身を脱して俗世間から離れ、心を浄めて真空〈仏教〉を守り、
杖を突いて峻険なる山嶺に登り、襟をひら いて和風〈穏やかな風〉を受ける。
桃花の雪〈春の幸〉冷冷りょうりょうとして、竹溪の山、沖沖じゅうじゅう〈何もなく深々とした様〉たり。
春の訪れに驚いた柳は芽吹きだしたけれども、いまだ残る寒さが身に染みる。
僧はすでに方外〈脱俗〉の士である、どうして煩わしく宴宮に入ることがあろうか。

釈道慈「五言初春在竹溪山寺於長王宅宴追致辭」『懐風藻』第百四詩

道慈の素養を存分に伝える詩です。

現代的感覚からすれば、酒宴の招きを断るためにずいぶん仰々しい漢詩を書いたものだ、と思われるかもしれません。そもそも今、漢詩を詠み得る人などほとんど無く、和歌であれ俳句であれ現代詩であれ、詩というもの自体、咏んだことすら無いでしょう。しかし、当時の知識人にはこれが当然のことでした。

しかし、道慈のおもむきは最後の「僧既方外士 何煩入宴宮(僧は既に方外の士、何ぞ煩はしく宴宮に入らむ)」に尽きており、権力者に対してまったく媚びることなく、酒宴への参加を率直に断っています。先に示したように僧の飲酒は俗法でも禁じられていましたが、道慈は酒宴の席に着くこと自体を拒否したのでした。

僧であっても今時分のそこらの俗士庸流はこうはいかない。むしろ「へへぇ、これは勿体ないことで。喜んで参上仕ります」と、こう言うと時代がずいぶん異なってしまいますが、のこのこ出かけてへつらいつつ酒をススるに違いありません。

もっとも、そんな道慈を時の人々はうとましくも思ったようで、同じく『懐風藻』に載せる「道慈伝」には、彼に対するこのような所感が記されています。

養老二年。歸來本國。帝嘉之。拜僧綱律師。性甚骨鯁。為時不容。
養老二年〈718〉、(道慈が)本国〈日本〉に帰来した。帝〈元正天皇〉はこれを喜ばれ、僧綱そうごう〈僧尼および寺院を所管する国家機関〉の律師〈官位。当時は定員一人、僧綱の序列は第四位〉に任命した。(しかし、道慈の)性分しょうぶんは甚だ骨鯁こっこう〈意志強固で不屈であること〉であって、その時代に(仏教者として正しくあるべきという主張が)受け入れられることはなかった。

『懐風藻』「道慈伝」

『懐風藻』にわざわざ伝記付きでその歌を載せられているのは、道慈が「性甚骨鯁。為時不容」と評されたとはいえ、その態度が仏教者として正しかったと編者により高く評価されていたからこそのことでありましょう。

酒に限らず、これと似たような話は今もちらほら聞くことがあります。実に人の世というものはいつも変わらないものです。