又彼比丘。知業果報。復觀叫喚之大地獄。復有何處。彼見聞知喚大地獄。復有異處。名髮火流。是彼地獄第三別處。衆生何業生於彼處。彼見有人殺生偸盜邪行飮酒樂行多作。彼人則墮叫喚地獄髮火流處。殺盜邪行業及果報。如前所説。何者飮酒。於優婆塞五戒人邊。説酒功徳。作如是言。酒亦是戒。令其飮酒。彼人以是惡業因縁。身壞命終。墮於惡處叫喚地獄髮火流處。受大苦惱。所謂雨火。彼地獄人常被燒煮。炎燃頭髮。乃至脚足。有熱鐵狗。噉食其足。炎嘴鐵鷲。破其髑髏而飮其腦。熱鐵野干食其身中。如是常燒。如是常食。彼人自作不善惡業。悲苦號哭。説偈傷恨。向閻羅人。而作是言
汝何無悲心 復何不寂靜 我是悲心器 於我何無悲
閻魔羅人。答罪人曰
汝爲癡所覆 自作多惡業 今受極重苦 非我造此因
癡人不學戒 作集多惡業 既有多惡業 今得如是果
是汝之所作 非是我因縁 若人作惡業 彼業則是因
已爲愛羂誑 作惡不善業 今受惡業報 何故瞋恨我
不作不受殃 非謂惡無因 若人意作惡 彼人則自受
莫喜樂飮酒 酒爲毒中毒 常喜樂飮酒 能殺害善法
若常樂飮酒 彼人非正意 意動法叵得 故應常捨酒
酒爲失中失 是智者所説 如是莫樂酒 自失令他失
常喜樂飮酒 得不愛惡法 如是得言惡 故應捨飮酒
財盡人中鄙 第一懈怠本 飮酒則有過 如是應捨酒
酒能熾燃欲 瞋心亦如是 癡亦因酒盛 是故應捨酒
その比丘〈修禅によって業報を観察している比丘〉が業の果報を知り、また 叫喚 大地獄の様子を観察していると、(他とは様子が違った場所があり)何の処であろうかと彼が見聞して知ったところでは、叫喚大地獄にはまた異なる処があって、「 髪火流処 」というその地獄の第三の別処であった。ここにある者たちはいかなる業によってここに生まれたのかと彼が見ていると、一人の男があって彼は殺生・偸盜・邪行・飲酒を楽しみ、その行い多く積み重ね、叫喚地獄の髪火流処に墮ちていたのであった。
殺生・偸盗・邪行の業およびその果報は、先に説いたところに同じであるが、飲酒についてはどうであったろう。優婆塞 〈upāsaka. 在家男性信者〉である五戒を護持する人に対し、酒の功徳を説いて「酒を飲むこともまた戒である」などと言い、酒を飲ませていたのである。その者は、その悪業の因縁によって、身体が壊れ生命が終ると悪処である叫喚地獄の髪火流処に墮ち、大苦悩を受けているのである。いわゆる火の雨によって、その地獄人〈地獄に生まれ変わった人〉は、常に焼き煮られて頭髪および脚足は燃え盛っていた。そして、熱鉄の犬が彼の足を喰い、炎の嘴を持つ鉄の鷲は彼の 髑髏を割ってその脳みそを飲み、熱鉄の野干は彼の内蔵を食らうのであった。(その者は)そのように常に燒かれ、そのように常に食われるのある。
その者は、自ら不善の悪業をなしてきたが、泣き叫んで偈をもって悲しみ恨み、閻羅人〈Yama / Yama-rāja. 閻魔。地獄の王。印度神話で人類最初の死者とされる〉に向かってこのように言った。
汝には悲心〈karuṇā. 不害の思い〉が無いのか。またどうして寂靜〈平穏〉でないのか。
私は悲心の器〈悲行の対象〉であるのに、私に対してどうして悲が無いのか。
そこで閻魔羅人は罪人に(同じく偈をもって)答えて言った。
汝は癡〈愚かさ。無知・愚痴〉に覆われ、自ら多くの悪業をなしてきた。
今、極めて重い苦しみを受けるのも、私がその因を作ったのではない。
(汝)癡人〈愚か者〉は戒を学ばず、多くの悪業をなし続け、
それらなされた多くの悪業により、今(苦しみの)果報を得たのだ。
それは汝のなしたものであって、私の因縁ではない。
もし人が悪業をなしたならば、その業はすなわち因となる。
渇愛という羂に誑され、悪不善の業をなし、
今その悪業の報いを受けているのに、何故私を瞋り恨むのか。
なさなければ殃 を受けることはない。悪が因とならぬことは無く、
もし人が心で悪をなしても、その人はたちまちその報いを自ら受ける。
飲酒を喜び楽しむことなかれ。酒は毒の中の毒である。
常に飲酒を喜び楽しむならば、善法〈十善業〉を損害するであろう。
もし常に飲酒を楽しんだならば、その人は正気でいられず、
心が揺動して法〈真理。悟り〉を得ることは出来ない。故にまさに酒を捨てよ。
酒を過失の中の過失とするのは、智者の説くところである。
そのようなことから酒を楽しむことなかれ。自らを損ない他を損なうからである。
常に飲酒を喜び楽しむならば、不愛〈嫌悪・不名誉〉の悪法を得るであろう。
そのようなことを悪と言う。故にまさに飲酒を捨てよ。
財が盡き、人々から卑しまれ、第一の懈怠〈怠惰〉の原因となるなど、
飲酒には過失がある。そのようなことからまさに酒を捨てよ。
酒はよく熾んに欲を燃やし、瞋りの心をもまた同様にさせる。
癡もまた酒に因って盛んとなれば、その故にまさに酒を捨てよ。
瞿曇般若流支訳『正法念処経』巻七 地獄品之三(T17, p.41a)
『正法念処経』とは、智昇『開元釈教録 』〈開元十八年(730)に編纂されて以来、最も信頼され用いられてきた経律論など仏典の目録〉に拠れば興和元年〈539〉、 鄴城〈現在の河北省邯鄲市臨漳県辺にあった城塞都市。東魏の都〉にて般若流支 の手によって訳されたものといい、全七十巻という比較的大部の経典です。その内容から、支那では伝統的に小乗に属すとされた経典で、日本では中世以来、上座部系の正量部に帰されていますが、現代の文献学者は説一切有部との関係が深い典籍ではないかと見なすことが多いようです。
その内容とは、王舎城に釈尊と舎利弗尊者および衆多の比丘たちが滞在していた時、いまだ出家して間もない比丘たちのみで行乞していた折に出遭ったとある外道からの、「我が思想と釈尊の所説とは同じに思われるが一体どこが異なり、どのように勝れているのか」と問いに全く答えられなかったことが契機となって、釈尊から新比丘たちにその要が説かれていく、というほどのものです。
まず 十善業道 および十不善が説かれ、その詳細が至極丁寧に明らかにされていきます。十不善とはいかなることか、そしてそれらの行為の果報、業果として地獄・餓鬼・畜生・人・天のいずれか五趣に生じることが説かれ、次に比丘としていかに修行すべきかが示されています。その後、これが『正法念処経』の大部分となる六十巻余りを占めるのですが、地獄・餓鬼・畜生・天の様相が極めて克明に描き出されていきます。
そのような五趣輪廻の様相が示されるのは、冒頭に説いた十善業道あるいは十悪の業果を、より詳細せんとしてなされたものです。そしてその最後に、いわゆる四念処(四念住)のうちただ身念処について、むしろ仏教の世界観を示すことに重点がおかれて説かれ、経が終わっています。
したがって、経題として『正法念処経』とあるものの、その主題はむしろ業の果報であり、その具体的な結果としての五趣のうち人を除いた四趣の様相であって、いわゆる四念処が説かれた経とは言い難いものです。
さて、そのような『正法念処経』は、地獄や餓鬼など悪趣の様相が説かれること極めて詳細であることから、特に日本の古代末の平安中期以降に注目されています。その後の浄土信仰の高まっていく大きな契機となった、源信『往生要集』の冒頭「 厭離穢土」において、地獄の様を伝える典拠となったのです。源信以降も、法然や親鸞など浄土教徒らが本経にしばしば言及していることから、『正法念処経』はむしろ浄土の門徒らによく知られた経となっています。
『正法念処経』はしかし、そのような五趣の様が克明に描かれていることにおいてのみ今も注目されるのですが、冒頭説かれる十善および十悪について詳説される箇所だけでも学ぶべきことの多い、実に有益なものです。
そのような『正法念処経』では、飲酒を自ら習慣的に楽しみ、また人に飲ませ、あるいは仏教者・修行者に与えて飲ませてきた者が死後、その業果として「叫喚地獄」に生まれ変わるとされています。冒頭示した散文の箇所で描かれているのはその極一部に過ぎません。それは、 九次第定 を極めた、すなわち阿羅漢果を得た比丘が、諸々の業の果報としての五趣の様子をその修禅の中で詳細に観察したことにより知られたものである、というのが本経の所説です。
五戒もしくは十悪を多く犯した者の死後の果報は、実に恐ろしい責め苦にあえぎ続ける諸々の地獄に堕ちることとされるのですが、その様子は確かに残酷で生々しいものです。それは一昔前に寺や門前の市などで子供相手に売られていた地獄についての本の挿絵や、昔盛んに描かれて今や国宝となっているものまである諸々の「地獄絵図」の、まさにその原典です。
ここでしかし、そのような数々の飲酒の過失を犯してきた者が堕する地獄の様相は、もちろん『正法念処経』の主題の一部ではあるのですが、飲酒の過失に関して本質ではない。『正法念処経』における「なぜ酒を飲んではいけないのか」の理由は、地獄の責め苦を受け泣き叫ぶ者が「お前には悲心が無いのか」と閻魔を責める言葉に対する、閻魔の応答として説かれる偈文の中にあります。
その一節「自失令他失」は、まさにそれを端的に表したものとなっています。すなわち「自らを損ない他を損なうから」です。具体的には、心が揺動して真理(悟り)に達し得ず、財を失い、人から卑しまれ、怠惰の元となるなど善法を損害し、むしろ欲と怒りと愚かさを強めることがその理由として挙げられています。それらは前項にて示したDhammapada や『長阿含経』などにある理由と全く同じです。
やはり結局、酒を飲むのは「自分のためにならない」というに尽きます。
「地獄?子供だましの絵空事にすぎない。前時代には多少の脅しとして効果もあったかもしれないが、もはや時代錯誤。そのようなことを現代言うのは、むしろ不信を生んで逆効果であろう」などという、言わんとすることは充分わかりますが、野暮を言ってはいけない。業果、行いには全て結果が伴うこと、自業自得は実に真理です。地獄の様相がどうのということを置いても、これは現代の人であろうが全く真剣に考えたが良いことです。
話は少々変わりますが、人を酔わせるのは酒や麻薬だけに限りません。
「今まで順風満帆、少々の困難はあったけれども、人生おおよそ上手くことが運んでいる。自業自得だの業果だのいうのであれば、これもまさに自業自得であろう。これは私の努力と生来の徳の賜物であって、我が世の春」と浮かれ、ある種の万能感、優越感に浸っている者は気をつけなければならない。それは酒に酔っているのも同じです。
実際その手の人には高い酒を好み、それを自ら飲めること自体にも酔って二重に陶酔しているようなのがありますが、業の果報とは実に恐ろしいもので、まさかという時、その報いは突如としてやってくる。そしてそれまで薔薇色に見えたその人の世界は一変してしまう。いや、世界が変わったのではなく、自分が現実に引き戻される。
「好事魔多し」と巷間言われますが、好事に魔が潜んでいるのではない。
好事、すなわち何事か喜ばしいことが生じて「人生は上々だ」と感じているその時、人はその事自体に酔い、また自身に酔って浮ついてしまう。そこで失念すなわち 現 を抜かしたことによって、あるいは傲慢となって邪なことをそれとなく積み重ね、むしろ自らその果報を招き起こすことになる。それは誰か他者に足をすくわれるのでなく、自らその足元を掘り崩して堕ちたに過ぎない。実にDhammapadaの言葉は真理です。
ここにおいて魔とは外にある悪魔だの天魔だのでなく、実は自らの内にある不注意や愚かさ、そしてそれに基づく奔放な自らの振る舞いです。「勝って兜の緒を締めよ」とは、それを繰り返してその危ういこと身にしみた昔の人々の箴言でありましょう。しかし、多くの場合、人はその時が来るまで気づくことはなく、いや、来たとしてもわからず「この世に神も仏も無い」などと泣きわめくばかりという者もある。
そもそも我々の人生とは、まさに薄氷の上を歩んでいるようなものです。常に我が身の行いを修め、よく気をつけていなければたちまちその足元は割れ崩れ、一時前までの無上の幸福はそのまま文字通り地獄の苦しみに変わってしまう。そのようなごく不安定な世界において我が一生涯を歩むのに、酒をことさら好んでさらに酔い、その危うさをうたた増す必要は無い、と言うのが他の仏典と同様、『正法念処経』の所説です
Bhikkhu Ñāṇajoti(沙門覺應)