VIVEKAsite, For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

不飲酒 ―なぜ酒を飲んではいけないのか

日本仏教界と酒

般若湯、…般若とは

日本仏教界では、僧侶であれば厳に禁じられているはずの飲酒を、あるいは般若湯はんにゃとうなどという隠語を用いて暗に、いや、もはや公然としてきた歴史があります。酒は般若すなわち智慧を、人にもたらす湯だというのです。厳密には般若湯とは日本酒を意味するため、面白いもので、近年はビールを 麦般若むぎはんにゃと名づけるなど、少しひねった称が用いられてもいます。

古来、なんだかんだと理由を付けて、どうにか飲酒を「仏教的に」正当化しようとする仏教徒は跡を絶ちません。いや、日本のあらゆる集まりがほとんどそうであるように、いわゆる坊さんの集まりにおいてもまた酒は必須となっています。酒が出ない坊さんの集まりなど、まず考えられない。得度式や授戒式などのあとで乾杯。法事のあとで乾杯、葬式のあとで乾杯、晋山式のあとで乾杯、就任式のあとで乾杯などなど。

今まで見聞きした中で一番醜悪であったのは、これは彼の地に随行した当時の友人から聞いた話ですけれども、某宗派の総本山が相当なる人数の御一行を組織し、「戦場にかける橋」で有名なタイのクワイ川にて、戦没者および犠牲者の慰霊法要と称して出っ張っていた時のことです。

彼らの大半はもちろん日本の坊さんであり、しかし現地までは現代における普通の中高年によく見られるだらしない格好で行き、ただ法要する場の一時だけ坊さんの格好に着替える段取りとなっています。しかし、彼等にそんな積りはなく一端の坊さんでいるつもりでいるのでしょうけれども、その行為自体がまさにコスプレ。いわば坊さんゴッコに他ならず、ましてや現地タイの人々からならば甚だ白い目で見られる行為(というより現地僧侶ならば犯罪)です。

なにより最悪であるのが、わざわざ坊さんの格好をした上でそれぞれ手にグラス・ビールを持ち、「大戦中に亡くなられた諸霊の供養のために」などと言いつつ「では皆さん、タイまでわざわざご苦労さまです。けんぱ~い!」とゴクゴク飲んでいたこと。そしてその坊さんたちが「おい、こっちビール追加!」などとぞんざいな大声で、しかも日本語で現地の人々に指示していたことです。その給餌をしているのはもちろんタイの人々ですが、その彼らが日本の坊さんらを見る目は、もはや軽蔑を通り越したものであり、随行した友人はあまりの恥ずかしさに煙のように消えて無くなってしまいたかった、とのことでした。

聞いているだけでこちらも恥ずかしくなることではありますが、それと極似たようなことは不佞も国内外あちこちで目にしたことがあり、それは日本仏教界の現状をよく知る者からすればたちまち想起できる光景と言えます。戦後の昭和、高度経済成長期からバブル期にかけて世界中あちこちで非常な悪名をはせた「ノウキョウ(農協)の団体旅行」と、昭和・平成・令和における「坊さんの団体」との振る舞いに大きな違いはない。けれども、それを行っている当人らは実にケロッとしたものであり、その何が問題なのかわかろうはずもありません。

しかし、そんな彼らに「お坊さんってお酒飲んで良いんですか?」などと素朴で率直な疑問を投げかけようものならさあ大変。たちまちムッとして機嫌を損ねた顔を示し、「失礼なことを言うな!」(?)と怒りの言葉を吐き出すか、あるいは一知半解いっちはんげ の「仏教学における文献学上の成果」を素人相手に持ち出して論点を大いに反らしはぐらかした弁明を長々述べ出すか、または全く無視されることになる。いずれにせよ、まさにそのような「浅ましい」のが現今の僧職者らのごく一般的反応です。

慰霊旅行の名目で公然と海外に出た、寺嫁など家族や檀家・信者からの目を全く気にせず「遊べる」彼らの現地における夜の行いが、ここで言うもはばかれるものであったことは、容易く想像し得るでしょう。

坊さんと酒

酒は坊さんのたしなみであり、飲まなければダメ、飲まない奴はダメなどという認識は、昭和や平成の昔ほどひどくはないにしろ、今なお日本仏教界通じて強く残っています。

その様な坊さんの集まりにおいて、「どうだ一杯」とすすめられた折、「わたくし、宗教上の理由で酒は一切飲みませんので」などと、少しばかりひねって断ってみるのもいいでしょう。日本では「健康上の理由」はままあるとして、「宗教上の理由」をたてに酒を断る人はまずいませんから、これをあえて口にするのも面白いものです。しかし、たいていの場合、相手はキョトンとして呆けた表情を返してくるのみで、その意味が通じることは多くありません。

けれども、「いや、私は仏教徒ですから」などと断ろうものなら、こうしたことには実に敏感なもので、そこに含まれる批判の意をただちに嗅ぎ取り、「何ぃ!? おい、貴様ァ、不飲酒とか言うの守ってんのか?不愉快だ。やめろ、そんなもんここで今すぐ破れ!」などと恫喝どうかつ されてしまう場合があります。いや、場合があるのではなく、実際そうした事例があった。したがって、気が弱く肝が小さい人には、これが一番面白く楽しめる断りの仕方であるのですけれども、この方法はおすすめできません。

また、恫喝されないまでも、「ほぉ、私の酒が飲めない?ふぅん、ずいぶんとお偉いことですなぁ」などとねっとりネチネチ皮肉を言われることもあるでしょう。あるいは、「青臭いことをいっちゃいかん。檀家さんはな、ボンサンと一緒になって酒を酌み交わすことが、亡き人の供養になると思っとる。わしらが酒をこうして飲むことで、彼等のご先祖さんは報われる。なにより檀家さんも喜ぶ。酒も菩薩の方便なのじゃ」などと、だらしなく視点の定まらぬ赤ら顔から、仏教などどこ吹く風で世間にただ迎合することを良しとする説教を長々されることもあります。これは田舎の人によく見られる言です。

仏教が酒を戒めている事自体が気にくわない坊さん、飲酒を仏教的になんとか正当化したい坊さんなどは、「酒自体が悪いわけではない。過ぎた酒によって、好ましくない事態が引き起こされることが悪いのである。つまり、適度な酒ならば問題ないのだ。世間でも酒は百薬の長と言われている。一滴も飲まないというのも、飲み過ぎるというのもいけない。お釈迦様の調弦の喩えがあるだろう。何事も適度に」と言うと相場が決まっています。あるいは、「お釈迦様は中道、ということを言われたように思う。一滴も飲まないのも極端。飲み過ぎるのも極端。楽しく飲むのが真ん中の道だ」という趣旨の言葉が放たれる事もあるでしょう。

小賢しい者がよく口にする語としては、「飲酒戒は、酷暑の地インドで制定されたもの。インドで酒に酔えば、その暑さから意識ももうろうとし、下手をすると命にも関わろうが、支那・日本などは寒暖ゆるやかな地。いや、厳しい寒さに耐えねばならない土地もある。そこではむしろ酒が寒さに対して大いに役立つ薬ともなる。それぞれ気候風土が異なれば、酒の効用も異なり、よって彼の地の規制をこの地に当てはめるのは不合理」などと言ったものがあり、大体がこれをしたり顔で主張しています。

また、仏教者であるならば第一に拠るべきはずの仏典の所説はすべて無視し、ただ自身が所属あるいは信仰する宗派の「お祖師さま」の、酒に関する寛容な発言や故事を引き合いに出して、飲酒を正当化しようとする人は実に多くあります。それにかこつけて「多少なら酒を飲むほうが良い」と言い、しまいには「人間だもの」などと開きなおるのです。

何依佛法乍出家不從佛誡哉勸誡時至持戒那倦苦輪責項不可不厄無常當額莫放逸眠
一体どうして仏法に依って出家しておきながら、仏の教誡に従わないのであろう。勧誡〈善を勧めて、悪を制すること〉、まさに今こそなすべき時である。持戒するのに、どうして思いあぐねることがあろうか。苦輪〈生死輪廻という際限なき苦の循環〉うなじ〈人の急所。切迫していることの譬え〉を責め続けている。これを厭わずあってはならない。無常はひたい〈項に同じく、切迫していることの譬え〉に当たっている。放逸に眠ることなかれ。

栄西『出家大綱』第一 二衣法

酒好きで「ほどほどの量」を知る人などおそらくありません。酒が人の精神を朦朧とさせ身体に変調をきたさせる量は、人の体質や体重、そして体調によってかなり変わると思いますが、その故に適量など誰もわからないのです。いや、そもそも適量などというもの概念自体が極めてあやふやで、そんなものは最初から無いようにすら思われる。…いや、無い。飲まなくても良い、飲まないほうが良いものに適量もヘッタクレもない。

酒に限らず、一つ許せば二つ許せ三つ許せと求め、「たまには良いだろう、今日くらい良いだろう、明日で終わりにしよう」などと、結局際限が無くなっていくのは、いつの世も変わらぬ人の性というもの。

また、仏典を直接まともに読んだならばただちに理解できることであり、実際に北インドや東南アジアに長く滞在し生活すればわかることですが、仏教が酒を戒めることにインドだから、チベットだから、東南アジアだからなどという、気候・風土・土地の違いなど全く関係無い。飲酒について気候風土を持ち出す者のそれは、現地のことも仏典のことも知らない一知半解いっちはんげの説であって、どこまでも牽強付会けんきょうふかいに過ぎません。

画像;日本仏教における仏の正体

そもそも、誰がどう言ってみたところで、仏教が酒を戒め、また僧に対しては具体的に禁じていることが動くことはありません。彼らが人前でよく口にする「我々ボーサンはホトケに仕える身」であるとか「僧侶として日々、ほとけ様にお仕えしております」などといった、世間向けの陳腐な宣伝文句における「ホトケ」だとか「ほとけ様」とは、釈尊などの仏陀とは全く別の、物の怪か何かのたぐいであるのでしょう。

仮にこのような拙文を披露している不肖が実は無類の酒好きであったとしても、あるいは人は弱く、そして酒はあまりにウマく、魅惑的だとしても、いかに世間で酒文化などというものが形成されていようとも、いくら日本の社交の場において酒が必須のものであったとしても、仏教の見方として酒は害毒であるとされていることに変わりはありません。