VIVEKAsite, For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

不飲酒 ―なぜ酒を飲んではいけないのか

Dhammapada(『ダンマパダ』)

Yo pāṇamatipāteti, musāvādañca bhāsati.
Loke adinnamādiyati, paradārañca gacchati.
Surāmerayapānañca, yo naro anuyuñjati.
Idhevameso lokasmiṃ, mūlaṃ khaṇ ati attano.
evaṃ bho purisa jānāhi, pāpadhammā asaññatā.
mā taṃ lobho adhammo ca, ciraṃ dukkhāya randhayuṃ.
世間において、(生物の)生命を奪い、偽りを語り、与えられていないものを取り、他人の妻のところに行き〈不倫、姦通すること〉、穀物酒〈surā〉・果実酒〈meraya〉を飲む者は、この世において自分の足元〈mūla. 根本〉を掘り崩す人である。
おお、人よ、このように知れ。諸々の悪しき法〈pāpadhammā〉とは、自制無きことである。貪り〈lobha〉と非法〈adhamma. 正しくない行為〉とが(汝を)長く苦しませぬように。

Dhammapada, Malavagga 246-248 (KN 2.18)

Dhammapadaとは

Dhammapadaダンマパダ(以下『ダンマパダ』)とは、前項のSuttanipātaスッタニパータ (以下『スッタニパータ』)と同様、分別説部ふんべつせつぶがパーリ語によって伝持してきた「パーリ三蔵」の中に含まれた経典の一つです。

『ダンマパダ』もまた『スッタニパータ』と同様、「パーリ三蔵」の五部ニカーヤのうちKhuddaka Nikāyaクッダカ・ニカーヤ(小部)に脩められ、その全十五章(シャムおよびセイロンにおける伝承)あるいは全十八章(ビルマにおける伝承)のうち第二章として収録された経です。

DhammapadaのDhammaダンマは、真理・事物・思想・教え・道徳・法律など多義にわたる語ですがここでは真理の意であり、padaパダもまた足・足跡・言葉・場所・理由・原因など多義ですがここでは言葉の意です。したがってDhammapadaとは、現代日本語では「真理の言葉」を意味した題目です。

『ダンマパダ』が『スッタニパータ』と異なる点は、『スッタニパータ』が往古の支那・日本の仏教にはほとんど全く知られなかったのとは異なり、その類本がいくつか支那にもたらされ漢訳されていたことです。その漢訳されたものとは、維祇難等によって訳された『法句経』二巻および法炬・法立共訳の『法句譬喩経』四巻です。『法句経』は『ダンマパダ』と対応する偈頌も存在するものの、その全てが一致するわけではなく、またその順序など構成も著しく異なっています。『法句譬喩経』は『法句経』における短い偈頌として説かれたものに、様々な譬喩や因縁譚など説話をもってその意味を説き明かしているもので、『ダンマパダ』に対しても同位置の典籍が存在しています。

漢訳経典の中、たとえば『長阿含経』や『雑阿含経』などの阿含経典や『大般涅槃経』および『四分律』などにて『法句経』が言及されていることからすると、往古は最大十八部にまで分裂展開していた部派それぞれが、なんらかの形で『ダンマパダ』の類本を伝えていたのでしょう。また、サンスクリットで書かれた Udānavargaウダーナヴァルガ と称される仏典が、『ダンマパダ』の同類別系統のものであると現在判明しており、天息災訳『法集要頌経』および竺仏念訳『出曜経』がその類本の漢訳であるとされます。

『ダンマパダ』も『スッタニパータ』と同様、日本や西洋諸国には近現代において広く知られるようになったものではありますが、より簡潔で「真理の言葉」の題目にふさわしい詩偈に満ちたものであることから、今や『スッタニパータ』以上に世界中で最も広く読まれている仏典となっています。

前述のように、『ダンマパダ』にはその類本の漢訳『法句経』などがあって古来読まれてきたものであるとは言え、やはり漢訳にはその修辞の問題から抽象的でわかりにくい点があるのは否めません。それに比べ、インド語より直接現代の日本語に訳された『ダンマパダ』は、今の人の心に直接響くものとなっており、また逆に『ダンマパダ』を読むことによって『法句経』の真意を解することが出来るようにもなっています。

実際、現代これから仏教を学ばんとする初学の人にまず初めに読むべき仏典として勧めるならば、それはまさか『法華経』や『華厳経』あるいは『維摩経』や『般若経』・『阿弥陀経』など日本で古来親しまれてきた大乗の経典では決してなく、この『ダンマパダ』こそ最も好適であって他は考えられない、と断じて間違いない書です。

『ダンマパダ』の説く「なぜ酒を飲んではいけないのか」

『ダンマパダ』において不飲酒が説かれるのは、その第18章Malavaggaマラ・ヴァッガ (魔羅品)にある第246から248偈の三偈です。

『スッタニパータ』では、在家信者としての「つとめ」として五戒が説かれていましたが、『ダンマパダ』ではそのような「つとめ」としではなく、五戒として制すべきとされる五つの行為が、他を苦しめるだけでなく、ついには自分の不利益にしかならないこととして説かれています。

生命あるものを故意に殺傷すること(殺生)。嘘をつくこと。与えられていない物を故意に我が物とすること(偸盗)。他人の妻、これは妻といって何も女性に限ったことではなく、女性に対しては他の夫など他人の配偶者あるいは恋人のことですけれども、要するに不倫や浮気など性交渉をしてはならないこと(邪淫)。そして、なんであれ酒類を飲むこと(飲酒)。このうち前の四つは直接的に他を傷つけ害するものですけれども、その最後の飲酒はそうではありません。

しかしながら、これは本稿の最初において言及した遮戒と性戒に関連したことですが、飲酒によって自ら酔った結果、その他四つの行為を全て、あるいはその一つでもなすことに繋がる可能性があって間接的に自他を害すものであることから、飲酒から離れるべきであるとされます。

それがまさに『ダンマパダ』における「なぜ酒を飲んではいけないか」の理由となっています。

実際、『ダンマパダ』には、5世紀頃のインド僧でセイロンに渡って活躍した、分別説部における最も著名な大学僧 Buddhaghosaブッダゴーサによる注釈書Dhammapada-aṭṭhakathāダンマパダ・アッタカター(以下、『ダンマパダ・アッタカター』)があって、前述の漢訳『法句譬喩経』に比せられる書です。『ダンマパダ・アッタカター』では、『ダンマパダ』の偈文それぞれに対し寓話が付されて誰でもよりわかりやすいようされているのですが、そこで同様に説かれています。それら五つの行為は直接的間接的に自他を害し苦しませるものである、と。

それは後の項で示す、 説一切有部せついっさいうぶの論書『大毘婆沙論だいびばしゃろん 』においても同様に説かれており、五戒における遮戒と性戒の関係といった同じ視点で、より詳しい解説がなされています。

さて、『ダンマパダ』におけるこれら一連の偈頌の最後には、「pāpadhammāパーパダンマー asaññatāアサンニャター」すなわち「諸々の悪しき法とは、自制無きことである」あるいは「自制無きことは、悪法である」とあります。自らの身体と言葉でなす行為について、過ちのないようによく気をつけ、自制すること。それは仏教における戒(sīlaシーラ)を実現するための学処がくしょsikkhāpadaシッカーパダ)の原意に他ならないのですが、自制するその原因・動機は「仏陀との契約であるから」でも「おブッダ様のお言いつけ、お言葉であるから」でも決してなく、「自他を苦しめることになるから」であり、それは畢竟「自分のためにならないから」に他なりません。

飲酒というものに対する見方はその国の歴史や思想・宗教など文化的・社会的背景によって大きく異なり、また時代によって変化するものしょう。しかし、『ダンマパダ』や『スッタニパータ』などの仏教の最初期を伝える仏典において、このように飲酒などについて端的に説かれていることを自身がどう捉えるか。自ら仏教徒であると考える人にとって、それは大きな意味をもつものとなる筈です。

Bhikkhu Ñāṇajoti(沙門覺應)