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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

不飲酒 ―なぜ酒を飲んではいけないのか

仏道と酒

酒は百薬の長?いや、百毒の長

世間の酒好きの間では「酒は百薬の長」という言葉がよく用いられ、酒はむしろ健康に良いものだとする人があります。この言葉は紀元前の古代中国、前漢の歴史を記した『漢書』に由来するものです。

夫鹽食肴之將。酒百薬之長。嘉會之好。鐵田農之本。名山大澤。饒衍之臧。
そもそも塩は食肴しょっこうの将〈最も重要な欠かせないもの〉、酒は百薬の長であって、嘉会かかい〈祝いの席〉の好〈好まれるもの〉である。鉄は田農〈農耕〉の本、名山・大沢〈大きな湖沼〉饒衍じょうえん〈多大で余りあること〉の蔵である。

『漢書』「食貨志」下

この言葉は前漢の皇帝王莽おうもう が、 六斡りくあつ という、塩・酒・鉄の専売、鋳銭と銅の採掘、山および河川湖沼管理の独占、そして金融統制の六種についての専権政策を下したものの、たちまち汚職が蔓延して民衆が疲弊したことにより、改めて汚職した者を厳罰に処すとした詔にあるものです。

六斡が行われる以前、ただ酒に関しては国家が管理していませんでした。そこで、今で言う農水大臣の 羲和ぎわであった魯匡ろこう が、「酒は社会で不可欠であるからこそ、昔のようにこれを国が独占すれば非常に儲かり、世間も安まる」などと進言。それを王莽が良しとして制定したのが、酒の製造販売を独占することを含めた六斡でした。しかし、国の政策や公共事業が贈収賄の温床であるのは今に始まったことでなく、すぐに汚職がはびこって潤ったのは中央・地方の役人ばかり。民は困窮したのですから仕様がありません。

日本の中世、吉田兼好よしだけんこうは当時から知られていた王莽の言葉を引きつつ、このように言います。

世には心得ぬ事の多きなり。ともあるごとには、まづ酒をすすめて、ひ飲ませたるをきょうとする事、如何いかなるゆゑとも心得ず。飲む人の顔、いと堪へがたげに眉をひそめ、人目をはかりて捨てんとし、逃げんとするを、捕へて、ひきとどめて、すずろに飲ませつれば、うるはしき人も、たちまちに狂人となりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事の病者びょうしゃとなりて、前後も知らず倒れ伏す。
祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。あくる日までかしらいたく、物食はず、によひふし、生を隔てたるやうにして、昨日の事覚えず、おおやけわたくしの大事を欠きて、煩ひとなる。人をしてかかる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にもそむけり。かく辛き目にあひたらん人、ねたく、口惜しと思はざらんや。人の国にかかる習ひあなりと、これらになき人事ひとごとにて伝へ聞きたらんは、あやしく不思議におぼえぬべし。
人のうへにて見るだに心憂し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひののしり、ことば多く、烏帽子ゆがみ、紐はづし、はぎ高くかかげて、用意なき気色けしき日来ひごろの人とも覚えず。女は額髪ひたいがみはれらかにかきやり、まばゆからず顔うちささげてうち笑ひ、盃持てる手に取りつき、よからぬ人は肴取りて口にさしあて、自らも食ひたる、さまあし。声の限りいだして、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召しいだされて、黒くきたなき身を肩抜ぎて、目もあてられずすぢりたるを、興じ見る人さへ、うとましく憎し。
あるは又、我が身いみじき事ども、かたはらいたく言ひきかせ、あるはひ泣きし、下ざまの人は、りあひ、いさかひて、あさましくおそろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、はては許さぬ物どもおし取りて、縁より落ち、馬・車より落ちて、あやまちしつ。物にも乗らぬきはは、大路おおじをよろぼひ行きて、築土ついじかどの下などに向きて、えもいはぬ事どもしちらし、年老い、袈裟かけたる法師の、小童の肩をおさへて、聞えぬ事ども言ひつつ、よろめきたる、いとかはゆし。
かゝる事をしても、この世も後の世も益あるべきわざならば、いかゞはせん、この世には過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百薬の長とはいへど、万の病は酒よりこそ起れ。うれえ忘るといへど、ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひでて泣くめる。後の世の人は、人の知恵をうしなひ、善根を焼くこと火のごとくして、悪を増し、よろずの戒を破りて、地獄におつべし。「酒を取りて人に飲ませたる人、五百生ごひゃくしょうが間、手なき者に生る」とこそ、仏は説き給ふなれ。
 世の中には理解できない事が多い。ちょっとした事があるたび、まず酒をすすめて、強いて飲ませるのを面白いとするのは、どうした理由あってのことか理解できない。飲む人の顔は、たいそう堪えがたそうに眉をひそめ、人目をうかがって(酒を)捨てようとし(酒宴の場から)逃げようとするのを捕まえ、引きとどめてむやみやたらに飲ませたならば、生真面目な人であっても、たちまちに狂人となって見苦しく、健康である人も、突如として大変な病人のようになり、前後もわからず倒れ伏すのだ。
 祝うべき日などは、見苦しいことになるに違いない。あくる日まで頭が痛く、物も食わず、うめいて横たわり、生を隔てた(前世のことの)ように昨日のことを覚えておらず、公私の大切な用事をすっぽかして(自他を)悩ます。人にこのような目を見させる事は、慈悲もなく、礼儀にもそむいている。
(酒によって)こうした辛い目にあった人は、恨めしく、(後悔して)口惜しいと思わないのであろうか。他所の国に(飲酒にまつわる)そのような習慣があるらしいと、当地にはない人事だとして伝え聞いたならば、(そのような酒にまつわる習慣を)あやしく不思議に思うに違いないであろう。
 (そのように酔った振る舞いを)他人事として見ることすら不快である。思いつめた様子で、心が優れたように見える人でも、分別なく笑って大声を出し、言葉は多く、烏帽子はゆがみ、(衣の)紐をはずして脛を高くかかげ、気配りの無い様は、日頃のその人とも思えない。女は額髪をさっぱりとかきやり、恥しげもなく顔をあおむけにして威勢よく笑い、盃を持った手に取り付き、良からぬ人は肴を取って(人の)口に押し当て、自らも食うのは、なんとひどい有様であろうか。声の限り大声を出して、おのおの歌い舞い、年老いた法師が召し出されて、黒く汚い身なのに肩を脱いで、目もあてられない有様で身をくねらせるのを、(たとえ本人は酔って醜態をさらしていなくとも)面白がって見ている人さえ、いとわしく憎たらしいものである。
 あるいはまた、自分がどれほど立派かということを、はたで聞いているのが恥ずかしくなるほど(他人に)言い聞かせ、あるいは酔って泣き出し、下賤の人が罵りあい争うことは、見苦しく恐ろしいものである。恥がましく、残念なことばかりであって、しまいには与えられていない物をすら勝手に取ったり、縁から落ちたり、馬・車から落ちたりして過ちをなすのだ。乗り物に乗らないような(身分の低い)者は、大路をよろよろ歩き、築土や門の下などに向かって、言うに言われぬようなことをやり散らかし、年寄りの袈裟をかけた法師が、小童の肩をおさえながら聞くに耐えない事などを言いつつよろめいているのは、とても見ていられたものではない。
 このような事をしても、(飲酒が)この世にも後の世にも利益ある行為であるならば、致し方ないことであろう。けれども、この世においては過ち多く、財産を失い、病を得る。「百薬の長」などと言うけれども、(世人の)多くの病は酒によってこそ起こっている。(酒を飲むことで)憂いを忘れるというが、酔った人は、(現在のばかりでなく)過去の憂いをも思い出して泣いているようだ。(酒を好む者が生まれ変わった)後の世にてその人は、人としての知恵を失い、善根(功徳)を焼くこと火のようであって悪を増し、あらゆる戒を破って、地獄に落ちるに違いない。(『梵網経』で)「酒を取って人に飲ませる人は、五百回生まれ変わり死に変わる間、手の無い者として生れる」とこそ、仏は説かれたということである。

吉田兼好『徒然草』第百七十五段 抜粋
(段落は編者による)

吉田兼好はこの後、しかし酒呑みに幾分でも興のあること、微笑ましい様子も見せる例をいくつか言って補足していますが、大半は以上のように酒を飲む人々のだらしなく、醜い様を言い連ねています。

画像:プロパガンダ

なお、王莽おうもう は、日本においても悪名まことに名高い皇帝で、『平家物語』にて支那における悪しき君臣の代表の一人として挙げられている人です。実際、王莽の悪政の数々により社会は混乱に陥り、ついには叛乱が起こって殺されています。

王莽による上記の言は、漢方など医術的な観点から言われたものなどでなく、ただ利潤を得るための政策に使われた言葉です。そのような、現代で言うならば「株式会社 電通」のような国にたかり、社会を煽り立てる大手広告代理店が用いそうな詮無い言葉に、今なお踊らされ続けるのは実に詰まらないことでありましょう。いや、人というのはそういう詰まらないことに容易く踊らされ続けてきたことの証でも、この言葉はある。

実際、政治家など為政者や、今ならばそれに加えて広告代理店やマスメディアも、「大衆は愚か」であることを充分承知の上で、舌先三寸「社会の人はそんなに愚かではない」などとで云いつつ、その実あれこれ恣意的に情報を発信し、愚かな人そして社会を実際に扇動しています。

もっとも、その昔のインドにおいても飲酒は様々な利益のあるものだ、と考えられていたようです。そこで、やはり仏教が不飲酒を説くことに対する疑問があって、以下のような問答がされています。

問曰。酒能破冷益身令心歡喜。何以不飮。答曰。益身甚少所損甚多。是故不應飮。譬如美飮其中雜毒。
問:酒はよく冷えた身体を温めて身体を益し、心に喜びをもたらすものだ。どのような理由から酒を飲まないというのか。
答:身体の益になることは甚だ少なく、害すること非常に多い。そのようなことから、決して飲んではならない。それは譬えば、美味い飲み物の中に毒が混じっているようなものである。

龍樹『大智度論』(T25, p.158b)

ここでは酒というものが身体に一定の効用のあることを認めつつ、しかし、むしろその害こそ多いことが、「なぜ酒を飲んではいけないのか」の理由として答えられています。『大智度論』は結局、酒の過失として三十五を挙げ連ねます。この一節については、本稿の『大智度論』の項にてその前後を含めて紹介し、詳説しています。

どうしても酒を飲みたい人々 ―捨ててこそ

「私は仏教徒だ。しかし、自分にとって、酒は大好きで止められない楽しみの一つであり、止めるつもりもない。けれども同時に、仏教を実践して、少しでも悟りの境涯に近づいていきたいとも思っている。その場合どうすれば?」と言う高齢の人があります。

結論から言うと、酒を断って悟りを目指すか、酒を飲んで悟りをあきらめるかの二者択一です。悟りの楽しみと酒の楽しみの両方を得ることは、決して出来ません。

「飲酒戒にしろ殺生戒にしろ妄語戒が仏様によって説かれていたとしても、人間は愚かで弱い。そんなことを言っても世間には通用しない。それに仏教は慈悲の教えというではないか。戒を守る守らないなどと言う話より、まず仏様のお導き、お救いを信じる事こそが大切」などといった、実に「夢のある」主張をする人もありますが論外です。仏教は幻想や浪漫ではありません。そのような幻想・妄想を断たんとするのが、仏教でありましょう。

在家であれば、どちらを選択するかはどこまでも個人の問題であり自由です。あくまでその天秤を握っているのは自分自身。どちらが大切か、どちらに価値があるかを、自分自身で選べば良いことです。ただし、酒を飲むことを自身が選んだとしても、「仏教的に飲酒は可である」などと諦めの悪いおためごかしを言うのは甚だ聞き苦しいことです。

もっとも、酒をやめただけで悟りに至るなどという事もまた、決してありはしません。それはそれまで取り続けてきた毒の害が身心から無くなるだけのこと、いわばマイナス状態がゼロになり悪しき事態が生じる可能性が大幅に減るということであって、毒を飲まないことで無病息災・完全無欠になるわけはない。

他に最低限離れるべきこととして、故意による殺生や窃盗、不倫・強姦・売買春、虚言などがあります。そのように(徳を身に備えるべく)戒めを保った生活を送った上で、正しく禅を修めることにより、自分で悟りを体得していかなくてはならない。

言うまでも無く、人は完全ではありません。したがって、いくら「もう二度としない」・「決してやらない」とどれだけ固く決意したところで、また同じことを繰り返したり、あやまちを犯してしまう事もあります。時として取り返しの付かないことすらしてしまうでしょう。しかし、それでも、そのたびに懺悔し決意して、少しずつそれらの行いから離れていけば良い。どこまでも自分の人生であって、それに死ぬまで付き合っていかなければならないのは、自分でしかないのですから。

仏陀によって示された悟りを、みずから求めるというのであれば、それまで自分が楽しみとしていたものを犠牲にしたり、習慣としていたものを捨てなければならなかったり、我慢しなければならなかったりと、最初は苦に思うことがたくさんあるかもしれません。しかし、戒を保ちつつ定を深めていく事により、「なぜ~してはならないのか」を理解し納得すれば、あるいは「なぜ私は~を欲して止まなかったのか」を理解出来るようになれば、「我慢してやめる」などという必要は無くなり、おのずからその行為から離れていく事でしょう。

不完全なモノが、いきなり究極の完全を目指して努力してみたがとても無理、だから努力などしても無駄だと、すべてを放り投げる人もあります。いきなり完全など無理です。ゆっくりでも、しかし決して諦めずに、少しずつ改善していけば良い。それが精進です。

これは飲酒に限って言えることではありませんが、捨てることによってむしろ逆に得られるものは大変大きく、安楽なものです。

Bhikkhu Ñāṇajoti(沙門覺應)