唐より空海によってもたらされた真言を修行することを欲する者は、まず須らく四種の心を起こさなければならない。それは戒というより誓願であり、密教を行じる素地となるものです。
『大日経』ならびに『大日経疏』などに基いて著された、空海の主著『秘密曼荼羅十住心論』あるいは『秘蔵宝鑰』にて心の低きから高きへと、智慧の浅きから深きへと体系的に説かれる十住心とは、まさしく能求の菩提心、すなわち菩提を求める人の心が高められゆく有り様です。そこでその最後に説かれ、密教に依ってこそ到達し得るとされる、空海が言うところの第十秘密荘厳心とは所求の菩提心、すなわち空性なる心の真相、一切智智に他なりません。それは無自性空なる心の、そしてひいては宇宙一切の存在の、真実なるあり方そのものです。
と、しかし、ここまで色々言っておいてなんでありますが、いや、ここまで言ったからこそ手のひらを返したようなことを言わねばならない。今まで挙げてきた『大日経』の説く「本不生際」だとか「無自性空」ということ。または今私が仮に言った「空なる心の真相(空性)としての菩提心」などということを、いきなり人に言ってみたところで、それを人が聞いてみたところで、それが真実であったとしても、何の前提もなしにそれだけでその人の何かが変わるものではありません。
「ふーん、だから何?」・「へぇ、そうなんだ?で?」、あるいは「わしにはわからん、馬鹿じゃけぇ」という程度の話でありましょう。いや、場合によっては「わぁ~、なんと奥深い、すばらしい教えなのでしょう!」などと夢見心地となってアッチの世界に跳んでいってしまう人もある。実際、不佞はそういう者が現実に多いことをよく知っています。
そのような言葉に「それが示された目的に叶う」という意義が生じるのは、その言葉に到る課程がどのようなものであったか、そして現実の自分自身の心身がどのように変化してきたかに依ります。
譬えば、これを数学を勉強することに置き換えてみたならば良いでしょう。数学の参考書に、解くべきものとして一つの問題、方程式などがあって、それを解かなければならない。しかし、その正答はその本に付属している解答に載っている。自分で考え、これを解かなくとも、正答はすでにそこにある。正答は正答なのであるから、自ら解かなくともその設問の正答をさえ知っておけば良い、とその学習者が考えたならばどうか。
試験で良い点数を取ることだけが目的というならば、こっそり解答を除いて写すだけで良いかもしれません。要するにそれは、その場だけ取り繕うだけのことでしょう。しかし、これを自ら理解して解き、また別の数式に応用してさらに理解しなければならないというのであれば、それは決して正しいものではない。
仏教のどの教えを信奉している者であれ、むしろ前者のような態度でもって、「すべては名(nāma)と色(rūpa)にすぎない」だとか「すべては因縁生起によって仮にあるのみ」、「諸行無常 諸法無我である!」、「ふん、あれこれ分別しおってケシカラン。無分別智こそ至高。一切は空なのだ」だの「心は自性清浄なり」、「いやいや、煩悩即菩提!」だのと、端から声高に言う者が五万とあります。
いや、それらの言葉は、仏典に根拠があるという点においては、すべて正しいでしょう。しかし、そもそも、いきなりそのように言うことに意味などあるでしょうか。意味が無いならば、その点において間違っている。
「何故にそのような答えに至るのか?」
「どのようにその答えに至ったのか?」
人によってその過程は様々でありましょうが、自ら理解している者であれば、それを無闇にそして単純に言っても意味のあることで無いことは自ずから知っていることでしょう。なにも「一語としてそれに関わることを言ってはいけない」・「全くの秘密にせよ」などと言っているのではありません。伝え理解させんとして、発言しているというならば、どうしても自らと同じように理解するための手順を踏む必要があるだろう、ということです。
どこかで読んだから、聞いたから、ちょっと勉強したから、そう信じているから、お師匠様がそう言ったからとりあえずそう言うのだ、というのであれば、それは九官鳥やオウムのさえずりに等しい。似たようなのが集って理由もわからずさえずり合うのは気分も良く、安心していられるのでしょうけれども。
鸚鵡能言、不離飛鳥、猩猩能言、不離禽獣。
鸚鵡よく言えども飛鳥を離れず。猩猩よく言えども禽獣。
オウムがよく(人の言葉を)言えたとて、所詮は鳥にすぎない。猩猩〈猿の妖怪〉がよく(人の言葉を)言えたとて所詮は動物にすぎない。
『礼記』曲礼上
菩提心、それは根本的に、輪廻転生・生死流転・業報というものをまったく世界の真実なるあり方であると、まさに痛烈に見るからこそ成立するものです。「この我が苦しみを如何せん!」と。そこで様々に流転し多くの人生の中で色々な苦しみを受け続けている自分というものを自覚し、そこから離脱・解脱することを欲して、人は菩提(覚り)を求めるのでしょう。
少なくとも、仏陀を始めとする諸大弟子、そして後代に仏教を護持してきた諸大徳は、そのようにして覚りを求めていったことがその伝記などにて知られます。そして、その上で、「自分と同じく他者もまた同様の苦しみの渦中にあるのを如何せん!」、そう思うからこそ、人には菩提を求める意志、菩提心を発する者がある。その故にまた六波羅蜜や四摂法を骨子とし、五大願であるとか四弘誓願であるとか、あるいは三昧耶などの誓いを立てるのでありましょう。
いずれにせよ、それら自覚される苦しみとは、輪廻に基づくものであって、この世限りのものなどではありません。
そのような苦しみは、我々が自性を欠いているからこそ生滅し、また因果応報・因縁生起のものであるからこそあるもの。であるからこそ同時に、その苦しみに終焉をもたらすことが出来るものです。そしてその終焉は、その依る教えの大乗・小乗の別なく、他ならぬ自分自身に依ってのみもたらし得る。大乗と小乗とでは、いわばその終焉となる地において見える光景が異なっていると説かれているに過ぎません。
それを密教では、自心が「空なる心の真相としての菩提心」に他ならないということを覚知すること、いわゆる如実知自心によって達成されると説かれます。しかし、それも先から述べたように、軽々に口にし得るようなたやすいことなどでは決してありません。慈雲はかく言い、当時の仏教者らを強く批判しています。
今時法相似に転じ人高遠にはしる。こと葉弥〃高クして行ますます降る。言たかければ非を文るにたくみなり。行くだるゆへみづからその過を省ることなし。晩達小僧もつねに大乗を称し。俗士庸流も動モすれば向上の宗を談ず。その甚しきは佛法世法二なしとて名利をもとめ。煩悩菩提別あらずと云て聲色にふける者あり。これみな魔外の種族なるべし。
いまどきは(仏陀の)教えが、本来とは似て非なるものとなってしまい、人は聞こえは良くとも内容がまるでない観念の遊戯に走っている。(結果として)その言葉、思想はいよいよ高いものとなっていくけれども、行いはますます下劣で卑しいものとなっている。思想だけが高邁であれば、他の欠点を批判することに長じるものである。しかし、どれだけその口にする思想が崇高なものであっても、その者の振る舞い、心の働きなどの行いは下劣であるから、自分からそのあやまちを反省することがない。 老僧をはじめ小僧ですら(その内実が、およそ「大乗」などといったものから程遠いものであっても)、つねに「我々は大乗の信徒である」と自称し、俗士や庸流の者ですら、(それがどう言ったものかも知らず、また行うこともなしに)ややもすれば(特に真言と禅という)向上の宗とを語っている。中でも甚だしくひどい者ともなれば、「仏陀の示した教えと、世俗の習わしとは、実はなんの矛盾もなく一つのものである」などと虚栄や財産を求め、「煩悩と菩提とに違いはない。(だから悟りをもとめて修行するのも、欲望をむさぼるのも同じなのだ)」などとうそぶいて、世俗の娯楽や女の色香に溺れる者達がいる。それらは皆、魔外の種族に他ならない。
慈雲『骨相大意』(『慈雲尊者全集』, vol.14, p.7)
尊者が活躍した時分と今とで、日本の寺家の状況に大した変わりはないようです。もはやこれは「日本の世の常」とでも言いえることか。しかし、だからといって「それで良いのだ」ということには決してならない。仏教はそのような「世の常」(輪廻)を打破して立ったもの。そしてまたこれからも打破するものでありましょう。
いずれにせよ、大乗であれ小乗であれ、そこで説かれる教えが、「生死一大事の妙薬」としてでなく、苦なる人生をまやかす麻薬となってしまっては、詮無いことです。それこそ、さながら苦というユラユラとうごめく炎に油を注ぐような、まさしく本末転倒というものです。
一般に大乗は「他を先とし己を後とする」などということを言い、空海もまた同様の言を用いています。そのことから、「他を先とするが故に大乗は優れているのだ」・「己のことはさて置いて、まず他者をこそ導かなければならない!」などということを言う人がいます。
常識的な意味でならば「善人の用心は他を先とし己を後とすること」、まったくその通りで、実際これを日常的に行う人は徳高き人でありましょう。己を差し置いて、まず他者に様々な思いありある、優しき行いをすること。それは、その人の信奉する思想がなんであろうと、賞賛されるべきものです。
しかしもし、宗教的な意味で「己が救われるよりもまず、他者こそがまず救われなければならないし、私がこれを救うのだ。それが大乗!」などと思っていたならば、それは全く誤った認識というものです。
人を救う?馬鹿言っちゃいけない。一体どうして自ら溺れもがている者が、他の溺れている者を救い出すことなど出来るでしょうか。一緒に仲良く溺れ死んでしまうことを、あるいは「救いである」などと宣うのでしょうか。
世界平和?大言壮語もはなはだしい。家族・親族、友人、上司・同僚や隣近所などと、原因は色々とあるだろうけれども、様々にもめて収集がつかなくなるような者らが何を言う。
そもそも自らのうちにも平和をもたらし得ていない輩が、あるいは自らと決定的に異なる思想を持つ人と出会ったならばたちまち癇癪を起こすような者が、どのようにして他人の、それも「自分とはまるで異なる他人様の集合体である世界」の平和などということを容易く口にするのか。
あるいはただ手にろうそくを灯して大勢集まり「ヘーワを!セカイヘーワ!」・「センソーハンターイ!」などと無闇に叫び、あるいは手を合わせて何やらその正体もわからぬものの前で祈り、短冊や絵馬に願いを書いてどこかに吊り下げ、あるいは念仏・題目・宝号を唱えたり、護摩木などというものを燃やしたりする祈祷によって世界平和?
傍ら痛いとはまさにこのこと。しかし、世間ではそういう様なのも「文化だ」といわれるものなのでしょう。実に文化とは都合よく使える便利な言葉であります。
「願うだけで叶う」・「真摯な祈りはかならず届く」・「正しく祈祷すると成就する」・「現実的手段や方策は全然わからないけれども、高邁の理想を叫ぶのだけでも良い」・「憲法9条があると日本は恒久的に平和である」・「共産主義(または正しい宗教)に基いて政治を行い、すべての国民がそれを信奉すればみんな幸せ」というのであれば、誠に結構なことであるに違いない。そうだとイイな、と不佞も心底思います。けれども、では例えば、一体どうしてチベットは毛沢東ひきいる支那共産党に侵略され蹂躙され、あのような凄惨な殺戮と弾圧を受け、今もそれが引き続いているというのか、あるいはウイグルにおける惨状は一体どうなのだ、というと大体がだんまりを決め込む。
すなわち、現実は全然そうではない。であるならば、それらは結局、どこまでも幼稚な妄想にすぎない。実際はまず自分を度してのち他に向かう、というのが道理というものです。大乗の八宗の祖などと讃えられる龍樹菩薩によるとされる、『十地経』の注釈書『十住毘婆沙論』では、このように説かれます。
問曰。何故不言我當度衆生。而言自得度已當度衆生。答曰。自未得度不能度彼。如人自沒淤泥。何能拯拔餘人。又如爲水所㵱不能濟溺。是故説我度已當度彼。如説若人自度畏 能度歸依者 自未度疑悔 何能度所歸是故先自善寂而後化人。又如法句偈説
若人自不善 不能令人善 若不自寂滅 安能令人寂若能自安身 在於善處者 然後安餘人 自同於所利凡物皆先自利後能利人。何以故。如説若自成己利 乃能利於彼 自捨欲利他 失利後憂悔是故説自度已當度衆生。
問:どのような理由から「私は衆生を済度すべし」と言わず、むしろ「先ず自らを済度して後、まさに衆生を済度すべし」と言うのであろうか。
答:自らを未だ済度出来ずして他者を済度することなど出来はしない。譬えば人が自ら汚泥に没していたならば、他者を救い出すことなど出来ないようなものである。あるいは(自ら)水に漂流していては溺れる者を救うことなど出来ないようなものである。この故に「私自身を度して後、まさに他者を度すべし」と説くのである。(偈頌に)説く如し。もし人が自ら畏れより脱したならば、帰依する者(の畏れ)を除くことが出来るであろう。自ら未だ疑惑や後悔を除くことが出来ない者に、どうして帰依者のそれを除くことが出来るであろう。このようなことから、先ず自ら善く寂滅に至って後、他者を化導するのだ。また「法句偈」〈有部にて伝えられた法句経の一偈であろう〉にかく説かれている通り。
もし人が自ら不善であれば、他をして善ならしめることなど出来はしない。もし自ら寂滅に至っていなければ、どうして他を寂滅に至らしめることなど出来ようか。もしよく自らその身を安じて善処に至ったならば、およそ物事は全て、先ず自らを利して後に人を利することが出来る。どのような理由からそう云うのであろうか。(偈頌に)説かれている通り。
そうして初めて他者を安じ得る。自ら利するところも同様である。もし自ら己が利を成就してこそ、他を利することが出来る。このようなことから、「自らを済度して後、まさに衆生を済度すべし」と説く。
自らを捨てて他を利そうとすれば、(いずれも)利すことは出来ず後に悔いるであろう。
龍樹『十住毘婆沙論』 (T26, p.24b)
いや、仏教の出世間の賢聖の言葉を引くまでもなく、古代支那の処世を究めんとした賢人ですら、似たような意図の言葉を遺しています。
修身斉家治国平天下
(まず己が)身を正し、次に家庭を円満にし、そして国家を治めてこそ、天下平らかとなる。
『礼記』大学
世間のただ「セカイヘーワ」を叫ぶだけの人は、だいたい「修身」や「斉家」など眼中にない輩が多いようです。巷間しばしば取り沙汰される宮沢賢治の言ったようなそれは、この道理を無視して言ったものであれば、ただの妄想・浪漫でしかありません。口だけ高尚の言辞、俗耳に入りやすき言葉を並べ立てるだけでは、己はもちろん誰一人として救うことなど出来はしません。
大乗は菩提心を発し、五大願や四弘誓願を立てて利他を先とし、人法二空を説いて空性を奉じる教えであるから優れている、というのもいいでしょう。それはまさしく大乗の諸々の経説に則った言でありましょう。
しかしもし、そのように高邁遠大なる思想を信奉したところで、自分自身の思想や行動、その人生がダイジョウのダの字も関しないようなものであって、それをある意味誤魔化すために大乗大乗と強弁する、などということでは詮無いことです。もっとも、それは別段大乗に限ったことではなくて、声聞乗の説一切有部であろうが分別説部(上座部)の場合であろうが同様に言えることです。
いや、しかし、それもまた人生。人の思想がどうであれ、その信仰がどうであれ、その人の全く自由勝手。
そうであることは、現代の自由主義社会において、人が大いに享受している尊い利益というもの。過去の人々が多くの犠牲を払ったことよってようやく手にした、現代の我々は知ってか知らずか手にしているそれは、世法に順じている限りにおいて、かけがえ無く、犯すべからざる宝でしょう。
そのような社会にあって、もし自らが真にこの世を苦海と見て、そこから自由にならんとするならば、法を求めてこれを証することを望むのであれば、キリスト教でもイスラム教でも儒教でも道教でも神道でもなく、あるいは無神論や不可知論、享楽主義でも拝金主義でもなく、まず仏教を私は薦めます。
けれどもそれは、決して「親しみやすく」・「わかりやすい」・「万人が受け入れえる」ものとは到底言いがたいものです。そう、高踏的というのではありませんが、仏教は世俗的で平易なものでは元来、無い。それでも「やはり仏教を」と望む人には、そして「仏教」と言うからには、仏教の経律論など正統な根拠と伝統に基づいたものでなければ、どうしても承知されない。
その上で、人情を頼まず、風習に依らず、神秘主義的・超自然的事柄に憧憬を抱かず、いたずらには伝統というものを是とせず、あるいは口伝[くでん]などというものを過度に重んぜず、そしてたとい経説であっても盲信せず、あくまで自らがそれを考え、その意義を確認して修め続けていくことを勧めます。
仏教には、およそ金剛乗・菩薩乗(大乗)・声聞乗・縁覚乗(小乗)などの別があり、またそれぞれ諸派並び立っています。たとえば往古の日本には、仏教といえるものに八宗(と禅宗を加えた九宗)が存していました。
そして、おおよそ明治期以降、大英帝国がセイロンや東南アジアの(彼らからして)「未開・野蛮なる土人ら」をいかに効率よく植民地支配できるかを、あるいはその土人らが主に信ずる仏教というものがキリスト教に比していかに無知蒙昧・非合理で劣っているかの検証を、学者などに研究させたその副産物の一つとして、飛躍的に仏教研究が進みました。パーリ語にしろサンスクリットによるものしろ、西洋において学術的仏教研究が進んだのは、彼らによるインド亜大陸の植民地支配という背景と、それを元にした資金援助があったからこそという側面があるのです。
いずれにせよその結果、日本ではすでに江戸中期の天才町人学者、富永仲基によって似たようなことは唱えられてはいましたが、現代には「大乗は釈尊直伝の教説などでは到底なく、南方の分別説部が直伝の教説にもっとも近いものを伝えている」という学問的成果が日本にも伝えらています。いまや「大乗非仏説」は学的にとどまらず、一般的な書籍でも語られるような、いわば常識的な説となっています。
あるいはまた、ただ学問としてではなく、近年目覚ましく進んだ国際化によって、日本にも南方に伝わってきた分別説部(上座部)の僧徒が渡来したり、日本人が渡航して実際に修行・学問し、その実際的な教義が紹介され、漸く世間にも知られてきています。そのような状況下で、人によってはそのいずれを採るべきか、いずれが信じるに足る仏教であるかと悩む人もあるでしょう。
菲才自身は、それが各々の分際に応じた戒学・定学・慧学の三学を正しく行なうものであって、四聖諦・縁起や空を明らめんとするものである限りは、いわゆる三法印や四法印を正しく宣揚するものであれば、いかなるものも仏教であって敬すべきものと考え、実際そのように信奉しています。
僭越ながら、私もまた分別説部にて受具した比丘であって、その波羅提木叉と三蔵を受持する者であります。が、以上の理由から、また同時に中観と密教とを奉じる者でもあります。
大慈能与樂。大悲能拔苦。拔苦与樂之本不如絶源。絶源之首不若授法。法藥雖万差前所説八種法門。是彼之本。然猶随順機根故有浅深遅速。
大慈とはよく楽を与え、大悲はよく苦を抜くものである。(大慈大悲の功たる)抜苦与楽の本は、(生死流転という苦しみの)根源を絶つ以上にはない。根源を絶つことの第一は、法を授けること以上にはない。仏法という薬は千差万別であるけれども、先ほど説いた八種の法門はその本である。けれどもそれには、人それぞれの機根にしたがって、(教えの)浅深と(その果報の)遅速がある。
空海『三昧耶戒序』(『定本 弘法大師全集』, vol.5, p.5)
仏教とは慈悲と智慧の宗教、と言われます。
なぜ、慈悲と智慧なのか?苦の滅尽にはいかがしても、それらが不可欠であるからであります。すなわち、仏教の肝要は苦の滅尽、苦たる輪廻からの解脱です。その基を忘れ、崇高で深淵なる真理だの、海よりも深い慈悲だのといった観念に囚われ、惑わされてはいかにも宜しくない。ましてや情緒的に「救う」「救い」ということを軽々に言い、「救いたい者」「救われたい人」両者が誤解したままあらぬ方向に突き進むようなのでは、もはやそれは慈悲でも何でもない。お涙頂戴の浪花節でありましょう。
しかしながら、人間泣くと結構スッキリするものですから、そういうのを「救い」と世間では言うのかもしれません。あるいはそれが、巷間いわれる「癒やし」というヤツなのでしょうか。出家者における慈悲の表出。それには、法を「まっとうに説くこと」、出来ることならそれを現証することに超えるものは、一つとしてありません。
それでも慈悲に基いて、物心両面に渡ってまさに「救済活動」を展開し、世の大なる尊敬と信仰を集めた人物らも、その昔の日本にはありました。鎌倉中期に活躍した叡尊と忍性を中心とした律僧らです。彼らも戒律復興運動や非人救済などの活動を始めた最初は、周囲(特に寺家)からずいぶんと批判・中傷されたようです。が、やがては鎌倉初・中期から応仁の乱以前における、日本最大の教団・信徒を擁するにいたっています。
ちなみに、叡尊の当時、元寇といわれる元のモンゴル人や朝鮮人などが突如として侵攻してき、日本国内は天地がひっくり返ったかのような大騒ぎとなったのを、神風と言われるものによって撃退したと言われています。が、その当時の朝廷や幕府の認識としては、それは主に叡尊による(八幡神への)外夷退散の祈祷が功を奏したため、というものであったようです。
神風というのは八幡神によるものであり、それを誘発したのは当時最も世の尊敬を集めていた叡尊の祈祷であったと、それが事実であるかどうかは別として、そのように当時は認識されていたのです。
彼ら、特に良観房忍性などは学解は決して高くない人であったようで、すぐれた説法を行ったとか、深く空性を理解していたとかいう点については、かなり怪しいものであったようです。実際、師であった叡尊による人物評からすると、忍性はおそらく、釈尊ご在世の愚直なる尊者、須梨槃特(Cūlapanthaka)に近いような人であったと思われます。けれども、忍性は、その行動においてはまさしく「大乗」を日本で具現化した、深く敬すべき稀有なる存在であったと言える人です。
もっとも、そんな忍性は、同時代の日蓮からそれはそれは激しく憎まれ敵視され、あらんかぎりの罵詈雑言を投げつけられています。けれども、当の本人である忍性は、日蓮からの罵詈雑言など一顧だにしていなかったことが知られています。日蓮がことあるごとに忍性に言及して中傷している文書が残っているのに対し、律師の書には一言として日蓮に言及しているものがないのです。
また空海の師であった唐の恵果も「貧を済うには財を以てし、愚を導くには法を以てす」(『性霊集』)という敬すべき徳高き人であったことを、空海自身が書き残しています。
いずれにせよ、自身がいかなる教えと縁があり、いかなる教えを選択するかは、まったくその人の宿業と機根とによるものとなるでしょう。そして、その果報がどのようなものであるか、あるいは密教がそう説き、空海が言ったように「即疾に顕わる」となるかもしれません。いや、ただ「即疾」だとか言うことに関して言えば、何も密教や空海が初めて言い出したことなどでは全然ない。実際に今も、密教の優位性なるものの一つが「即疾である」ことを声高に言う、まるでそれが即疾に顕れていない人があります。
しかし、仏教は本来「即疾なる」ものであって、その故にこそ優れ、尊崇されたものです。高名なバラモンであったバーヴァリ(Bāvari)とその弟子十六人らは、仏陀釈尊と直接対論し、たちまちその説の真実であることと釈尊の徳高きに心服し、以下のように仏陀を称賛する言葉を発しています。
yeme pubbe viyākaṃsu, huraṃ gotamasāsanā.
iccāsi iti bhavissati.
sabbaṃ taṃ itihitihaṃ, sabbaṃ taṃ takkavaḍḍhanaṃ.
eko tamanudāsino, jutimā so pabhaṅkaro.
gotamo bhūripaññāṇo, gotamo bhūrimedhaso.
yo me dhammamadesesi, sandiṭṭhikamakālikaṃ.
taṇhakkhayamanītikaṃ, yassa natthi upamā kvaci.
ゴータマの教え(に触れる)以前、過去に(諸宗教家・諸思想家の)彼らが「過去はこのようであった」・「未来ではこのようになるであろう」と説いてきた。
(しかしながら)それらはすべて、「聞き伝えたこと」に過ぎぬものであった。それらはすべて、「理論の増大〈机上の空論〉」をきたすだけのものであった。
彼は独り坐す、暗闇を打ち破る者、聡明なる者、光明を放つ者である!ゴータマは広大なる智慧ある人、ゴータマは豊穣なる叡智の人である!
彼は私に、悩害から自由なる、渇愛の滅尽を(自ら)目のあたりに出来る、 時を経ずして(果をもたらす)法を、説き明かした。それは(世界の)いずこにも比類無きものである。
Suttanipāta, Pārāyanavagga 1141-1143 (KN 5.73)
そして、今も南方の分別説部では、釈迦牟尼の遺された法(Dhamma)には「六つの徳」があると理解してそれを日々唱え、また自らの内にその通り現証しようと努められています。
Svākkhāto Bhagavatā Dhammo, sandiṭṭhiko, akāliko, ehipassiko, opaneyyiko, paccataṃ veditabbo viññūhi.
法とは、世尊によって善く説かれたものであり、(自ら)目のあたりに出来る、時を経ずして(果をもたらし)、「来たれ見よ」(と言われ)、(涅槃へと)導く、おのおの賢者によって知られるべきものである。
しかし、それもやはり、自分自身の宿業と、そしてなにより今世での自らのたゆまぬ努力に依るものとなるでしょう。
釈迦牟尼より始まり、その偉大な弟子たちが連綿として伝えてきた、人天をして苦海から脱する道を示す無上の宝、仏教によって、少しでも多くの人がみずからその尊き由縁を証し、またその宝の輝きがいや増さんことを、私は願ってやみません。
相似比丘慧照