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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒法

三摩耶戒 Ⅱ. 三種三昧耶

三摩耶戒は密教戒である!…ただし、それが何かは知らない

三摩耶は、密教独自の戒として、すこぶる重要なものとして今も強調されています。

けれども、その三摩耶戒、そのように密教行者には不可欠の戒とされているにも関わらず、現在でも「密教独自の優れた戒だ」・「重要な戒だ」などと声高に言う者であっても、それを受けているはずの已灌頂の真言宗や天台宗の僧職者であったとしても、その意味内容を知る者は非常に限られ、甚だ稀であるという現状があるようです。いや、「あるようです」ではなく、明々として「ある」。

稀に、少しばかりその気になった僧職の者が「どれ、ひとつ調べてみるか」と、とりあえずぶあつい『密教大辞典』などを引っ張りだして開いてみる。けれども、そこに書いている日本語自体がそもそも理解できず、「わかんねぇ」と辞書をパタリと閉じ、そのままやる気も失って結局うっちゃりぱなしにしてしまう。

そんなことが、誇張でも冗談でもなく当たり前となっています。まだ調べようとするだけでも比較的マシな部類であって、その大部分は知ろうとすることすらしない。さらに内実を言えば、総本山などと言われる大寺院における、三摩耶戒ならびに灌頂を執行する側の僧職者のほとんど皆が、実はその意味内容についてなど全然、これっぽっちも理解していません。せいぜいのところ、儀式において手をどうする、足をどう運ぶだのいった所作についてや、そこで必要な道具類が何かを知っている程度のことでしかありません。

そうか思えば、まともに知りもせず、あるいはなんら根拠もない「ご冗談」とも形容できる珍説を、さも伝統的・正統な説であるかのように積極的に主張する、その故に非常に困った自称「大阿闍梨」の僧職の人も、老若問わずかなりの数が存在しています。

そのようなのは別段、現代においてだからこそ存在しているのではなく、すでに江戸期の昔から多くあったようです。

密教の三昧耶戒は近世邪説多し。
密教の三昧耶戒について、近年は邪説を説く者が多い。

慈雲『戒学要語』(『慈雲尊者全集』, vol.6, )

邪説を説く者こそ多いのは、今もまるで変わりありません。

(慈雲による三摩耶戒の解説は、別項「慈雲『三昧耶戒和釋』」を参照のこと。)

結局、何が三摩耶戒であるかを確たる根拠に依って知り、語り得る僧職の者など日本にほとんどありません。ましてや、たとえば結縁灌頂をただ珍しい「なにやらアリガタイ」儀礼、率直に言ってしまえば人集めのイベントとして行われているのを、何もわからず受けさせられているだけの檀家や信者、そして観光客ならばなおさら、その意味内容など杳として全く知られたものではありません。

檀家や信者などといっても「なにやらアリガタイ」以上に興味を自らもつことも、寺家側からもたせられることもほとんどありません。そして案外、「なにやらアリガタイ」儀礼や事物であるからこそ、世間の人々も文化的な余興として喜んで受け入れている場合があります。それは観光資源にすらなりえ、実際そうしているところが多くあります。

それを授受する両者ともに、三摩耶に対する知識の欠如、無理解がある。その一点だけ採ってしても、今日の真言や天台宗にて行われている伝法灌頂や結縁灌頂などというものが、もはや仏教も密教も全く関しないと言って過言でない、権威主義的で大袈裟な通過儀礼、完全に形骸化して空虚なる儀式となっている一つの証となっています。

これは、その他多くの事柄にも同様のことが言えるのでしょうけれども、現在のような日本仏教の状況下において、受者はその意味内容など自身が知り、また他者に説く必要も意義も、ほとんど絶無となっているためでもありましょう。

一体何故に、密教では三摩耶が必須とされるのか。それは『大日経疏』にて、以下のように説かれているためです。

次爲都説三昧耶戒。汝等從今日。常於三寶及諸菩薩諸眞言尊。恭敬供養於摩訶衍經。恒生信解。凡見一切受三昧耶者。當生愛樂。於尊者所恒起恭敬。不應於諸尊所懷嫌恨心。及與信學外道經書。凡來求者隨力施與。於諸有情恒起慈悲。於諸功徳懃心修習。常樂大乘。於眞言行勿得懈廢。所有祕密之法無三昧耶者。不應爲説。
次に(真言密教を志向する者の)為にすべからく三昧耶戒を説く。汝らは今日より以降、常に三宝および諸菩薩・諸真言尊を恭敬供養し、大乗の経典に対して恒に信解を起こせ。およそ誰であれ三昧耶を受けた者と出会ったならば、まさに愛楽〈好意〉を生ずべきである。尊者の所に於いては恒に恭敬〈尊敬〉を起こせ。諸尊の所では嫌恨の心を懐かず、及び外道の経書を信じて学んではならない。およそ求め来る者には、(自らの)能力に応じて施与せよ。諸々の有情に対しては恒に慈悲を起こし、諸々の功徳を務め励んで修習せよ。常に大乗を願い、真言を行ずるにおいては怠り止めることなかれ。この秘密之法〈真言密教〉を、三昧耶なき者には決して説いてはならない。

一行記『大毘盧遮那成佛経疏』巻九 入漫荼羅具縁品第二之余
(T39, p.672b)

これは前項ですでに示したことと、その内容としては重複するものであるのですが、このように繰り返して説かれるのは、それだけ密教において三摩耶が重大であるためです。

なお、誤解してはならないことですが、といっても実際はまさに誤解し、あるいは恣意的に曲解している者が非常に多いのですが、密教独自の戒などと云っても、密教行者は三摩耶だけを受持していれば良いということでは全くありません。それぞれの立場に応じた律儀を厳持し、そして菩薩戒を受持した上で、さらに三摩耶を持たなければなりません。

(空海における瑜伽行者の戒律護持がどのようにあるべきかの訓戒については別項「空海『遺誡』」を参照のこと。)

三摩耶の相

三摩耶の相、日本では一般に三摩耶戒の戒相といわれる、その具体的内容はいかなるものか。それは、『大日経』入漫茶羅具縁真言品に説かれる「三昧耶偈」に示されています。

佛子汝從今 不惜身命故
不應捨正法 捨離菩提心
慳悋一切法 不利衆生行
佛説三昧耶 汝善住戒者
如護自身命 護戒亦如是
應至誠恭敬 稽首聖尊足
所作隨教行 勿生疑慮心
仏子よ、汝は今より身命を惜しまざるが故に、
應に正法を捨て、菩提心を捨離し、
一切法を慳悋し、衆生を利せざる行をなすべからず。
仏は三昧耶を説き玉ふ。汝、善住戒者よ、
自らの身命を護るが如く、戒を護ることも亦た是の如し。
應に至誠に恭敬して、聖尊の足を稽首すべし。
作す所は教へに隨て行じて、疑慮心を生ずること勿れ。

『大毘盧遮那成佛神変加持経』巻二 入漫茶羅具縁真言品第二之餘
(T18, p.12b)

『大日経』では三昧耶として、①正法を捨てない・②菩提心を捨離しない・③一切法を慳悋しない・④衆生に不利な行いをなさない、の四箇条が具体的内容として説かれています。

この三昧耶偈について、『大日経疏』は以下のように注釈しています。

前云耳語言告一偈者。猶如僧祇家授六念。薩婆多授五時法。以此驗知曾受具戒以不。今此四戒如受具竟已略示戒相。當知即是祕密藏中四波羅夷也。如人爲他斷頭命根不續。則一切支分無所能爲。不久皆當散壞。今此四夷戒是眞言乘命根。亦是正法命根。若破壞者。於祕密藏中猶如死尸。雖具修種種功徳行。不久敗壞也。《中略》 
第四戒勿於一切衆生作不饒益行者。此是四攝相違法。四攝是菩薩具戒中四依。初受戒時。先當開示此遮難。若能奉行者方爲受之。不能奉行。則非摩訶薩埵。不得爲受。所以然者。菩薩發一切智心。本爲普攝一切衆生。爲作三乘入道因縁故。而今反作四攝相違法。起衆生障道因縁。一切衆生亦同字輪之體。不得相離故。隨損一一衆生善根。或於彼捨饒益行。皆犯波羅夷罪。例如聲聞法中。隨捨七衆一人。即是不和合義。斷失具足律儀也。但隨煩惱之心。造婬盜殺妄等。而未損彼三乘善縁。猶如聲聞法中偸蘭遮罪。是方便學處中攝也。次下是阿闍梨教戒之語。佛説三昧耶者。梵本兼有此字。言十方三世佛。共説此三昧耶。同行一如實道。更無異路。今漫荼羅中。一切集會現爲證驗也。梵云蘇沒囉多。翻爲善住戒者。以其善住三昧耶故。亦名善住戒者。即是異門説佛子之名。如護汝父母生身所有躯命。今愛此法身慧命。亦當如是也。
先に「(三昧耶の)一偈を唱えよ」と耳打ちして言ったのは、たとえば僧祇家〈大衆部〉が六念〈比丘としての常識。熟知すべき六種の事柄〉を授け、あるいは薩婆多〈説一切有部〉が五時法〈比丘としての常識。受具した日時〉を授けることによって、(その者が)すでに具足戒を受けたか否かを調べるようなものである。この(三昧耶偈で示された)四戒は、受具して後に略してその一一の戒相が示されるようなものである。まさしに知れ、すなわちこれは秘密蔵〈密教〉における四波羅夷〈pārājika〉であることを。人が他によって頭を断ち切られたならば、命は続かず、たちまちすべての四肢・器官が動かなくなり、久しからずして(その体も)朽ち果ててしまうようなものである。いまのこの四夷戒とは真言乗の命根である。または正法の命根である。もしこれを破る者は、秘密蔵における死体のようなものである。つぶさに様々な功徳行を修めたとしても、短い間に朽ち果てるであろう。《中略》 
第四の戒に、「すべての衆生において不饒益の行を作すことなかれ」というのは、それが四摂に相違する法のためである。四摂とは菩薩の具戒の四依法である。初めに受戒する時、先ずまさにこの遮難を示さなければならない。もし能く(これを)奉じ行える者にはこれを受けさせよ。奉じて行うことの出来ない者は摩訶薩埵〈大士.菩薩〉ではない。為に受けさせてはならない。なんとなれば、菩薩の一切智心の発す根本とは、あまねくすべての衆生を摂するためであり、三乘入道の因縁を作るためであるから。しかるに今、むしろ四摂に相違する法を作して、衆生の障道の因縁を起こす。すべての衆生もまた、字輪の体〈本質〉に同じであって相い離れることなど出来ないことによって、各々の衆生の善根を損ない、あるいはそこで饒益の行を捨てて、波羅夷罪を犯す。例えば声聞の法の中において、七衆の一人〈一つの立場〉を捨てるにしたがって、すなわちその不和合の義によって、(その立場に応じて)具足する律儀を断ち失うようなものである。
ただし、(三昧耶を受持する者が)煩悩の心に随って、婬・盜・殺・妄など(七衆それぞれの立場に応じた律儀の制する罪を)犯したとしても、その者の三乗への善縁が損なわれることはない。それは声聞の法における、偸蘭遮罪〈sthūlātyaya. 波羅夷・僧残には至らないほどの重罪・未遂罪〉であり、これは方便学処の中に摂せられる。以下は、阿闍梨の教誡の言葉である。「仏は三昧耶を説き玉ふ」とは、梵本にも兼ねてこの字がある。十方三世の仏は、共にこの三昧耶を説かれ、同様に「一如実道」を歩まれて、さらに他の道など無い。いま漫荼羅〈maṇḍala. 曼荼羅〉において一切(の仏陀らは)集まられ、現に証験されている。それを梵語では蘇沒囉多〈suvrata〉と云い、(漢訳に)翻訳すれば善住戒者とする。それが「善く三昧耶に住している」ことによって、また「善住戒者」と名づけるのだ。すなわち、これは異門が仏弟子の名として説くものである。汝が父母から受けた身命を守るかのように、今この法身の慧命を愛すこともまた同様にせよ。

一行記『大毘盧遮那成佛経疏』巻九 入漫荼羅具縁品第二之余
(T39, p.671a-c)

『大日経疏』は、三昧耶偈で示された四ヶ条は、密教における波羅夷であると断じています。

波羅夷とは、[S/P]pārājikaの音写で、断頭あるいは不応悔または他勝処と漢訳されます。頭を落とされたなら生命が絶たれて生き返ることが絶対無いようなものであることから断頭と言われ、それを悔いて懺悔しても決して許されざる行為であることから不応悔と言われ、他(煩悩)によって打ち負かされた結果であることから他勝処と云われます。

『大日経疏』では、『大日経』の三昧耶偈で示された四ヶ条は、密教の命根であってその根源にあると断言されています。しかし、声聞法(七衆別解脱律儀)における波羅夷などとは異なって、懴悔不可能のものではないとされます。これは『瑜伽論』など所説の瑜伽戒、すなわち印度の菩薩戒における四波羅夷と同様の説であり、僧俗を問わない密教行者に対する一般論です。そして、それが元で三乗(密教以外の仏教)との善縁が断ち切れなどしない、と『大日経疏』はわざわざ但し書しています。

なお、よくよく注意すべきことは、この一節は出家者(比丘)である者が比丘律儀における「波羅夷」を犯すことを、密教が許しており、その懺悔が可能であることなどと説いてなどいないことです。

ところで、あるいはまた『大日経』に説かれる三昧耶偈と内容を同じくするものが、『初会金剛頂経』の異訳『金剛頂瑜伽中略出念誦経』(『略出念誦経』)にも説かれています。

爲説三摩耶。令其堅固。告言善男子汝應堅守正法。設遭逼迫惱害乃至斷命。不應捨離修菩提心。於求法人不應慳悋。於諸衆生有少不利益事。亦不應作。此是最上句義。聖所行處。我今具足爲汝説竟。汝當隨順如説修行。
(汝らの)為に三摩耶を説く。それを堅固ならしめんが為に、善男子に告げて言う。
「善男子よ、汝は、①まさに堅く正法を守らなければならない。たとえ差し迫った危難や生命の危機にすら遭遇したとしても、②菩提心を修すことを捨離してはならない。③求法の人に対して(法を)出し惜しみしてはならない。④諸々の衆生に対し、少しも不利益の事を行ってはならない。これは最上の句義であって、聖者の行ぜられる所である。私は今(三摩耶を)具えており、汝の為にここに説いたのである。汝、まさに(三摩耶に)随順して如説に修行せよ」

金剛智訳『金剛頂瑜伽中略出念誦経』巻三(T18, p.252b)

以上のように三摩耶とは、ただ『大日経』系の密教にのみ説かれるものではありません。『金剛頂経』系の『略出念誦経』にてもまた、『大日経』に示された三摩耶の四箇条にまったく同じことが説かれます。因みに、この項では一切触れませんが、日本に伝わらなかったいわゆる後期密教に属するチベット密教でも、やはりその授受にあたっては様々な三昧耶が説かれ、必須のものとして理解され実行されています。

けれども空海は、先に挙げた『大日経』「三昧耶偈」と『大日経疏』での所説に従いつつ、しかしさらに多くをその内容として加えたものを「三昧耶戒」であるとその弟子に示しています。空海の自著『秘密三昧耶仏戒儀』にはこのように云われます。

次甄別戒性
已發菩提心具菩薩戒竟。復應修四攝法及四波羅夷及十重戒。不應缺犯。其四攝者所謂布施愛語利行同事。 《中略》 
今入此三密門即身口意密復應淨除四障。 《中略》 
次應修四威儀。名無作。於其功徳運運之間自然増長。 《中略》 
将入陀羅尼門。復具三種三昧耶。是践如來所行之迹。必須專精四波羅夷誓无缺犯。所謂四波羅夷者。若有毀犯。由如断頭命根不續則一切支分无所能為不久散壊。菩提心戒四種戒相。亦是大乗正法命根。若破壞者。由如死尸雖修種種功徳不久敗也。 《中略》 
次説十重戒相。 《中略》 
是則最上最尊無比無等之戒也。速滅罪障頓證菩提之門也
次に、戒の内容をそれぞれ解き明かしていく。
(汝らは)すでに菩提心を発し、菩薩戒を受けたのである。そこで四摂法および四波羅夷および十重戒とを修めなければならない。違反してはならない。その四摂法とは、いわゆる布施・愛語・利行・同事である。 《中略》 
今この三密門に入ったならば、すなわち身密・口密・意密において四障を断じなければならない。 《中略》 
次に、四威儀〈誓願〉を修めなければならない。これは無作と名づけ、その功徳は(威儀を)備えているうちに、自然と増長するであろう。 《中略》 
まさに陀羅尼門〈真言密教〉に入ろうとするならば、また三種の三昧耶を備えなければならない。これは如来が行われたその跡を辿り行なうものである。必ず須らく四波羅夷を、心して誓って犯すことが無いようにしなければならない。いわゆる四波羅夷は、もしそれを犯したならば、譬えば首を落とされれば命根を失い(死んで)その手足胴体すべて朽ちゆくようなものである。菩提心戒の四種の戒相はまた、大乗正法の命根である。もしこれを打ち破ることは、喩えるならば屍が諸々の功徳を修めたとしても、(その身体は)まもなくうち腐れて(その功徳も無に帰して)しまうようなものである。 《中略》 
次に、十重戒の相を説こう。 《中略》 
この三昧耶戒は、すなわち最上最尊無比無等の戒である。速やかに罪障を滅し、たちまちに菩提の門を証すものである。

空海『秘密三昧耶仏戒儀』(『定本 弘法大師全集』, Vol.5, p.174)

上では冗長かつ煩雑となるため省略しましたが、中略した箇所はそれぞれ戒の内容がいかなるものかが説かれています。そこで、いま中略した箇所にて説明されている内容をわかりやすいようまとめ、表にして示したならば以下のとおり。

三昧耶戒の戒相
四摂法
1 布施
(爲欲調伏無始慳貪及利益有情故)
与え得るものを他者に施す。
(無始以来の慳貪を調伏し、生けるものを利益しようと欲するために。)
2 愛語
(爲欲調伏嗔恚憍慢煩惱及利益有情故)
優しい言葉を用いる。
(瞋恚・驕慢の煩悩を調伏し、生けるものを利益しようと欲するために。)
3 利行
(爲欲饒益有情
及滿本願故)
他者を利すること。
(生けるものを利益しようと欲し、本願を満たすために。)
4 同事
(爲欲親近善知識及令善心無間斷故)
他者に協力すること。
(善知識に近づき親しみ、自他の善心が途切れること無くあれと願うために。)
四波羅夷
1 不應捨正法而起邪行戒 すべての如来所説の正法を学ぶことに倦まず、捨てず、邪行(仏教以外)に走らない。
2 不應捨離菩提心戒 大乗に絶望し、菩提心を捨てて、小乗の悉地や施与による人天の果報を求めない。
3 於一切法不應慳恡戒 すべての(仏の)教えを、求める人にその時機が適っている場合には、教授すること惜しまない。
4 不得於一切衆生作不饒益行戒 すべての衆生に対し、布施・愛語・利行・同事の四攝法に相反する行いをなさない。
十重戒
1 不應退菩提心
(妨成佛故)
菩提心を後退させてはならない。
(成仏の妨げとなるため。)
2 不應捨離三寶歸依外道
(是邪法故)
三宝への信を捨て、外道に帰依してはならない。
(邪法であるため。)
3 不應毀謗三乘教典
(皆佛法故)
菩薩乗・縁覚乗・声聞乗の三乗の教典を謗り、非難してはならない。
(いずれも仏法であるため。)
4 於甚深大乘經典不通解處不可生疑
(非凡夫境界故)
甚深なる大乗経典において、己が理解できない点について疑いを生じてはならない。
(常人の理解を超えたものであるため。)
5 若復有人已發菩提心者不應説如是法
(令彼退菩提心趣向二乘斷三寶種故)
すでに菩提心を発している者には、密教を説いてはならない。
(彼の菩提心を退かせて二乗に趣かせ、三宝種を断ってしまうため。)
6 見未發菩提心者亦不應説如是法
(令彼發於二乘之心違本願故)
いまだ菩提心を発していない者にも、密教を説いてはならない。
(彼に二乗の心を起こさせ、本願に違わせるため。)
7 對小乘人不應輒説深妙大乘
(恐彼生謗獲大殃故)
小乗の人に対し、容易に深妙なる大乗を説いてはならない。
(おそらく彼は大乗を謗り、その為に彼が大きな災いを得るであろうため。)
8 不應發起邪見
(斷善根故)
常見・断見など邪見を起こしてはならない。
(善根を断ずるため。)
9 於外道前不應自説我具無上菩提妙戒
(令彼以嗔害心求如是法不能辨得退菩提心。二倶損故)
外道の者に対し、自分から「私は無上菩提の妙戒を受持しているのだ」などと言ってはならない。
(彼は怒り、害意をもって密教を求めることとなるも、ついに得られなかったならば、彼の菩提心を退かせる。畢竟、彼も菩提心も両方を損ずることになるため。)
10 但於有情中所損害及無利益。皆不應令自作及教他作
(見作隨喜即於利他法中及以慈悲相違背故)
生けるものを損害し、あるいは何ら利益を及ばさない行為は、自ら行ってはならない。また他者に行わせてもならない。
(それを見て随喜したならば、利他法ならびに慈悲にも相違するため。)

『秘密三昧耶仏戒儀』の中で空海は、「修四攝法及四波羅夷及十重戒《四摂法および四波羅夷および十重戒とを修めなければならない》」あるいは「将入陀羅尼門。復具三種三昧耶《まさに陀羅尼門に入ろうとするならば、また三種の三昧耶を備えなければならない》」と言い、『大日経』および『大日経疏』でも内容とされていない、四摂法と十重戒とを加えて三昧耶戒の内容として挙げています。

一体何に拠って、空海は四摂法と十重戒とを三昧耶戒の内容として示したのか。

それは、『大日経』系の密教を唐代の支那にもたらした善無畏が、漸悟を標榜したといわれる北宗禅の開祖神秀の弟子と思われている崇岳敬賢と対論(というよりむしろ彼からの質疑応答)した時のものが筆記・編集されたものという『無畏三蔵禅要』です。空海が日本に初めて唐から請来した典籍です。『無畏三蔵禅要』は、禅要などと銘打たれていますがその実はほとんど授戒次第であり、いわゆる禅宗の教義や修習法などとは全然関しない、特に密教徒の戒について説かれたものです。

どのような方法であれ、仏教の修道においては、戒・定・慧の三学を必ず次第して行わなければならないものです。それは合目的的であります。密教といえど、先ず戒をもってしなければならないのは変わりありません。『無畏三蔵禅容』は、あるいはそのような仏教として当然の手順・前提を示さんとして銘打たれたものかもしれません。

では、何を授戒するためのものであったか。それは大乗の菩薩戒〈三聚浄戒〉であって、三摩耶を内容とするものなどではありません。そこでは菩薩戒の内容として、ただ四摂法と十重戒とが挙げられるのみです。そもそも三摩耶という言葉自体、一語として説かれていない。また密教などと言っても、最後半部にて密教の修習について真言を交えてごく若干説かれている程度です。

しかし、空海は『秘密三昧耶仏戒儀』において、三聚浄戒(菩薩戒)の内容が三摩耶戒であると、これは善無畏が『大日経』系密教の継承者でありその注釈者でもあったからでもあるでしょう、いわば『大日経』および『大日経疏』所説の三摩耶戒と『無畏三蔵禅要』に説かれる菩薩戒とを統合しています。空海が『秘密三昧耶仏戒儀』で挙げている四摂法と十重戒とは、『無畏三蔵禅要』所説そのまま移植されたものです。

そして、さらにまた空海は、先に触れた不空によって漢訳された『受菩提心戒儀』も大きく取り入れています。同じく授戒の次第を説いている書ではありますが、空海は授戒の次第に関しては『無畏三蔵禅要』でなく、『受菩提心戒儀』に説かれる作法や真言などを採用しています。

唐代の真言密教の正統をもたらした空海により日本において主張された三摩耶戒は、空海が唐で恵果より受けたという発菩提心戒そのままのものではおそらくありません。ただ、それはまるで新しく独自の「空海謹製」なるものであったというわけでもありません。もしそのようなものであったならば、それは取るに足らない、仏教者の依るべきでないものとなるでしょう。空海自身、そのようなつもりはなど毛頭なかったに違いない。

それは、当時の唐に様々に伝わっていた密教行者に対する諸戒を、三摩耶の名のもと今示したような相応の典拠に依って統合されたものです。これは空海によってなされた、一つの大きな業績だったと言えます。そしてそれは、空海が海を隔てた異国からやってきたにも関わらず、支那に伝わっていた唐代の密教の正統なる継承者、いわゆる伝灯の阿闍梨となった自覚や自負があったからこそ成し得たことでもあったでしょう。

事実、空海によってこのような形でいわば統合・別出されて打ち出された三摩耶戒への理解は、真言宗にとどまらず天台宗にも大なる影響を与えており、実行されていくようになっています。

越三摩耶・越法罪について

密教において厳重に戒められる行為があり、今の真言や天台でもやかましく言われることがあります。それは、先に示した『大日経疏』に云われる「所有祕密之法無三昧耶者。不應爲説《この秘密之法を、三昧耶なき者には、決して説いてはならない》」という点。すなわち、三昧耶を受持していない者に対し、密教(の具体的修法)を決して説いてはならないということです。

これを犯すことを、特に超三摩耶法(越三昧耶法)あるいは単に超三摩耶(越三昧耶)、もしくは「有部律」の用語を用って越法罪などと言いいます。その越三摩耶となる具体的な行為を、『大日経疏』は以下のように記しています。

既聞是已。於一切眞言法中不敢違越。所以然者。若菩薩於衆生諸法中。作種種不平等見。則越三昧耶法。若於此平等誓中。作種種限量之心。亦越三昧耶法。諸有所作隨順世間名利。不爲大事因縁。亦越三昧耶法。放逸懈怠不能警悟其心。亦越三昧耶法。以越三昧耶故。有種種障生。自損損他無有義利。是故諸菩薩等。奉持此三昧耶如護身命。不敢違越也。
すでに是れ〈三昧耶〉を聞いたならば、一切の真言法において、敢えて違越してはならない。その所以は、もし菩薩が衆生と諸法とについて、(その本質において)様々に「平等ではない」との見解をもったならば、すなわち三昧耶法に越え違う。もし平等の誓願を起こしておきながら、さまざまに別け隔てして制限する心を起こしたならば、また三昧耶法を越える。すべて己が行動する中で、むしろ世間の名利を願い求めるのみで、(菩提という)大事の因縁とすることがなければ、また三昧耶法を越える。放逸・懈怠して、その心を奮い励ますことが出来なければ、また三昧耶法を越える。三昧耶を越えるために、様々な(菩提への)障害が生ずる。自らを損ない、他者を損なうのみで、無益なことである。そのようなことから諸菩薩等は、この三昧耶を奉持すること身命を護るが如くにして、敢えて違越してはならない。

一行記『大毘盧遮那成佛経疏』巻九(T39, p.675a)

ここに説かれる、なすべきでない四つの行為については、空海も先に挙げた『秘密三昧耶仏戒儀』の中で「四障」として言及しています。すなわち、「今入此三密門即身口意密復應淨除四障《今この三密門に入ったならば、すなわち身密・口密・意密において四障を断じなければならない》」という一節がそれです。この越三摩耶法ということについて、これは近世からのことなのでしょうか、今の密教徒にもひどく拡大解釈して用いる者がしばしば見られます。

例えば、「三昧耶戒(ひいては灌頂)を受けていない者に対しては、どのような真言であれ一語たりとも教えてはいけない。解説してはいけない」であるとか、「それが書かれている経典や論疏・儀軌はもとより、内容を解説している書物をすら見せてはいけない」、あるいは「三昧耶戒を受けていない者が真言・陀羅尼を唱えることも禁止されている」などと、ただ単純に言う者が比較的多くあるのです。

笑うべし。まったく愚かな謬見であると言わざるを得ません。

もし、であるとするならば、三摩耶を受けていない者に『般若心経』を読誦させると越三摩耶だということになるのでしょうか。なんとなれば、空海の『般若心経秘鍵』によれば、『般若心経』(特に最後の真言)は密教経典であると理解されているためです。まぁ、これは我ながら少々極端な物言いでありましょうか。

あるいは、海阿闍梨自身、唐に渡って正式に密教を受法する以前、吉野の何者かより虚空蔵求聞持法を習い、これを修習しています。このとき空海がすでに三摩耶を、ましてや灌頂を受けていたなどとは到底思えず、まずありえないことです。また近いところで言えば、偉大なる行跡をのこした大戦前の碩学長谷宝秀など、悩める学生時代を送っていた上山春平に、出家だの灌頂を受けさせてどうこうだのすることなく求聞持法を授け行わせています。

(すなわち、虚空蔵求聞持法を引き合いに出して言えば、それは今いわれるような意味での秘法などではなく、灌頂を受けていないものに教えてはいけないなどといったものでもない。)

そもそも、顕教の諸経典にも広く様々に真言・陀羅尼は説かれているので、そのような単純な物言いは全く妥当性を欠いたものです。そのような妥当性や根拠を欠いてではなく、越三昧耶ということを上掲の『大日経疏』ならびに『秘密三昧耶仏戒儀』に正しく従って言ったならば、現在の日本の密教を標榜する僧尼はほとんどすべて越三摩耶に該当することになるでしょう。

しかし、確かに、密教には「無資格者には他言無用」という側面があって、それは必ず遵守すべき規定であります。例えば、先ほど三摩耶の戒相を示したもののうち、十重戒の第五と第六などは、軽はずみに密教を他者に説くことを戒めた箇条でもありましょう。

(ここで、菲才は十重戒の第五と第六とにいわれる「不應説如是法(この如き法を説くことあたわず)」の「如是法」を、密教であると解して上の表にも記しています。ただし、これは異論のあるところです。真言の学者らによって普通一般には、これは密教のことではなく「なにごとか人の心をくじく教え・言葉」などとして理解され、解説されている場合が多いことを一応断っておきます。)

けれども、今挙げた『大日経疏』、ならびに先に挙げた空海の『般若心経秘鍵』の一節から明白なように、善無畏や一行、空海などは、そのように単純には全く考えていなかったことが知られます。密教、それはその教えの(たやすく邪な方向で誤解を招くことが予想される)内容の故に、誰彼かまわず闇雲に教えてまわって良いものではありません。

左右なく法を授れば、身語したたまらず。身語したたまらざれば、返て毒となるなり。法は無相なれば、いで臥せらんなんと云ふ人出来る也と云々。
左右の違いを無視するように(その者の能力をわきまえず)仏法を(無闇に)教え授ければ、(その者の)身体と言葉の行いがととのうことはない。身体と言葉とがととのうことがなければ、むしろ(仏陀の教えが)毒にすらなる。(相手の能力をよく見極めて教えを説かなければ、捉え違いをして)「仏陀の教えは様々に説かれたものであるから、さあ寝たまま何もせず、ありのままでいようではないか」などと言う者も出てくるであろう。

高信『栂尾明恵上人遺訓(阿留辺畿夜宇和)』

「秘密だ!」とわけも分からず言う輩がある反面、密教をして軽薄に、そして無理矢理に「時代に適合する」・「開かれた」・「やさしく、わかりやすい」布教などと言い、吹聴して周る(おおかた団塊の)者が多いのもまた事実。実際、非常に多くの「オダイシサマの末徒」と自称する僧職の人々は安直極まりない理解をしており、空海が聞いたら顔面色を失い、気が動転して耶蘇教にでも改宗してしまうような噴飯ものの「お説法」を他者に堂々と開陳しています。

例えば、よく耳にする手合のは、「あなたとホトケさまとはビョードー、実はあなたはホトケさまなのです!」だの「すべて人の行いは、それが煩悩にまみれていようとも、大日如来のお働きに同じ。そのままで、いいんだよ?」、「あなたのココロにはホトケ様が宿っているのです。だからココロが大事。ああ、どうしたものか、今の人達はそのココロを忘れ、蔑ろにしている。ナゲカワシヤァ」、「ミホトケのオチエとダイヒにつつまれ、我々はおかげ様で生きている。ああ、アリガタヤ、合掌!感謝!!ナムナム~」などなど。

ヒドイのになると、まぁどれも全部ヒドイものですが、「とにもかくにもお大師様におすがりすれば良い。念ずれば花開く。さすればきっと、おダイシサマが見守ってくださる、助けてくださる。同行二人!南無大師遍照金剛ぉ~(数珠をジャリジャリ揉みしだく)」などなど、挙げだしたらキリが無い。とはいえ稀に、一見そう間違ってもいないように思われる言が放たれることがあります。例として挙げた「ビョードー」云々というのもその類となるでしょう。

どこかで拾い読みしたか誰かから聞きかじったことを本人がその真偽を確かめることもなく、全く理解することもなく、ただ因襲的・雰囲気的・情緒的に語っているだけであって、むしろ端から全て間違っていることがほとんどのように思われます。この「平等」というのは、無自性・空性の理解があって始めて成立するものです。それは決して、味噌と糞を並べて「これらにはまったく違いなど無い、同じものだ。ビョードーなのだ」などと云うものではありません。

それにしても、そのような漫談とすら評し得る彼らの「トンデモお説法」を聴くことは、もはや愉快な娯楽とすらなり得るかもしれません。

実際、そのような漫談を至極真面目な顔でもっともらしく語っている中年や初老の僧職、山内住職らの横で座って聞いているとき、こらえきれずに失笑しそうになった経験は二度や三度ではありません。いや、二、三度は実際に吹き出してジロリと睨まれたこともあります。が、そのような中年・老人たちは何故に吹き出されたかを毛ほども理解出来ないので、こちらは平気なものです。

だいたい彼ら曰く、「これからは仏教の時代」・「このような価値観が多様化した、その故に混迷した今だからこそ密教の時代だ」そうであります。しかし、彼らの話の初・中・後いずこに仏教や密教があるのか皆目見当がつかないところが、この不毛なる漫談のオチでありましょう。いや、娯楽というなら山岡鉄舟と仏教(禅)を通じて縁のあった天才噺家、三遊亭円朝の落語を読んだほうがずっと良いでしょう。そこでは、まだよっぽど仏教が説かれている。

悲しむべし、憐れむべし。

しかしながら、そのような事態はなにも今に始まったことでもありません。

若し近代の学生の云ふ様なるが実の仏法ならば、諸道の中に悪き者は、仏法にてぞ有ん。
もし近代の学生〈学僧・仏教者〉らの言うようなのが本当の仏教だとしたら、諸々の道〈諸宗教・諸思想〉の中で悪しきものは、他ならぬ仏教であるのに違いない。

高信『栂尾明恵上人遺訓』(阿留辺畿夜宇和)

けれどもやはり、密教とはただ無闇に「秘密だ、深秘だ」などと隠し立てすれば良いというものではありません。