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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒法

三摩耶戒 Ⅲ. 三摩耶の本質

三摩耶の戒体

三昧耶戒は、菩提心を発した者で、密教を志す者ならば、すべからく受けたもつべき戒であります。その典拠、そしてその内容については以上に講じたとおりです。

ここではさらに三摩耶の戒体、すなわちその本質について、空海は以下のように述べています。

今所授三昧耶佛戒者。即是大毘盧遮那自性法身之所説真言曼荼羅教之戒也。若有善男子善女人比丘比丘尼清信男女等欲入此乗修行者先發四種心。一信心。ニ大悲心。三勝義心。四大菩提心。初信心者。爲欲決定堅固無退失故發此心。《中略》 
二大悲心者。亦名行願心。言外道二乘不起此心。《中略》 
爲欲簡擇如是諸法教發第三勝義心。亦名深般若心。《中略》 
四言菩提心者。此有二種。一能求菩提心。二所求菩提心。《中略》 
諸佛如來以此大悲勝義三摩地爲戒。無時暫忘。何故以此名戒。戒有二種。一毘奈耶此翻調伏。二尸羅翻云清涼寂靜。《中略》 
是則由大慈悲行願故。自然離十不善心。離十不善等即是調伏戒。由離其惡心故。心中得清涼寂靜。是則尸羅之戒。亦是饒益有情之戒。
いま授けるところの三昧耶仏戒とは、大毘盧遮那自性法身によって説かれた真言曼荼羅教〈真言密教〉の戒である。もし(在家の)善男子・善女人、(出家の)比丘・比丘尼など清らかな信ある男女で、この教えに入門して修行しようと欲するならば、先ず四種の心を起こさなければならない。一つには信心。二つには大悲心。三つには勝義心。四つには大菩提心である。初めに信心というのは決定堅固にして退くことがないようにと欲することから、この心を起こす。《中略》 
二つに大悲心とは、またの名を行願心という。外道および二乗の者はこの心を起こすことはない。《中略》 
世の様々な思想・宗教を選び抜くことを欲することから、第三の勝義心を起こす。これをまた深般若心という。《中略》 
四つ目に菩提心としたが、これには二種がある。一つは能求の菩提心、二つには所求の菩提心である。《中略》 
諸々の仏陀らは、この大悲と勝義と三摩地〈所求菩提心〉とを戒とされ、片時も忘れられることがなかった。何故これらが戒といわれるであろうか。戒には二種ある。一つ目は毘奈耶〈vinaya〉で「調伏」と訳される。二つ目は尸羅〈śīla〉で「清涼寂静」と訳される。《中略》 
すなわち大慈悲の行願によって、おのずから(殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見という)十不善の心を離れる。十不善などから離れることはすなわち調伏の戒である。そのような悪心から離れたならば、心中は清涼で寂静となる。これがすなわち尸羅の戒である。またこれを饒益有情戒という。

空海『三昧耶戒序』(『定本 弘法大師全集』, Vol.5, p.4)

このように空海は、『大日経疏』の所説のとおり、まず三昧耶戒が特に真言密教における戒であることを言います。同時に、密教を志す者は誰であれ、信心・大悲心・勝義心・大菩提心の四種の心を起こさなければならないとしています。そして、そのうち大悲と勝義と三摩地(大菩提心)とが「戒」である、と述べます。その典拠としているのは、空海が『釋摩訶衍論』にならんで真言門徒が必ず学ばなければならない最重要の論書とし、その学習を必須の義務として弟子らに課していた『金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論』いわゆる『菩提心論』です。

ここで空海は、それは梵語からすると誤った理解ですが、「戒有二種(戒に二種あり)」といい「一毘奈耶此翻調伏。二尸羅翻云清涼寂靜(一つは毘奈耶、此れ調伏と翻ず。二には尸羅、翻じて清涼寂靜と云う)」としています。

空海が戒の一つとして挙げる「毘奈耶」とは[S]vinayaの音写であっていわゆる律のことですが、確かにその意は制すること、「調伏」です。そして「尸羅」とは[S]śīlaの音写であって一般に戒と訳される語ですが、その原意は(良い)習慣、道徳のことであり、それを「清涼寂靜」と表して可なるものです。空海はここで、支那および日本で一般に「戒」と云いつつ実際意味する律儀(saṃvara / 規定・制止)と、その原意通りの意味で清涼寂靜(śīla / 道徳)とを、戒の意であるとしているのです。要するに、そもそも戒(śīla)と律(vinaya)とを混同した上で、さらに律と律儀(saṃvara)を混同しています。

けれども、「離十不善等即是調伏戒。由離其惡心故。心中得清涼寂靜。是則尸羅之戒(十不善等を離るは即ち是れ調伏の戒。其の惡心を離るに由るが故に、心中、清涼寂靜を得。是れ則ち尸羅の戒なり)」としていることからいえば、文脈上その誤りは大した問題になるものでありません。

ところで、空海が重要視した『菩提心論』と『釋摩訶衍論』とは、いずれも龍猛(龍樹)によって著されたものと真言宗において伝説されています。

しかしながら、『菩提心論』はまず龍猛によって著されたものなどではなく、むしろ訳者とされる不空により支那において著されたようにも思われるものです。それは現在の文献学者らによって初めてそのように言われだしたというのではなく、日本の天台宗でそのように見る者が古来あります。事実、例えば『大日経疏』のいわば略本である『大日経義釈』からの引用がある点などからして、到底龍猛が著したものと容認できるものではありません。

次に、『釋摩訶衍論』とは『大乗起信論』の注釈書です。摩訶衍とは[S]mahāyānaの音写で、すなわち大乗のこと。故に『釋摩訶衍論』とは、「大乗(起信)論の注釈書」という文字通りの題目です。しかしこれは、支那そして本邦にて古来、偽書・偽撰であると幾度も指摘され続けてきた問題の書です。たとえば本邦では、奈良時代後期に稀代の才人であった淡海三船を始め、空海と同時代の最澄によってもまた、まったく偽書であると指弾されています。

確かに、その内容は「全体としては」ほとんどまともに理解不能の、偽書であると断ぜられるのも無理からぬ、忌憚なく言ってしまえばひどく杜撰なものです。むしろ多く理解困難な点があることをもって、この書が深淵であるとか高尚であると謳う者もありますけれども。

しかし、空海が特に主張した不二思想などの重要な根拠となるため、(空海は全体としてではなく、むしろ自身の主張を裏付けえる理解可能な箇所のみを利用していると言えるのですが、)その著書で引用するところしばしばとなっています。そしてまた、先に述べたように宗祖たる空海自身が尊重せよと言い遺しているがために、真言宗では古来ことさらに重要視されてきた書です。

いずれにせよ、空海が『菩提心論』と『大日経疏』の所説とを斟酌し、さらに『釋摩訶衍論』の説を摂取して三昧耶戒について記したものが先に挙げた『三昧耶戒序』です。まず『菩提心論』には以下のように説かれています。

所以求菩提者。發菩提心。修菩提行。既發如是心已。須知菩提心之行相。其行相者。三門分別。諸佛菩薩。昔在因地。發是心已。勝義。行願。三摩地爲戒。乃至成佛。無時暫忘。唯眞言法中。即身成佛故。是故説三摩地於諸教中。闕而不言。一者行願。二者勝義。三者三摩地
菩提を求める者は、菩提心を発して菩提行を修すのである。すでにそのような(菩提)心を発したならば、須らく菩提心の行相を知らなければならない。その行相とは、三門に分別される。諸仏・諸菩薩は、過去に(菩提を求めて菩提行を修行する)因地にあったとき、この(菩提)心を起こして、勝義・行願・三摩地を戒とされていた。以来、成仏に至るまで、時として暫くも忘れられたことは無かった。ただ真言法〈密教〉に依ることによってこそ、即身成仏し得るために、三摩地(すなわち「如実知自身をもって菩提」とする密教の境涯)が説かれたのだ。(仏陀には)諸々の教えがあるといえども(真言法以外には)欠いて説かれない。一には行願、二には勝義、三には三摩地である。

《伝》龍猛『金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論』(T32, p.572c)

このように、『菩提心論』では、菩提心を起こした者が戒とし、そして為すべきこと(菩提心の行相)として、行願・勝義・三摩地の三つが挙げられます。しかし、先に示したように、空海は『三昧耶戒序』の中で、行願・勝義・三摩地の三種ではなく、信心・大悲心・勝義心・大菩提心という、それぞれ用語も異なった四種心を挙げています。

空海は何に基づいて『菩提心論』所説の三種ではなく、そのような四種としたのか。それは、また他に空海が援用することの多かった、『守護国界主陀羅尼経』にある以下の一文も斟酌したためであろうと目されています。

彼一切皆以信心而爲根本。以深般若而爲先導。大菩提心及大悲心以爲莊嚴。
彼らは皆、信心をもって根本とし、深般若を以って先導とし、大菩提心および大悲心をもって荘厳としたのである。

般若・牟尼室利訳『守護国界主陀羅尼経』巻十(T19, p.572a)

空海はしばしば、ただ単に学び伝えられたものを踏襲しただけではなく、諸典籍の思想を斟酌・統合するなどし新たに展開しています。そこでまた空海は第一に挙げた「信心」について、『釋摩訶衍論』における以下の一節をそのまま援用して示しています。

信有十種義。云何爲十。一者澄淨義。能令心性清淨明白故。二者決定義。能令心性淳至堅固故。三者歡喜義。能令斷除諸憂惱故。四者無厭義。能令斷除懈怠心故。五者隨喜義。於他勝行發起同心故。六者尊重義。於諸有徳不輕賤故。七者隨順義。隨所見聞不逆違故。八者讃歎義。隨彼勝行至心稱歎故。九者不壞義。在專一心不妄失故。 十者愛樂義。能令成就慈悲心故。是名爲十。
信には十種の意義がある。なにが十であろうか。一つには澄浄の義、よく心を清淨・明白にするからである。二つには決定の義、よく心を素直で確固たるものにするからである。三つには歓喜の義、よく様々な憂い・悩みを除くからである。四つには無厭の義、よく懈怠の心を除かせるからである。五つには随喜の義、他者のすぐれた行為に触発され、同調せんとする心を起こすからである。六つには尊重の義、諸々の徳ある人を軽んじたり卑しんだりしないためである。七つには随順の義、己が実際に見聞したことに異逆しないためである。八つには讃嘆の義、他者のすぐれた行為を心から称賛するためである。九つには不壊の義、心を専一にして忘失することのないためである。十には愛楽の義、よく慈悲心を成就させるからである。これらが名づけて十とする。

《伝》龍猛『釋摩訶衍論』巻一(T32, p.597a)

すなわち、三摩耶の戒体は菩提心であり、その菩提心は信心を本とされるものです。それは不空や空海によって、さらに三つの心に分類して示され、その三つが戒とされていることは以上述べてきたとおりです。これを視覚的にも理解しやすいよう、表にして示したならば以下の通りとなります。

三摩耶戒の戒体
- 本質
信心 (菩提に対して)ゆるぐことなく堅固で、退くことが無いようにと願うことから起こす心。澄浄・決定・歓喜・無厭・随喜・尊重・随順・讃嘆・不壊・愛楽との十義ある〈『釋摩訶衍論』説〉
菩提心 大悲心
(行願)
生きとし生けるものに、かつて我が子・我が父母・我が王・我が師(の四恩など)でなかった者は無い。その故に、己を後として彼らを助けんとする心。外道・二乗の者は起こすことのない心。
勝義心
(勝義)
世の道徳、諸宗教の異なりやその思想の浅深、功徳の大小、効能の遅速など、その相違を明瞭に知り、その優劣を測る智慧。
大菩提心
(三摩地)
菩提心には、能求の菩提心と所求の菩提心との二種がある。能求の菩提心とは、俗塵の世間を脱して「菩提(覚り)を求める心」。所求の菩提心とは、求められるべき菩提としての、あらゆる生けるものの心相の根源、それは無自性(空性)である。『大日経』に「祕密主云何菩提。謂如實知自心」とあるように、「如実に知るべき自らの心」の真相。十住心の第十秘密荘厳心に該当。『菩提心論』にいわれる三摩地とは、特にこの境地に住すること。
(空海がこれを大菩提心としたのは、「大」を付すことにより、一般的な意味での菩提心、すなわちここで言う能求の菩提心と峻別したか。その意味では「大菩提心」とはすべての物事の根源であって、三昧耶戒や一般的な意味での菩提心の本質。)

信とは何か ―仏法の大海は信を以て能入とす

ところで、「信」をもって菩提心の本とする理解、すなわち菩提を求めて仏道を歩むその根本とする思想、それは先に引いた『守護国界主陀羅尼経』や空海に独自のものというのではありません。

例えば、これを学び知ることなしには漢語圏の仏教を語ることなど決して出来ない書の一つといって全く過言でない、空海も大なる影響を受け、その著作で引用することしばしばなる『大般若経』の注釈書『大智度論』では、「信」というものについて以下のように説かれています。

佛法大海信爲能入。智爲能度。如是義者即是信。若人心中有信清淨。是人能入佛法。若無信是人不能入佛法。不信者言是事不如是。是不信相。信者言是事如是。譬如牛皮未柔不可屈折。無信人亦如是。譬如牛皮已柔隨用可作。有信人亦如是。《中略》 
復次經中説信如手。如人有手入寶山中自在取寶。有信亦如是。入佛法無漏根力覺道禪定寶山中。自在所取。無信如無手。無手人入寶山中。則不能有所取。無信亦如是。入佛法寶山。都無所得。佛言。若人有信。是人能入我大法海中。能得沙門果不空。剃頭染袈裟。若無信是人不能入我法海中。如枯樹不生華實。不得沙門果。雖剃頭染衣讀種種經能難能答。於佛法中空無所得。以是故。如是義在佛法初。善信相故。
仏法の大海は信をもって能入とし、智をもって能度となす。(経典の初めに言われる)「如是(このように)」というのは、すなわち「信」である。もし人の心中に清らかな信があれば、その人は仏法に入ることが出来るであろう。もし信がなければ、その人は仏法に入ることは出来ない。不信とは、「是事不如是(「このように」とあるけれども、それは嘘だ)」とすることで、それが不信というものである。信とは、「是事如是(「このように」とあるのは、そのとおりであろう)」と受け入れることである。《中略》 
また次に、経において「信とは手のようなものである」と説かれる。人に手があるならば、宝の山に入って、思うままに宝を手中に出来るようなものだ。信があることについても同様である。仏法という無漏の五根・五力・七覚支・八正道(などの三十七菩提分)や禅定という宝の山に入り、思うままにそれらを得られる。信が無いというのは、手が無いようなものである。手が無い者は宝の山に入ったとしても、何一つ得ることは出来ない。信が無いというのは、そのようなものだ。仏法という宝の山に入ったとして、何一つ得ることは出来ない。仏陀は語られた、「もし人に信があれば、この人は我が広大なる法海に入り、きっと四沙門果〈預流・一来・不還・阿羅漢〉を得るであろう。しかし、頭を剃り袈裟を染めたとしても、もし信がなければ、その者は我が法海に入ることは出来ず、枯れた樹が華や実をつけることがないように、沙門果を得ることは出来ない。頭を剃って衣を染めて種々の経を読み、するどい質問を投げかけ、またよく答えることが出来たとしても、仏法において虚しいだけで、何も得ることは出来ないであろう」と。このようなことから、「如是」の意義は仏法の最初にあるのである。善く信じているその姿であるから。

龍樹『大智度論』巻一 初序品中縁起義釈論第一(T25, p.63a)

『大智度論』にて言われる信とは、要するに「受け入れる」ことです。

このようにいう人は現代非常に多いと思いますが、「最初からその対象の全てを知り尽くした上でなければ到底信じられない」などというのはナンセンスです。そもそも、対象の全てを知り尽くしたならば、それを信じる必要など「まったく無い」。しかし、端から対象の全てを知り尽くせる者など、誰もいない。まず何事か、その対象を仮にでも受け入れなければ、なにも始まりません。

無論、その内容を後に他者によってではなく自らが「検証」することが、仏道における肝要です。その故に、「佛法大海信爲能入(仏法の大海は信をもって能入とす)」に続く一句において、「智爲能度(智をもって能度とす)」すなわち「智慧によって解脱がもたらされる」とされます。その智慧とは、誰か他者・他人の「オチエ」によるというのではなく、自ら法を検証し、証していくたゆまぬ努力によって磨かれていくものです。

けれども、物事には順序というものがあって、その第一はやはり、まず「受け入れること」でありましょう。

実はこの『大智度論』のくだりは『大日経疏』においてまさしく引用されており、ついには「菩提心は白浄信心の意である」と表明されています。すなわち、空海が菩提心の核が信であると述べていることは、ただしく『大日経疏』の所説に基づいたものです。

また、空海が引用した『釋摩訶衍論』は、信の義であるとして様々に敷衍していますが、最初に挙げられる「澄浄」というのは、まさしく仏教通じての信というものに対する理解です。例えば、大乗を学ぶ者でもその学習が必須である『阿毘達磨倶舎論』において、信という「心の働き」は、以下のように定義されます。

此中信者。令心澄淨。有説。於諦實業果中現前忍許故名爲信。
その中で、信〈śraddhā〉とは「心を澄み渡らせるもの」である。(説一切有部の)ある者らは、「四聖諦・三宝・業とその果報とを、まさしく明白なものとして受け入れること〈abhisaṃpratyaya〉を信という」と説く。

世親『阿毘達磨倶舎論』巻四 分別根品第二之二(T29, p.19b)

信の、仏教におけるそもそもの定義は、「心を澄み渡らせる心所〈心の働き〉」です。これを漢語では「信澄浄」と言います。すなわち信とは、そもそも誰人にも備わる心の働きの一つです。故にそれは、特に宗教などというものに興味も信仰を持っていなくとも、誰であれ当たり前に持っているものです。いや、これはわざわざ言うまでもないことでしょうけれども。

時に世間には、「私はいかなるものも信じてはいない」「私は信仰など有していない」などと宣う者があります。しかし、笑止千万。その言の自己撞着していることを知らねばならない。もっとも、そもそも釈迦牟尼は、その成道された直後のいわゆる「梵天勧請」の場面において、そのような意味での信仰というものを「捨てよ」と言われています。

apārutā tesaṃ amatassa dvārā, ye sotavanto pamuñcantu saddhaṃ.
vihiṃsasaññī paguṇaṃ na bhāsiṃ, dhammaṃ paṇītaṃ manujesu brahme.
耳ある者らに不死〈甘露。解脱・涅槃の喩え〉の門は開かれた、その信を解き放て!
梵天よ、私は(むしろ)害となるかと想って、微妙なる法を人々に説かなかったのだ。

Sagāthāvagga, Brahmāyācanasutta (SN 6.1)

あるいはまた、仏陀の説法に触れ「ついに真実の法を自ら悟り、また他に説ける覚者に出会えた」と帰依した、高名な修道者であったという老バラモンたるバーヴァリ〈Bāvari〉とその弟子ピンギヤ〈Piṅgiya〉らに対し、仏陀はこのように明言されています。

yathā ahū vakkali muttasaddho, bhadrāvudho āḷavi gotamo ca.
evameva tvampi pamuñcassu saddhaṃ, gamissasi tvaṃ piṅgiya maccudheyyassa pāraṃ.
ヴァッカリやバドラーヴダ、そしてアーラヴィ・ゴータマがその信仰を放棄したように、
汝もそのようにまた信を解き放て。 ピンギヤよ、汝は死の領域の向こう〈涅槃〉へと赴くであろう。

Suttanipāta, Pārāyanavagga, 1152 (KN 5.73)

仏陀ご自身によって、説法を開始することを決意されたその最初に「解き放て〈pamuñcantu〉」と言われた信〈saddha〉。「ヴァッカリやバドラーヴダ、そしてアーラヴィ・ゴータマらが持っていたような」既存の信仰・思想によって解脱を求めていた者らへ、「放棄せよ」と言われた信仰。それがむしろ今の日本で巷間行われ、信心深い・篤信などと評されさえする「ホトケ様をナムナム言って伏し拝む」だとか「ただただホトケ様を信じて」「手と手を合わせて幸せ~」だとかいう類の信であることは、まったく皮肉な話でありましょう。

ただし、上の一説を根拠とし、「仏陀は、仏教は、その最初期には信仰などというものを説かなかった」・「信仰を捨てていた」・「信なるものを否定し、棄てさせていた」などと、やたらに強調する人々があります。だいたい仏教徒というよりも「仏教学信者」と言える人々ですけれども。

確かに、見方によればそのような一面も認められるでしょう。

けれども、それは結局、そのような人々の「信仰なるものを認めない己の信仰」の故に、「人は、自分の見たいものだけを、見たいようにしか見ない」を地で行って、それを殊更に取り沙汰して固執し、特段に主張しているだけのことでしょう。

仏陀ご自身は、信というものに関して以下のようにも説かれています。

pamattabandhu pāpima, yenatthena idhāgato.
aṇumattopi puññena, attho mayhaṃ na vijjati.
yesañca attho puññena, te māro vattumarahati.
atthi saddhā tapo vīriyaṃ, paññā ca mama vijjati.
evaṃ maṃ pahitattampi, kiṃ jīvamanupucchasi.
怠惰なる輩よ、悪しき者よ、(汝は)なんであれ目的のためにここに来た。
(しかし)私は、(俗世間の)功徳を求める必要を微塵も見出さない。
〈悪魔〉は、(そのような)功徳を求める人々にこそ語れ。
私には信〈saddha〉があり、苦行〈tapo〉があり、努力〈vīriya〉があり、そして智慧〈pañña〉がある。このように専念している私に、どうして汝は(私の)生命を(永らえることを)尋ねるのか。

Suttanipāta, Mahāvagga, Padhānasutta 432-434 (KN 5.28)

これは修禅中の仏陀釈尊の前に現れた悪魔ナムチ〈Namuci〉の、痩せて不健康に見える釈尊に対し、努力や修禅を止めて延命し、ヴェーダを学習して護摩など火に仕えることによって俗世間の功徳を積めば良いという誘惑に対し、決然として応えられている中の一節です。

さて、あるいはまた、たとえばマルクス主義や毛沢東主義などを是とし、傾倒している人が、資本主義はもとよりいわゆる宗教一般(信仰なるもの)を否定して喧々諤々言っていたとしても、傍から見るとマルちゃんや毛坊を、まるっきり「ぴゅあ」(あえてひらがなで書きました)に信仰しているようにしか思えず、かなりアレな感じであるのは、そのためでありましょう。

信じることは、その対象がなんであれ、確かに人を「ぴゅあ」にさせるものです。そう、仏教の定義はまさしく正しいものであります。さりとて、「ぴゅあ」になることが必ずしも良いことではないのは、その例を挙げるまでもないでしょうか。仏教もただ「信じりゃいいさ」などとは決して言わない。故に、何を信じるのか、ということが大変重要となるわけで。

仏教では、そのように理解した上で、世親菩薩も「有説(一説には)」ということで紹介していますが、信は「四聖諦・三宝・業と果報(縁起)とに対する信受」であると特定して言われもします。そのような定義は、南方の分別説部にても同様にされています。

そう、仏教における信、それは「ホトケサマにひれ伏し、ナムナム拝んでアリガタイという」と言ったものではありません。その対象はまず第一に、四聖諦(四つの聖なる真理)であり、次に仏・法・僧の三宝、そして業とその果縁(縁起)に対するもの、というのが基本的な定義です。

すなわち、それは必ずしも「拝む対象」に対するものなどではない。いや、拝もうと思えばなんであれ、鰯の頭であっても拝めてしまうのでしょうけれども。けれども、人々と神々の師たる仏陀釈尊は、釈尊を慕って遠路はるばる我が身を拝しにきた若き人、ヴァッカリという名の弟子に、むしろ以下のように言われています。

Alaṃ, vakkali, kiṃ te iminā pūtikāyena diṭṭhena. Yo kho, vakkali, dhammaṃ passati so maṃ passati; yo maṃ passati so dhammaṃ passati.
「ヴァッカリよ、この汚れて悪臭を放つ(我が身体)を見ることが何であろうか?ヴァッカリよ、法を見る者は、私を見る。私を見る者は、法を見る」

Khandhavagga, Vakkali sutta (SN 22.87)

ここにいう法(Dhamma)とは何を意味するものでしょうか。[S]Dharmaあるいは[P]Dhammaの訳としての法とは、実に多義にわたる言葉であります。しかし、ここでの法はまさしく真理の意。それはすなわち、四聖諦であり縁起法、ひいては八正道や四念住をふくむ三十七菩提分法です。

(四念住については、別項「自灯明法灯明とは ―四念住(四念処)」を参照のこと。また仏陀が説かれたいわゆる「信仰」、ひいては思想一般に対する態度については、別項「Kesamuttisutta (Kālāma sutta) ―カーラーマへの教え」を参照のこと。)

菩提心とは何か

そこで次に、そもそも菩提心とは、大乗の諸派問わず大変に重要視される菩提心とは、一体いかなるものか。

菩提心とは、[S]bodhicittaに対する漢訳です。「目覚め」を意味する語bodhiはそのまま音写されて菩提とされ、cittaは心と漢訳されて菩提心という語を形作っています。あるいは双方漢訳された、覚心という言葉も用いられることがあります。あるいは菩提心とは、単なる菩提ではなく、無上正等覚(この上ない正しい覚り)すなわち「諸仏に等しい完全な覚り」を意味する、阿耨多羅三藐三菩提(anuttarāsamyaksaṃbodhi)と心(citta)が合した、阿耨多羅三藐三菩提心(anuttarāsamyaksaṃbodhicitta)の略です。

一般に菩提心とは、「(この上なく正しい)覚りを求める意志」の意として用いられます。「仏陀に等しい菩提」を求めるというのですから、基本的に阿羅漢果を目指す声聞乗においては言われることのない言葉です。

しかし、阿含経において、菩提心について説かれているのがただ一箇所だけなのですが、以下のように説かれています。

有五根。何等爲五。謂信根・精進根・念根・定根・慧根。何等爲信根。若聖弟子。於如來。發菩提心。所得淨信心。是名信根。何等爲精進根。於如來。發菩提心。所起精進方便。是名精進根。何等爲念根。於如來。初發菩提心。所起念。是名念根。何等爲定根。於如來。初發菩提心所起三昧。是名定根。何等爲慧根。於如來。初發菩提心所起智慧。是名慧根。
五根がある。何が五であろうか。いわゆる信根・精進根・念根・定根・慧根である。何が信根であろうか。もし聖弟子が如来のもと菩提心を発し、浄らかな信心を得たならば、これを信根というのである。何が精進根であろうか。如来のもと菩提心を発し、精進方便が生じたならば、これを精進根というのである。何が念根であろうか。如来のもと初めて菩提心を発し、念が生じたならば、これを念根というのである。何が定根であろうか。如来のもと初めて菩提心を発し、三昧が生じたならば、これを定根というのである。何が慧根であろうか。如来のもと初めて菩提心を発し、智慧が生じたならば、これを慧根というのである。

求那跋陀羅訳『雑阿含経』巻廿六[No.659](T2, p.184a)

この経にいわれる五根とは、三十七菩提分のうちのそれで、それが発菩提心を軸として説かれています。菩提心を起こしたからこそ、菩提分すなわち菩提の内容である五根が生じると説かれています。とは言え、ここに「菩提心とは何か」など詳しく説かれていません。また、パーリ三蔵に対応する経典が無く、また『雑阿含経』の梵本も伝わっていないため、ここにいう「菩提心」の原語が何かも不明です。そもそも、パーリ三蔵には菩提心(bodhicitta)という語は、一語としてありません。

ともあれ、菩提心とは、先に述べたように特に大乗において強調され、非常に重要視されるものです。大乗の修道において「菩提心無しに大乗などありえない」と言えるほどに、全く不可欠のものであります。

(ただし日本には鎌倉時代、それを行った浄土教祖、法然という者があります。菩提心を否定しているとしか思えぬ「法然が創始した浄土教」に対し、同時代の法相宗の貞慶上人、ならびに特に華厳宗の明恵上人などは、それは激烈なる批判を加えられています。)

菩提心というものがそれほど重要なものであるが故に、また私自身が浅学不肖であるために、それをここで言い尽すことなど到底出来ません。そこで、ここではただ、日本における三昧耶戒に関連する、密教関連の典籍のごく幾つかの一節と、空海がその自著において言及している一節とを徴することのみによって、それでは大いに舌足らずなものとはなりますが、菩提心について概説します。

まずは『大日経』の一説を示します。

世尊如是智慧。以何爲因。云何爲根。云何究竟。《中略》 
佛言菩提心爲因。悲爲根本。方便爲究竟。祕密主云何菩提。謂如實知自心。祕密主是阿耨多羅三藐三菩提。乃至彼法。少分無有可得。何以故。虚空相是菩提無知解者。亦無開曉。何以故。菩提無相故。祕密主諸法無相。謂虚空相。 爾時金剛手復白佛言。世尊誰尋求一切智。誰爲菩提。成正覺者。誰發起彼一切智智。 佛言祕密主。自心尋求菩提及一切智。何以故本性清淨故。心不在内不在外。及兩中間心不可得。《中略》 祕密主心不住眼界。不住耳鼻舌身意界。非見非顯現。何以故。虚空相心。離諸分別無分別。所以者何。性同虚空即同於心。性同於心即同菩提。如是祕密主。心虚空界菩提三種無二。此等悲爲根本。方便波羅蜜滿足。
(金剛手秘密主〈金剛薩埵〉は問うた。)
「世尊よ、そのような智慧〈一切智智〉は、何が因であり、何を根とし、何を究竟とするのでしょうか」《中略》 
〈大日如来〉は説かれた。
「菩提心を因とし、悲を根本とし、方便を究竟とする。秘密主よ、菩提とは何かといえば、いわゆる如実知自心〈無自性空なる自心の真相を知ること〉である。秘密主よ、この阿耨多羅三藐三菩提〈この上なく正しい覚り〉とは、微塵も得られるものではない。なんとなれば、菩提とは虚空のようなものであって、知解出来る者は無く、また開明されることも無い。なんとなれば、菩提は無相〈無自性〉であるから。秘密主よ、諸法もまた無相であって、それは虚空のようなものである」
その時、金剛手はまた仏陀に申し上げた、
「世尊よ、では何に一切智を尋ね求めたらよいのでしょうか。何をもって菩提として、何が正覚を成ずるのでしょうか。何が一切智智を発起するというのでしょうか」
仏は秘密主に説かれた。
「自心に菩提および一切智とを尋ね求めるべきである。なんとなれば、(心は)本性清浄であるから。心は内にあらず、外にもあらず。および内外の中間にも心を得ることは出来ない。《中略》  秘密主よ、心は眼界になく、耳・鼻・舌・身・意界にもない。見えるものではなく、現れるものでもないのだ。なんとなれば、心は虚空のようなものであって諸々の分別・無分別から離れているから。その故は何かと言えば、その本性が虚空と同様であれば、それは心と同じであり、その本性が心と同様であれば、それは菩提と同じであるから。そのように、秘密主よ、心と虚空界と菩提との三種は、別々のものでない。そ(の真理)は、悲を根本とし、方便波羅蜜を満足する」

『大毘盧遮那成仏神変加持経』巻一 入真言門住心品第一(T18, p.1b-c)

この「菩提心を因とし、悲を根本とし、方便を究竟とする」という一節は、伝統的に「三句の法門」といわれます。『大日経』における、もっとも有名な一節です。一切智智を得るその因となるものとして、まず菩提心が挙げられるのです。

そして、その求められるべきものとしての菩提とは、「如実知自心(自らの心の真相を知ること)」である。が、それは畢竟「得られるモノ」などでは微塵もない。それは虚空に等しいもの、すなわち無相(姿形もなく、不変の実体など全く認められないもの)である、と説かれます。ここに言われる虚空とは、文字通りの「お空」などではなく、無自性・空性(無自性空)の暗喩です。

そのようなことから、ついには心と虚空と菩提との三種が無二である、すなわち「心とは無自性空なるものであって、それを底から知ることが菩提である」説かれます。そしてその菩提心とは、空なる心の真相(空性)です。それはひいては、「すべての存在の実相が無自性空である」ことを示すものに他なりません。

この三句の法門からの一連の教説を、善無畏は『大日経疏』において、以下のように釈されています。そのすべてをここに紹介することは長きに過ぎるので、少々乱暴となりますが、その要点をのみかいつまんで示し、現代語訳はなるべく噛み砕いたものとしておきます。

故菩提心。即是白淨信心義也。《中略》 
又淨菩提心者。猶如眞金。本性明潔離諸過患。大悲如習學工巧。以諸藥物種種練冶。乃至鏡徹柔軟屈申自在。方便如巧藝成就。有所造作隨意皆成。規製中權出過衆伎故。其得意之妙難以授人也。《中略》 
若一切智智。即是菩提心者。此中誰爲能求誰爲所求。誰爲可覺誰爲覺者。又復離心之外都無一法。誰能發起此心。令至妙果者。若法無有因縁。而得成者。一切衆生。亦應不假方便自然成佛。故佛答言祕密主自心尋求菩提及一切智。何以故。本性清淨故。雖衆生自心實相。即是菩提。有佛無佛常自嚴淨。然不如實自知。故即是無明。無明所顛倒取相故。生愛等諸煩惱。因煩惱故。起種種業入種種道。獲種種身受種種苦樂。如蠶出絲無所因。自從已出而自纒裹。受燒煮苦。譬如人間淨水。隨天鬼之心。或以爲寶或以爲火。自心自見苦樂。由之當知離心之外。無有法也。若瑜伽行人。正觀三法實相。即是見心實相。心實相者。即是無相菩提。亦名一切智智。
菩提心とは、「白く浄らかな信心」を意味するものである。《中略》 
浄菩提心とは、たとえば純金のようなものであって、本質は混じり気がなく諸々の汚れ無きものである。大悲とは、(金を)色々な薬品を使って様々に冶金して美しく柔軟なものとし、形を自在にする金工を修練するようなものである。方便とは、金工芸の達人となって、造らんとする物を思うがままに造るようなものである。その製品の出来たるや、あらゆる芸に勝るものであるが、その技術の妙は、他者に容易く授け得るものではない。《中略》 
もし一切智智がすなわち菩提心であるというならば、その中で何が「能求〈求める主体〉」であり、何が「所求〈求められる対象〉」であり、何が「可覚〈覚られるべきもの〉」であり、何が「覚者〈覚る者〉」なのであろうか。また、心を離れては、他に一法もないというのならば、誰がこの(菩提)心を発起し、(仏陀の)妙果に至る者であろうか。もし、真理として、なんらの原因と条件なく(菩提を)成就するというのであれば、生ける者すべては、なんら方便に依ることなく自然に成仏することであろう。(しかし、そんなことは現実に無い。)そのようなことから、仏は(問いに)答えられて、「秘密主よ、自心に菩提および一切智とを尋ね求めるべきである。なんとなれば、(心は)本性清淨であるから」とお説きになった。生ける者の自心の実相は、すなわち菩提である。それは、仏が現れた世界であろうが、現れていない世界であろうが、常におのずから厳然たるものである。けれども、それは「如実知自」されないがために、無明となる。無明とは、物事をサカサマに歪んで捉えるものであるために、愛など諸々の煩悩が生じる。煩悩によって様々な行為をなすために、六道いずれかの境涯において、様々な生を受け、そこで多くの苦楽を受けるのである。それはあたかも、蚕が外的要因からでなく自ら糸を出し、自らまとって繭となり、むしろそれが元で(人に絹糸を採るために)煮られて苦しむようなものである。喩えば、人にとっては浄水であるものが、天や餓鬼らはその心にしたがって、あるいは(天は)宝であると見、あるいは(餓鬼は)火であると見るなど、自らの心に依ってその苦・楽を見いだすようなものである。この(一水四見の)喩えによって知るべきである、心を離れてモノは一つとしてありはしないことを。もし瑜伽行者が、正しく(煩悩と行為と苦との)三法の実相を観じたならば、それは心の実相を見るのである。心の実相とは、すなわち無相なる菩提である。これをまた、一切智智と言うのである。

一行記『大毘盧遮那成佛経疏』巻一(T39, p.587a-b)

善無畏は、三句の法門で示された菩提心と大悲と方便との関係性を、金と冶金と金工芸とに直喩し説明されています。続いて菩提心について註されている一節は、先に挙げた空海の『三昧耶戒序』において、四種心の一つとして挙げられている大菩提心の根拠となっている箇所です。空海が、能求や所求などという言葉自体もここから継ぎ、示していることが了解されるでしょう。

(ただし、空海は所求の菩提心をもって「無尽荘厳金剛界身」などと言い、大悲胎蔵生を説くこの『大日経』と『金剛頂経』系の金剛界とを合して理解してもいます。)

あるいはまた、これは先に三摩耶戒の項でも挙げたなかにある一節ですが、不空によって訳されたとされる『受菩提心戒儀』においても、菩提心について簡潔に偈によって示されています。

今所發覺心 遠離諸性相
蘊界及處等 能取所取執
諸法悉無我 平等如虚空
自心本不生 空性圓寂故
いま起こしたところの覚心〈菩提心〉は、諸々の性・相、
五蘊・十八界および十二処など、能取・所取の執着から遠離する。
諸法は悉く無我であり、平等にして虚空のようなものである。
自心は本不生にして、空性・円寂なるが故に。

不空訳『受菩提心戒儀』(T18, p.941a)

このような『大日経』ならびに『大日経疏』等々の経論における所説を正確に受け、空海は菩提心について、以下のように表現しています。

所謂菩提心者。即是諸佛清淨法身。亦是衆生染淨心。尋逐根源本無生滅。十方求之終不可得。離言説相離名字相離心縁相。妄心流轉即名衆生染汚之身。開發照悟即名諸佛清淨法身。
いわゆる菩提心とは、すなわち諸仏の清淨法身であり、また衆生の染淨心である。その根源を探し尋ねたとしても本より生滅するものでなく、十方にその根源を探し求めたとしても、結局見つけ出すことなど出来はしない。言語表現を離れ、文字表現を離れ、認識しえる形象を離れている。(菩提心の真相に対して)妄心流転していることをすなわち「衆生の染汚なる身」であると名づけ、開発照悟していることをすなわち「諸仏の清淨法身」と名づける。

空海『秘密三昧耶佛戒儀』(『定本 弘法大師全集』, Vol.5, pp.165-166)

この空海による菩提心についての所言は、ただこれのみを読んだだけの者にば、いわば「なんのこっちゃわからん」と思われるものでしょう。もし、これだけ読んでその意味が正確に解ったというのであれば、逆にちょっとどうかしている。

あるいは大師教信徒であったならば、まるで理解できないながらも、その脳内お花畑を咲かす種になってしまうかもしれない言葉でもあるでしょうか。しかしその場合、この空海の言葉に関連した、いわゆる「煩悩即菩提」についてのご都合主義的、浪漫的解釈のお花が咲き乱れることになる。

真言密教の嗣法たる空海を、日本における根本の大阿闍梨として奉ずる朋輩ならば、空海がいったい何をもってそのように言ったか、その言の背景にある経説がどのようなものであるか、そもそも仏教としてどうであるのかを真摯に学び、知らねばなりますまい。

それを無視して、ただ因習的・盲目的に「ナムナム」言って伏し拝み、実は経論の一節を引用あるいは簡便に説いているに過ぎないものを、「お大師様の素晴らしいおコトバ」などと言い、訳もわからぬままにそれを我田引水・牽強付会して軽々浅薄な意に用いること。極悪にして無知なる我が身を差し置いていうのも憚られますが、それはむしろ空海、ひいては仏教そして密教を貶めていると何ら変わりありません。