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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏垂般涅槃略説教誡経』(『仏遺教経』)

仏陀の遺言とその後

仏陀の遺言

仏陀が亡くなる直前、アーナンダ〈[S/P]Ānanda. 阿難〉に遺されていたとされる言葉、いわゆる遺言に以下のようなものがあります。

阿難。汝謂佛滅度後無復覆護失所持耶。勿造斯觀。我成佛來所説經戒。即是汝護是汝所持。阿難。自今日始聽諸比丘。捨小小戒上下相呼。當順禮度。斯則出家敬順之法。
「アーナンダよ、お前は私〈仏陀〉が滅度した後、あるいは『覆護〈庇護.師〉はもう無く、(私は)所持〈持つべきもの。師という規範、あるいは戒律の意か?〉を失ってしまった』と云うかもしれない。しかし、そのように見てはならない。私が仏陀となってからずっと説いてきた教え〈経〉や律〈戒〉がお前の覆護であり、お前の所持である。
 アーナンダよ、今日より以降、諸比丘〈僧伽〉小小戒しょうしょうかい〈些細な重要でない律の条項〉を捨てることを許す。また(比丘の)上座と下座とが互いに呼び合う際には礼度に順ずぜよ。それが出家における敬順きょうじゅんの法である」

佛陀耶舍・竺佛念訳『長阿含経』巻四『遊行経』(T1, p.26a-b)

『仏遺教経』がその最後の時に限ったものであるのに対し、仏陀が般涅槃はつねはんされる前後の顛末をより長く伝える『遊行経ゆぎょうきょう』において、仏陀はその亡くなられる直前、ご自身がそれまで様々に制定されてきた律のうち「小小戒しょうしょうかいを捨てても良い」とされていたと伝えられています。またご自身滅後の比丘同士の接し方についても、それまでとは異なる方法に依ってすべきことを許された、ともされています。

しかし、ここにはいくつかの点でわかりにくい点、不明瞭なところがあるため、この一節に該当する分別説部所伝のMahāparinibbānasuttaマハーパリニッバーナ・スッタ(以下、『マハーパリニッバーナ・スッタ』)でどのように伝えられているかも併せて示します。

atha kho bhagavā āyasmantaṃ ānandaṃ āmantesi — “siyā kho panānanda, tumhākaṃ evamassa — ‘atītasatthukaṃ pāvacanaṃ, natthi no satthā’ti. na kho panetaṃ, ānanda, evaṃ daṭṭhabbaṃ. yo vo, ānanda, mayā dhammo ca vinayo ca desito paññatto, so vo mamaccayena satthā. yathā kho panānanda, etarahi bhikkhū aññamaññaṃ āvusovādena samudācaranti, na kho mamaccayena evaṃ samudācaritabbaṃ. theratarena, ānanda, bhikkhunā navakataro bhikkhu nāmena vā gottena vā āvusovādena vā samudācaritabbo. navakatarena bhikkhunā therataro bhikkhu ‘bhante’ti vā ‘āyasmā’ti vā samudācaritabbo. ākaṅkhamāno, ānanda, saṅgho mamaccayena khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni samūhanatu.
そこで世尊は、尊者アーナンダに語られた、
「アーナンダよ、お前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師は亡くなられた。師はもういないのだ』と。しかし、アーナンダよ、そのように見てはならない。アーナンダよ、私がお前たちのために説いた教え〈Dhamma. 法〉と制した律〈Vinaya. 比丘の行動規定・禁則〉とが、私の死後に師となろう」
「また、アーナンダよ、いま比丘たちは、互いに『友よ!〈Āvuso〉』と言って会話している。しかし、私の死後に、そのように会話してはならない。アーナンダよ、上座の比丘は、新しくなったばかりの比丘に対して、その名前あるいは姓により、あるいは『友よ!』と(呼びかけて)会話すべきである。新しくなったばかりの比丘は、上座の比丘に対して、『大徳よ!〈Bhante〉』あるいは『尊者よ!〈Āyasmā / Āyusmā〉』と(呼びかけて)会話すべきである」
「アーナンダよ、私の死後、僧伽がもし望むのであれば、諸々の些末で、些細な学処〈khuddānukhuddakā sikkhāpadā. 小小戒〉は廃止せよ

Mahāparinibbānasutta, Tathāgatapacchimavācā (DN16.36)

この『マハーパリニッバーナ・スッタ』と先に示した『遊行経』では、その順序が前後しているといった小異は見られますが、内容的にはまったく同じと言ってよいでしょう。もっとも、『遊行経』では「上下相呼。當順禮度(上下相呼ぶに、まさに礼度に順ずべし)」などとされるのみで、肝心なその「礼度」とはどのようなことか示されていません。しかし、この『マハーパリニッバーナ・スッタ』では非常に具体的にされており、だからといってそれが必ずしも『遊行経』で意図されたものと全く同じとも限らないのですが、その詳細を知ることが出来ます。

なお、僧伽における上下関係は、その者の出自の貴賤や才能の有無などに関わらず、ただ具足戒を受けた先後に依ってのみ決定されます。より先に具足戒を受けた者が上座となるのです。そこでその上下の者の仏滅後のあり方として、 上臈じょうろうの者がより浅臈せんろう の者に対して「友よ」であるとか、その姓あるいは名で呼びかけることは出来ても、浅臈の者は上臈に対してそのようにしてはならず、ただ「大徳よ」・「尊者よ」と呼びかけるという制にせよ、と釈尊は言い残されたとされています。

実際、この制は南方の分別説部が伝わった諸国において、今なおその通りに実行されています。

しかし、ここで注目すべきことは、前項で指摘した『仏遺教経』における波羅提木叉はらだいもくしゃについての「若我住世無異此也(もし我、世に住すれども此れに異なること無けん)」という一節と撞着していると思えることを、また釈尊は言い遺されたとされている点です。『遊行経』で「聴諸比丘。捨小小戒(諸比丘に小小戒を捨てることを許す)」と言われ、また『マハーパリニッバーナ・スッタ』では「saṅgho mamaccayena khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni samūhanatu(僧伽がもし望むのであれば、諸々の些末で、些細な学処は廃止せよ)」と云われている点です。

これは一体どうしたことか。そしてまた、釈尊が廃止してもよいと言い遺されていたという「小小戒しょうしょうかい(khuddānukhuddakā sikkhāpadā)」とは一体何でしょうか。

(もう一点、ここで注意すべきは、漢訳では「小小戒」とされているものの、パーリ語では「khuddānukhuddakā sikkhāpadā」すなわち「小小戒」でなく「小小学処」である点です。一般に、戒と学処を混同して全く同じものであると考える者が学者にも僧職者にも多くありますが、その両者は似て非なるものであって同義ではありません。ここでは従来の漢訳に倣って「小小戒」との語を用いますが、本来は「小小学処」であることに留意する必要があります。)

小小戒とは何か

実は釈尊が亡くなられた直後、弟子の中に、その死を聞いて「我々はもはや自由だ!」などと喜ぶ比丘がありました。これを直接耳にして非常なる危機感を覚えたマハーカッサパ〈[S]Mahākāśyapa, [P]Mahākassapa. 摩訶迦葉.大迦葉〉は、仏教を今後正しく伝えていくために仏陀の言葉を集成することを提案。そのために、僧伽によって五百人の比丘が選出されています。そして、伝統的に 結集けつじゅうあるいは第一結集、集法毘尼しゅうほうびに と称される、仏陀が残された法(教え)と律(戒律)とを編纂するための大会議が開かれています。

それは仏陀が般涅槃された三ヶ月後に開かれたのですが、その際、「小小戒」が何であるかが一大問題となっています。

時諸比丘。從毘舍離往王舍城作如是言。我等先當作何等。爲當先治房舍臥具。先論法毘尼耶。皆言。先當治房舍臥具。即便治房臥具。時大迦葉以此因縁集比丘僧。中有陀醯羅迦葉作上座。長老婆婆那爲第二上座。大迦葉爲第三上座。長老大周那爲第四上座。時大迦葉。知僧事即作白。大徳僧聽。若僧時到僧忍聽。僧今集論法毘尼。白如是。時阿難即從坐起偏露右肩右膝著地合掌。白大迦葉言。我親從佛聞。憶持佛語。自今已去。爲諸比丘捨雜碎戒。迦葉問言。阿難汝問世尊不。何者是雜碎戒。阿難答言。時我愁憂無頼失。不問世尊。何者是雜碎戒時諸比丘皆言。來我當語汝雜碎戒。中或有言。除四波羅夷。餘者是雜碎戒。或有言。除四波羅夷十三事。餘者皆是雜碎戒。或有言。除四波羅夷十三事二不定法。餘者皆是雜碎戒。或有言。除四波羅夷十三事二不定法三十事。餘者皆是雜碎戒。或有言。除四波羅夷乃至九十事。餘者皆是雜碎戒。時大迦葉告諸比丘言。諸長老。今者衆人言各不定。不知何者是雜碎戒。自今已去。應共立制。若佛先所不制。今不應制。佛先所制。今不應却。應隨佛所制而學。時即共立如此制限
そこで諸々の比丘たちは、ヴェーサーリー〈毘舍離.[S], [P]Vesali〉からラージャガハ〈王舍城.[S], [P]Vesali〉に行くと、このように言った、
「我々はまず何を為すべきであろう。まず(結集でしばらく滞在するための)房舍や臥具を修理し整えるべきであろうか、まず(釈尊の遺された)法〈[S]Dharma, [P]Dhamma. 教え〉と律〈毘尼耶.[S/P]Vinaya. 毘奈耶.比丘の行動規定・禁則〉とを論じるべきであろうか」
皆がいうには、
「まず房舍と臥具とを修理し整えるべきだ」
とのことであったため、房舎と臥具とを修理した。そこでマハーカッサパは、その条件が整ったことによって比丘僧伽〈比丘僧.[S]Bhikṣusaṃgha, [P]Bhikkhusaṇgha〉を招集した。その中、 陀醯羅迦葉だけいらかしょう〈未詳.[S]Dikkarakāśyapa?〉が上座となり、長老婆婆那ばばな〈未詳.[S]Bhāvana?〉が第二上座となり、マハーカッサパは第三上座となり、長老マハーチュンダ〈大周那.[S/P]Mahā-Cunda〉が第四上座となった。そこでマハーカッサパは僧事そうじ〈僧伽の行事(会議).ここでは「羯磨師」という僧事における議長〉を司ることになってびゃく〈僧事における議題を発議すること.ここでは発議(告知)のみの単白羯磨〉をなした。
「大徳僧よ、聞きたまえ。もし僧時が到ったならば僧伽は忍聴にんちょう〈静聴して承認すること〉せよ。僧伽は今、集まって(釈尊の遺された)教えと律とを論じる。白すること以上」
するとアーナンダは坐から起ち、(衣を片肌脱ぎにして)ひとえに右肩を顕し〈敬意を示すための衣の着用法。偏袒右肩〉、(身を屈して)右膝を地につけ合掌し、マハーカッサパに申し上げた。
「私は親しく仏陀からお聞きした、仏陀の言葉を憶持〈記憶〉しております。『今より以降、諸々の比丘の為に 雑碎戒ぞうさいかい 〈小小戒に同じ〉を捨てよ』と」
そこでカッサパは質問した。
「アーナンダよ、お前は世尊にお尋ねしたのかどうか、『何が雑碎戒でしょうか』と」
アーナンダが答えて言う。
「その時、私は(釈尊がもうすぐ亡くなられて)頼るべきものを失うという憂い悲しみにより、世尊にお尋ねしませんでした、『何が雑碎戒でしょうか』と」
そこで諸々の比丘たちは皆、
「来たれ、私がお前たちに雑碎戒について語ろう」
と言った。そんな中、ある者は「四波羅夷〈[S/P]pārājika. 最重罪〉を除き、その他は雑碎戒である」と主張し、またある者は「四波羅夷と十三事〈[S]samghāvaśeṣa, [P]saṅghādisesa. 十三僧残.重罪〉とを除き、その他はすべて雑碎戒である」と主張、ある者は「四波羅夷と十三事と二不定法〈[S/P]aniyata, 重罪違反の嫌疑〉とを除き、その他はすべて雑碎戒である」と主張し、ある者は「四波羅夷と十三事と二不定法と三十事〈[S]naihsargika prāyaścittika, [P]nissaggiya pācittiya. 捨堕.所有物に関する規定〉とを除き、その他はすべて雑碎戒である」と主張し、ある者は「四波羅夷から九十事〈[S]prāyaścittika, [P]pācittiya. 単堕.禁止される行為〉までを除き、その他はすべて雑碎戒である」と主張した。そこでマハーカッサパは諸々の比丘に告げて言った。
「長老たちよ、今、多くの人の主張はそれぞれ食い違っている。それはつまり、何が(釈尊が廃止しても良いと言われた)雑碎戒であるかを(誰も)知らないのである。今より以降、まさに(結集に参加した五百人の阿羅漢全員と)共に制を立てよう。『もし仏陀が以前、制されなかった事項はもはや制さず、仏陀が以前、制された事項はもはや不廃止せず、まさに仏陀が(ご生前)制された通りに学んでいくべきである』と」
そこで(結集に参加した比丘全員は、)共に以上のような制限を立てた。

佛陀耶舍・竺佛念訳『四分律』巻五十四(T22, p.967b)

以上のように、『四分律』では雑砕戒ぞうさいかい とあり、他にも漢訳の律蔵では 微細戒みさいかい〈『十誦律』〉あるいは細微戒さいみかい 〈『摩訶僧祇律』〉などと訳されていますが、すべて小小戒に同じです。

なお、律蔵によっては、これが問題となったのが結集直前であったとする説と結集の最後とする説があるなど若干相違しています。また、『四分律』では、結集を開いた動機が「外道〈仏教以外の宗教者、思想家〉から『沙門ゴータマの教えと律は煙のようなものだ。彼が生きていたときは皆守っていたが、死んでしまえば誰も守る者がない』などと批難され、 揶揄 やゆ されないようにとするため」であったとするのに対し、『パーリ律』などではそれは仏陀の定められた戒律を一切廃止しない理由であったとしているなど、やはり律蔵によってその所伝をやや異にしています。

いずれにせよ、釈尊がいわれた「小小戒」とは諸々の律の規定のうち具体的に何を意図されたものであったか、結集に参加していた五百人の比丘たちの意見はまったく一致しませんでした。そこで結局、仏滅以降の僧伽の態度として、「釈尊が生前定められていた律について、以降は決して新たに追加で制することはなく、また一つとして廃止することも無い」ことが決定されたのでした。

ところで、『仏遺教経』にある、仏滅後は波羅提木叉が大師であるとする所伝について、以上に示した『遊行経』や『マハーパリニッバーナ・スッタ』などの経典ではただ波羅提木叉に限られておらず、釈尊が遺された「法と律とをもって師とせよ」とされています。ここで「律」とは波羅提木叉に同じと理解してよいものです。

そして「小小戒を廃止してもよい」とされたという仏陀の言葉と撞着するものではないかと思える、波羅提木叉について「若我住世無異此也(もし我、世に住すれども此れに異なること無けん)」という一節について、法顕によって漢訳された『大般涅槃経』の該当箇所では、以下のように伝えられています。

爾時如來告阿難言。汝勿見我入般涅槃便謂正法於此永絶。何以故。我昔爲諸比丘。制戒波羅提木叉。及餘所説種種妙法。此即便是汝等大師。如我在世。無有異也。阿難。我般涅槃後。諸比丘等。各依次第。大小相敬。不得呼姓。皆喚名字。互相伺察。無令衆中有犯大戒。不應𨶳〈闚の譌字〉求覓他細過。
その時、如来はアーナンダに告げられた、
「おまえは、私が般涅槃に入っても『正法はこれで永く絶えた』と見てはならない。何故ならば、私が以前から比丘たちの為に制してきた戒波羅提木叉、および他に説いてきた種種の妙法、それらがすなわちおまえ達の大師であるのだから。それらは私が世に(長く生き永らえて)在ったとしても、変わることはない。アーナンダよ、私が般涅槃した後は、諸々の比丘たちは、それぞれの法臈〈次第.具足戒を受けてからの年次〉に依り、その大小に従って相い敬うようにせよ。姓で呼んではならない。皆がその名字をもって呼びあえ。互いに相い伺察して、衆〈僧伽〉の中で大戒を犯さぬようにせよ。(衆の中で)他者の細過〈わずかな過失〉をひそかに探し回ってはならない」

法顕訳『大般涅槃経』巻下(T1, p.204b-c)

この法顕による『大般涅槃経』の一節においてもまた、仏滅後は「波羅提木叉」(律)と「種種妙法」(法)が「汝等大師」であるとされていますが、「如我在世。無有異也(我が在世の如く、異なり有ること無し)」とする点は、『仏遺教経』の「若我住世無異此也」と同じです。

もっとも、この『大般涅槃経』の一節の後半部は、先に示した『遊行経』や『マハーパリニッバーナ・スッタ』の所伝とやや異なったことを伝えています。それは仏滅後における互いの名の呼び合い方を姓ではなく互いに名を用いよとしている点と、「小小戒を廃しても良い」とは必ずしもされていない点です。これは読み方に依って種々に解釈しうる一節となっており、そのまま単純に読めば、互いに大戒は厳持するようよく注意すべきであるけれども細過に必ずしも拘泥する必要はない、と言っているように理解出来ます。

いずれにせよ、何らかの学処を「廃しても良い」とまでは言われていないことから、『大般涅槃経』においては「如我在世。無有異也」とする言葉に矛盾は生じていません。

ここで他の経典と比較した場合、それがクマーラジーヴァの手落ちによるものであったか作為的なものであったか、あるいは原典にその一句が無かったのかわかりませんが、『仏遺教経』では「波羅提木叉」だけ挙げられて「法」が欠落していることがわかります。

さて、仏滅後に小小戒とは何なのかわからず、ついに廃止されないことになったため、結果的には波羅提木叉は「若我住世無異此也」と同じこととなっています。が、やはり釈尊が小小戒の廃止に言及されていたことは必ず知っておくべきことです。そしてまた、仏滅後の結集の事前にそれが何を意味するのかが問題となり、結局は廃止も加増も今後しないと僧伽として決定されていたという伝承も共に踏まえる必要があります。