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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』

支那における位置

支那における『仏遺教経』の普及

『仏遺教経』は、仏徒必読の経典として支那以来、また日本においても古代から全宗派的に読まれ重用されています。

クマーラジーヴァが『仏遺教経』を支那にもたらし翻訳したとされるのは五世紀初頭ですが、彼はまた同時に支那にて初めてとなる律蔵〈『十誦律』〉も訳出しており、それによって正統な戒律がようやく伝えられ、運用され始めていました。支那に仏教が伝来したのは永平十年〈67〉とされますが、それからおよそ三百五十年を経てついに「仏教僧とはいかなるものか」ひいては「仏教とは何か」の真を、といってもあくまで大乗の立場からではあったのですが、仏教に信を持ち始めていた支那の人々はようやく知ったのでした。

そこで支那の僧徒はその姿を自身らも実現しようと努め、また次々他の律蔵やその注釈書が翻訳されていったこともあって、戒律の研究を急速に進めています。例えば六世紀の隋代に活躍した天台宗の実質的開祖、智者大師智顗ちぎ〈538-598〉は、まさにそのような流れの只中にあった人で、やはり『十誦律じゅうじゅりつ』を受持していました。

智顗はまた『仏遺教経』もよく読んで規範としており、その著作のあちこちで「遺教云」などと引用しています。その傾向は弟子の灌頂やその系統の湛然などにも引き継がれ、彼等もまたしばしば『仏遺教経』の言葉を引いています。それは別に天台系の学僧に留まる話ではなく、当時の学僧達は軒並み『仏遺教経』をよく参照していました。

しかし、『仏遺教経』が僧だけでなく広く民間にも読まれ知られるようになったのには、唐の皇帝による力が大きく働いたようです。それを示すのが、現在は大半が散失してその断片がわずかに残るのみとなっている勅撰漢詩文集、『文館詞林』の一節です。

唐太宗文皇帝施行遺敎經勅㫖 出文館詞林第六百九十三巻
法者如来滅度以末代澆浮。付屬國王大臣護持佛法。然僧尼出家戒行須備。若縦情淫佚觸途煩惱關渉人間。動違經律既失如來玄妙之㫖。又虧國王受付之義。遺敎經者是佛臨涅槃所説戒勒弟子甚為詳要。末俗緇素並不崇奉。大道将隠微言且絶。永懐聖敎用思弘闡。宜令所司差書手十人。多寫經本。務盡施行。所須紙筆墨等有司準給。其京官五品已上。及諸州刺史各付一巻。若見僧尼行業與經文。不同宜公私勸勉必遵行。
唐太宗文皇帝施行遺教経勅旨 出典:『文館詞林』第六百九十三巻
仏法は如来滅度して後、その末代は(人々の)道徳が衰えて浅薄となるが為に、国王・大臣ら為政者に託して仏法を護持させたのであった。そもそも僧や尼など出家たる者は、戒行すべからく備えべきものである。(しかるに、その出家者が)あるいは私情をほしいままにして淫らに遊興に耽り、あちこちで煩惱に溺れ、俗社会と関わりを持つなど、ややもすれば経と律の所説・所制に違えている。すでに如来が説かれた教えの玄妙なるその意味は失われ、また国王が(末世における仏法の護持を託され)受諾した意義も無くなってしまった。
『遺教経』はまさに仏陀が般涅槃されるに臨んで説かれたものである。その弟子らを教誡されること、まことに詳しく細やかであったものである。(しかしながら、)末世の俗なる出家在家のいずれの者もこれを崇奉せず、仏陀の示された大道はまさに滅亡の危機に瀕し、その微妙なる御言葉はまさに絶えようとしている。
(そこで朕は)永く聖教を護持し、この教えを実行して世に広めようと思う。まず所司〈管理職の役人〉に命じて書き手十人を選抜し、多くの経本を書写させ、務めてそれらをことごとく行わせよ。それに使用する紙・筆・墨などは有司〈官吏〉が準備せよ。京官〈在京の官僚〉で五品以上の位にある者、及び諸州の刺史〈長官〉には、それぞれ一巻を支給する。もし僧尼の行業が『遺教経』の経文に違背しているのを見たならば、是非とも官職にある者も私人たる者も、(経文に違背している僧尼をして)励まし務めさせ、必ず(『遺教経』の所説を)遵守させよ。

三縁山蔵版『仏遺教経』序

これによると、七世紀の高宗こうそう〈628-683〉は、これは北周の武帝 〈560-578〉による廃仏政策の影響がいまだ残っていたことによるためか、支那において仏教がまさに廃れんとしているとの危機意識があったようで、そこで『仏遺教経』を出家者のあるべきようの詳要を説くものとしてこれを僧尼に行わせる詔勅を発布。ついには仏教興隆させるため、『仏遺教経』を国中に弘めてその内容を僧俗共に知らしめ、国家を挙げてこれを行わせようとしていたことが知られます。これはまた高宗の仏教理解の一端も垣間見せるものです。

この高宗による施政は、仏教の基を知らしめるという点では真に功を奏したようで、仏教徒たるものすべからく読み、知るべき経典として唐の仏教徒の間に定着したようです。

『観音経』と『仏遺教経』

それは、ほぼ同時代の七世紀後半に支那から東南海を経て天竺へ渡っておよそ二十四年もの間、天竺および東南海の仏教事情を見聞・記録して数多くの仏典を持ち帰った、義浄三蔵のその報告書『南海寄帰内法伝』の以下の記述から知ることが出来ます。

五天創學之流。皆先誦此書讃。歸心繋仰之類。靡不研味終身。若神州法侶誦觀音遺教。俗徒讀千文孝經矣。莫不欽翫用爲師範。
全インドにおける(仏教の)初学者らは、皆先ず(Nāgārjunaナーガールジュナ〈龍樹〉によりサンスクリットで記された書簡)『密友書』と(Mātṛcetaマートリチェータ〈摩咥里制〉による仏教を讃嘆する詩偈)『四百讃』Varṇārhavarṇa-stotra・『一百五十讃』Śatapancāśataka-stotraとを誦習する。仏教に深く帰依する人々で、(それら書と讃とを)生涯に渡って学習・味読しない者など無い。それはあたかも神州〈支那〉の法侶〈仏教僧〉で『観音経』や『仏遺教経』とを誦し、また俗徒が『千字文』や『孝経』とを読んでいるようなものである。(それと同様に、これらの書と讃とを)敬い、深く学んで最高の見本としない者は無い。

義浄『南海寄帰内法伝』(T54, p.227c)

ここで義浄は、印度の仏教初学者らが必読の入門書とし、また同時に生涯に渡って珍重している書を報告。それは支那において『観音経』と『仏遺教経』とを必ず読むようなもの、または支那の俗人の初学者らが『千字文』や『孝経』を学ぶようなものであると例えています。

『仏遺教経』は宗派の別を問わず、仏教の初学者にまず仏教の何たるかを平易に開示する格好の入門書的経典であると同時に、しかしその生涯にわたって仏教徒としての指針、得難き亀鑑となるものとして、唐代の支那の仏教徒たちによって受け入れられていたことが、この記述からも知ることが出来ます。

支那以来日本でも、今なお人気のある『観音経』ですが、しかしそれだけ読んでみても「仏教」を理解することはまず出来ません。仏教の根本的教義や僧侶のあるべき姿など、『観音経』のどこにもまったく書かれていないためです。例えば、仮に『観音経』にある仏教の固有名詞をバラモン教におけるそれに置き換えただけで、「これは外道のバラモン教の聖典です」と言えてしまうほどであって、そこには仏教の教義はまったくと言っていい程ありません。

それは観自在菩薩という菩薩があって、苦しむ生ける者を救うために様々な姿に変化する、というだけの事が説かれているに過ぎません。そのような『観音経』を読むだけで「私はこれで仏教を理解しました」などと云う人があったならば、それは「私は全く仏教を全然理解していません」と言っているに等しい。したがって、ここでもう一方に『仏遺教経』あるいはそれに類する経典が挙げられていなければ、当時の支那で仏教など行われていなかったとすら言えてしまえたかもしれません。

しかし、『観音経』に説かれている類の信仰も、大衆には必要であったのでしょう。義浄が『観音経』と『仏遺教経』を挙げたのは、支那における当時の仏教への信仰やその姿を表したものです。その内容にまったく一致するところが無い、『観音経』と『仏遺教経』とが並列して挙げていることは面白いことでもあります。