『仏遺教経』が仏教とはいかなるものか、出家者のあるべきようを示すものとして、日本においてもまた広く、明確な形で読み継がれるようになるのは、鑑真が日本にはじめて正統な具足戒を伝来してからです。前項に述べたように、『仏遺教経』は鑑真渡来する少なくとも二十年前には日本に伝えられていました。そしてまた、『仏遺教経』に対する(世親によると伝説される)注釈書『遺教経論』は、玄昉によってもたらされていました。
しかし、鑑真もまた、これはその淡海三船による伝記『唐大和上東征伝』(以下、『東征伝』)に請来物として記載されていないことですが、『遺教経論』を持ちこんでいたことが知られます。
◯寫經雜物出納帳正倉院文書
塵芥(三十五裏書)
外嶋院
遺教經論一巻即奉請唐和上所
右、依牒奉送、天平勝寳六年四月五日正八位上行大學寮少属内蔵忌寸 全成
『大日本古文書』編年文書, vol.4, p.33
これは経論などの貸借を記録した当時(天平勝宝六年〈754〉)の公文書で、正倉院に伝えられたものです。これによって鑑真が『遺教経論』を日本にもたらしており、それを早速、写経処があった法華寺外嶋院が借り受け書写していたことが知られます。
そして鑑真が到来して後、その講律や伝戒の成果の一環としても『仏遺教経』の所説は、世に宏く知られるようになっていたであろうことが、『東征伝』の鑑真の記述からも伺えます。
寚字三年僧忍基於東大唐院講疏記僧善俊於唐寺講件疏記僧忠慧於近江講件疏記僧惠新於大安塔院講件疏記僧常巍於大安寺講件疏記僧眞法於興福寺講件疏記從此以來日本律儀漸漸嚴整師資相傳遍於寰宇如佛所言我諸弟子展轉行之卽爲如來常在不滅亦如一燈燃百千燈瞑者皆明明不絶
天平宝三年〈759〉、僧忍基は東大寺の唐禅院において疏記〈相部宗の注釈書.法励『四分律疏』・定賓『四分律疏飾宗義記』〉を講じ、僧 善俊は唐招提寺において件の疏記を講じた。僧忠慧は近江において件の疏記を講じ、僧恵新は大安寺の塔院において件の疏記を講じた。僧常巍も大安寺において件の疏記を講じ、僧真法は興福寺において件の疏記を講じた。それより以来、日本の律儀は漸漸として厳整となって師資相伝し、寰宇〈天下〉に遍く広まっていった。仏が「我が諸の弟子、展転してこれを行ぜば即ち如来の(法身)常在不滅とす」〈『仏遺教経』〉とお説きになったように。(それは)また、(維摩詰が)「一灯を百千灯に燃すが如し。瞑き者は皆な明明として絶えず」〈『維摩経』〉と言ったようなものである。
淡海三船『唐大和上東征伝』(T74, p.22a-b)
当時、鑑真とその弟子により律学が各所で教授され、それにより連綿と仏法が行われていたことが、ここでは『仏遺教経』の一節をもってこのように語られています。しかし、ただこればかりでなく、『仏遺教経』が日本の仏教諸宗通じて知られ、学ばれていたことを伝える確実な証拠があります。
鑑真ら外国僧らによって伝えられた比丘律儀(具足戒)が東大寺戒壇院など三戒壇にて授受されるとき、『仏遺教経』は受者に必ず講説されていたのです。受具足戒の一環として、それを特別に為すための「遺教経講師」さえ任じられています。
そのように受具足戒の際に『仏遺教経』が講じられるのは、鑑真が発案して日本で始めたものでなく支那以来の伝統であって、それを鑑真は日本でも踏襲し行ったのでした。そのようなことから、鑑真渡来以降は、その所属する宗派を問わず、具足戒を受けて正式な仏教僧となった者で『仏遺教経』を知らぬものなど一人として存在していません。
講遺教経章第三 今必爲沙彌戒次作可
先打鐘。次壇南令立一禮盤一高座。次受者等召入堂内壇下東西令居了。次大小十師共入堂。如沙彌戒時入堂無異。 只講師一人着甲袈裟。提香爐。令持衣鉢。弟子敷座具草座令登禮盤高座了。自餘諸德着平袈裟。不令持衣鉢香爐。講師倶共自北中戸入壇着座。次講師自衆中起。自壇西階下。手提香爐。從下層廻行南方之東橋。昇壇先着禮盤。三拝。 次昇高座。位次一禮。 次梵唄。以東方沙彌二人令合唄。 次散花。以西方沙彌二人令合音。 行道一匝。受者沙彌等也。 次申佛名。散花沙彌二人合音。 佛名次第。
登霞聖靈成正覺 令法久住利有情 聖朝安穏増寶壽講師表白。勸請懴悔持戒發。願以此講演乃至 一切諷誦。南無遺教経。 次上經題名。次開題文。但不爲講師音。次披講經。次 打馨申佛名五六反幷提句 次廻向。次請者同音。後唄了。先令受者出堂了。次大小十師共出堂。
伽藍安穏天下豐樂 臨般涅槃遺教妙典下音
南無頭田那菩薩等御願成辯觀自在打馨
講遺教経章第三 今は必ず沙弥戒を為して次に行うこと。
先、鐘を打つ。
次、壇の南に一礼盤・一高座を設え、次に受者等を堂内に召し入れて、壇の下の東西に居らしめる。
次、大・小の十師が共に堂〈戒壇堂〉に入る。沙弥戒の時のように入堂することに異なり無し。 ただ講師一人のみ甲袈裟〈縁に条葉と別色を用いた袈裟〉を着、香爐を提げて衣と鉢とを持つこと。弟子は座具・草座を敷いて、礼盤・高座に登る。その他の諸徳は平袈裟〈縁と条葉が同色の一般的袈裟〉を着、衣と鉢と香爐を持たずに、講師と倶共に北中の戸から壇に入って着座する。
次、講師は衆中より起って、壇の西の階段の下から、手に香爐を提げて下層から南方の東橋へ廻行し壇に昇る。先ず礼盤に着く。三拝する。
次、高座に昇る。位次に一礼。
次、梵唄〈声明の曲の一つ〉。東方にいる沙弥二人に合唄させる。
次、散花〈声明の曲の一つ〉。西方にいる沙弥二人に合音させる。そして行道一匝。受者の沙弥等。
次、仏名〈声明の曲の一つ〉を唱える。散花、沙弥二人が合音する。 仏名の次第は以下の通り。
登霞聖霊成正覚 令法久住利有情 聖朝安穏増宝壽講師表白、「勧請懴悔持戒発。願以此講演乃至」など一切を諷誦。南無遺教経。
伽藍安穏天下豊楽 臨般涅槃遺教妙典下音
南無頭田那菩薩〈豆田那比丘〉等御願成弁観自在馨を打つ
次、経題名を上げる。
次、開題の文。ただし、講師は音を出さずに読み上げる。
次、講経。
次、馨を打ち、仏名を申すこと五、六反。ならびに提げ句
次、廻向。
次、請者、同音。後唄〈声明の曲の一つ〉が終わったならば、先ず受者を出堂させる。
次、大小の十師が共に出堂。
法進『東大寺授戒法軌』(T74, p.22a-b)
以上のように、これから具足戒を受けんとする者は必ず『仏遺教経』の講経を受けていました。とは言え、ここでの講経がどのようなものであったかの詳細は不明です。今示した、鑑真と共に日本に渡来しその後を継いだ法進の『東大寺授戒法軌』を見てもわかるように、当時の受具足戒は国家行事でもあったため、多分に儀礼的なものではあったろうとは思われます。
また、往古の僧ら全てが、このように必ず義務として受具足戒の前段階として講経を聞かされていたと云うだけではありません。古代平安中期から日本仏教の戒律が次第に頽廃し、ついに消滅していた中世鎌倉期においてさえ、学僧・禅僧らは事に触れ『仏遺教経』を引用し、重用していたことが知られます。
これは古代、平安期初頭に宗義として具足戒を捨て、正当な仏教僧となる術を放棄してしまっていた日本天台宗、およびその亜流の宗派においても何ら変わりありません。その本とする宗義がどうあれ何であれ、『仏遺教経』が道を説くものの胸を打ち、その人の耳をして傷ませるものであることもまた、変わりないでしょう。
興福寺の普照および栄叡が苦節二十年をかけ、ようやくその任務であった日本に伝戒するに当時この上なく相応しい人であった鑑真の招聘に成功するのは天平勝宝六年〈754〉のことです(太宰府に着岸したのは前年の五年)。その当年には早くも東大寺大仏殿の前にて菩薩戒の授戒が執行され、後には僧徒への具足戒もなされ、翌七年には戒壇院が建立されて日本における授戒と律学の体制がようやく整えられていきます。
鎌倉中期の大学僧、東大寺戒壇院の凝然が著した『律宗瓊鑑章』〈「けいかんしょう」とも〉によれば「豊安在世律儀嚴製」とあり、鑑真の孫弟子となる豊安〈764?-840〉までは確かに戒律の伝統は守られ、諸宗の僧徒らによって学ばれ厳持されていたといいます。
日本戒律。大和尚授之法進為第二祖。住唐禅院。弘通戒律。門人相続。次第承奉。招提一寺。戒律繁昌。諸寺僧侶。受戒之後。多住彼寺。五年一年研精律儀。後代漸廃。豊安在世。律儀厳整。厥後学者随分不絶。乃至末代相続依承。雖不及昔儀。而宗緒不絶。諸宗法匠。戒科不没。長蔵。道雄。長朗。義聖。真済。真然。慈覚。智証。長意。増命。興聖。平恩。願曉。聖宝。如此等哲。其数是多。内溢智海。外契律範。威動人天。証実賢聖。自後諸徳。戒徳随修。後代漸廃。行学倶没。七諸寺皆置律宗。後代漸廃不及講談。豊安没後経一百七十余年。至人王六十七代三条天皇御宇。此間律儀漸替不行。厥後経一百世余年。至人王第七十四代鳥羽天皇御宇。其間律儀墜没不行。厥時興福寺学英有実範大徳。隠居中川蘭若。酬興福寺欣西大徳雅請。
日本の戒律は、大和尚〈鑑真〉がこれを法進〈鑑真に唐から随行してきた支那僧。律と天台教学に通じていた〉に授けて第二祖とした。(法進は、東大寺の)唐禅院に住んで戒律を弘通し、門人はそれを相続して次世代に継承していった。唐招提寺の一寺により、戒律(の学と行と)は繁昌したのである。諸寺の僧侶らは、(戒壇院にて具足戒を)受戒した後には、その多くが彼の寺に留まり五年あるいは一年、律蔵を研鑽していた。(しかし、それも)後代には漸く廃れていくこととなる。
豊安〈鑑真の弟子如宝の弟子。律宗第三祖・東大寺戒壇院第四代和上・唐招提寺第五世〉の在世当時、律儀は(いまだ)厳整に護持されていた。その後もまた、学者〈学僧。ここでは「僧侶一般」を指すと解して可であろう〉らはその分にしたがって(学び行っており、律儀が)絶えるということはなかった。乃至、末代に相続継承されていったのである。(鑑真から豊安に至るまでの)昔ほどでは無いにせよ、律宗の伝統が絶えることはなかった。諸宗の法匠〈碩学・学僧〉らもまた、戒科〈戒律の学と行〉を廃することなどなかった。(例えて挙げるならば)長蔵〈長歳の誤写。空海の直弟子の一人。真言僧〉・道雄〈華厳に精通していた空海の直弟子の一人〉・長朗〈華厳に通じた薬師寺の学僧〉・義聖〈華厳に通じた薬師寺の学僧〉・真済〈空海の高弟の一人。主として高雄山神護寺に住した〉・真然〈空海の高弟の一人。空海没後、高野山を継いだ〉・慈覚〈円仁。天台僧〉・智証〈円珍。空海の甥。天台僧〉・長意〈天台僧〉・増命〈天台僧〉・興聖〈未詳〉・平恩〈三論宗僧。西大寺の人〉・願暁〈三論宗僧。聖宝の師〉・聖宝〈三論宗の真言僧。行学兼備の人で、特に真言では最初期の事相における最重要の人〉、これらの賢哲がそれであり、その数も多くあったのである。その内心は智慧の海が溢れ、その外見は律の規範に適っていた。その威厳は人々と神々とを動かすものであり、(往古の仏教の)賢者・聖者の実なることを証するものであった。以後の諸大徳もまた、戒徳をその分に応じて修めていたが、後代漸く廃れ、(戒律の)行と学と共に没したのである。
(南都の)七大寺〈東大寺・興福寺・元興寺・薬師寺・大安寺・西大寺・法隆寺〉にはすべて律宗を置いてはいたが、後代に漸く廃れていき、もはや談義〈議論。話題〉に及ぶことすら無くなってしまった。豊安没後〈豊安の没年は承和七年九月十三日(840)〉、百七十年余りを経て人王六十七代三条天皇の御宇〈976-1017〉に至るまでに、この国の律儀は漸く廃れて行われなくなっていく。さらにその後、百年余りを経て人王第七十四代鳥羽天皇御宇〈1103-1156〉に至る間には、律儀など全く没して行われなかった。
凝然『律宗瓊鑑章』巻六(新版『大日本佛教全書』, vol.30 , p.8c)
ここで凝然が伝えているように、鑑真渡来以降百年を過ぎた頃、豊安が没するまでは唐招提寺ひいては戒壇院でも、鑑真以来の行儀が保たれていたようです。それが事実であったろうことは、豊安自身の残した書などから確認でき、凝念によるこの見方は正しいものと言えます。
もっとも、凝然は豊安没後緩やかに持戒の波が止んでいったかのように記していますが、実際は豊安が逝去してからただ二十五年後の間に、急速に日本の僧徒が持戒を軽んじ酷く頽廃していたことが、以下の正史に収録された記述から知られます。
二十五日丙午。少僧都法眼和上位慧運申牒請。 《中略》
頃年之間非唯忘却舊例。兼復違背佛敎。或臨受戒日纔下官符。新剃頭髪初着袈裟。冠幘之痕頭額猶存。或十四已下年少之人。空有貪名之外謀。曾無慕道之中誠。皆是未練沙彌之行。況於懺悔事乎。加以結番之場競上下而闘亂。登壇之次爭先後而拏攫遂則罵詈有司陵轢十師。濫惡之甚不可勝計。 《中略》
登壇已後。不學律相。故不知持犯。不知持犯。故不修安居。何稱比丘乎。望請。惣據舊例。兼遵佛敎。
( 貞観七年〈865〉三月)二十五日丙午。少僧都法眼和上位慧運〈入唐八家の一人。真言僧。安祥寺僧都〉、申牒請。《中略》
この頃(の東大寺戒壇院における受戒)は、ただ(鑑真の昔に制された)旧例を忘却したものとなっているのみならず、兼ねてまた仏教自体にも違背したものとなっている。あるいは受戒の日となってようやく官符が下されてから新たに頭髪を剃り、初めて袈裟を着けたような、(公家として被っていた)冠や幘 〈頭巾〉の痕が頭の額にいまだについているような者や、あるいは十四歳以下の年少の人〈具足戒を受けて比丘となれるのは数え二十歳以上に限られる。しかし当時、すでにそのような諸条件は一切守られなくなっていたことがこの記述から知られる〉が、空しく名誉を貪ろうという外謀を持っている〈当時、出家して僧となることが、公家の嫡嗣でない次男三男や庶子の処世の術となることが公然と行われて一般化していたことが伺える記述〉。(そんな今から具足戒を受けて形ばかり比丘となろうとする者らには)曾て仏道を慕う真心など持ったこともない。それらの者は皆、未だ沙弥としての行を積んだこともなく、ましてや(受戒の前に為すべき)懺悔をしたことなどあろうはずもない。
しかのみならず、(受者らは)結番の場〈数回に分けて行われる受戒の順番を決める場〉にてはその(位の)上下を競って闘乱し、登壇の次でには(受戒の順の)先後〈比丘の席次は受戒の日時の先後によってのみ決定される〉を争って 拏攫〈つかみあいの喧嘩〉。遂には有司〈役人〉を罵詈し、十師〈授戒する三師七証の僧ら〉をすら陵轢〈侮り踏みにじること〉している〈当時、三師七証を務める僧の立場が比較的低い出自の者によって構成されていたことに因る狼藉か?〉。そのような(新たに具足戒を受けようとする者らの)濫悪の甚だしさは数え上げることも出来ないほどである。
《中略》
登壇(受戒)して後、律相〈律の具体的内容、詳細〉を学ばないがために 持犯〈僧としての行儀・禁則〉を知らず。持犯を知らないがために安居〈一所に留まって勉学修行する夏の三ヶ月間〉を修めることもない。それでどうして「比丘」と称することなど出来ようか。(今の僧徒に)望むらくは、総じて(鑑真以来の)旧例に則り(受戒して律学を修め)、兼ねて仏教に従うことである。
『日本三代実録』巻十(『国史大系』vol.4, p.177)
豊安が没したのは承和七年〈840〉のことですから、そのわずか二十五年後にはこの体たらくとなっています。いや、体たらくなどという一言で表現するには到底足りない惨憺たる有り様であって、まさか四半世紀でここまで酷いことになるとは誰も想像し得ることでなかったでしょう。その内容の生々しさからすると、文飾や修辞で大げさに言ったものではなく、実際にそのような事例があったと考えられます。それにしてもその様を想像してみると、むしろその異常さが滑稽にすら思われ、失笑を禁じえません。
ここでの慧運の通告によって、当時の僧界は高位の貴族の嫡子でない次男・三男などが、ただ処世の為に出家することがすでに常態化していたことが知られます。ここに記されている、新受者らが授戒を取り仕切る役人や(出自や僧位も高くない者で占められていたであろう)授者を務める十師の僧などに対して濫行する様は、まさにそれを物語っています。
受具足戒が単なる通過儀礼と化し、その授受する両者が「誰も守らないことを前提として戒を授け、受ける」という、これはまさに現代の日本仏教で行われている授戒の姿でもありますが、失笑すべき事態となったのでした。当然、そこでの講経も儀式儀礼に過ぎない、要するに誰も本気で語りもせず聞いてもいないという、茶番劇と化しています。ちょうどその頃から、しばしば「もはや仏教ではない」といわれる日本仏教の特殊な思想の萌芽が見え始め、それは中世鎌倉期において様々な形で吹き出していくことになりますが、それは決して偶然ではありません。
ここで慧運は「望請。惣據舊例。兼遵佛敎(望むらくは請う、惣じて舊例に據り、兼ねて佛敎に遵ずることを)」と、その頽廃を是正することを切望していますが、それは意味も効果もまるで無いことでした。それから三百年程後の世に生じた戒律復興運動の前後の様相を、無住は以下のように伝えています。
律學者の學と行と相違の事
唐の龍興寺の鑒眞和尚、聖武天皇の御宇、本朝に來て、南都の東大寺、鎭西の觀世音寺、下野の藥師寺、三の戒壇をたて給ひ、毘尼の正法をひろめ、如法の受戒を始め行ぜしかども、時うつり儀すたれて、中古より只名ばかり受戒というて、諸國より上りあつまりて、戒壇走りめぐりたるばかりにて、大小の戒相もしらず、犯制の行儀もわきまへず。わずかに﨟次をかぞへ、空しく供養をうくる僧寶になりはてて、持齋持律の人跡たえぬる事をなげきて、故笠置の解脱上人、如法の律儀興隆の志深くして、六人の器量の仁をえらびて、持齋し律學せしむといへども、時いたらざりけるにや、皆正躰なき事にてありけれども、堂衆の中に器量の仁を以て、常喜院と云ふ所にて、夏中の間、律學し侍り。持齋すべき供料なんどはからひおかる。夫も夏をはれば、持齋もせずして、如法の儀なかりけるに、近比かの學者の中より發心して、如法の持律の人、世間におほし。かの本願上人の御志の感ずる所にや。《中略》
末代の法滅の學者、如法は行ぜずして、名利の價とし、渡世の謀として、聖敎を邪妄の情に引入れ、佛知見の照らす所を、執見をもて計度し、或は無㝵の見をおこして因果を撥無し、或は證餘得の思をなして邪行をほしいまゝにし、自を損し他を損し、佛法日々に磨滅し、やうやく淪亡して喉につまれり。悲しむべしをしむべし。永嘉大師云はく、豁達空也。撥無因果。漭々蕩々招惡趣。諸法の空と云ふは、一念不生、無染汙の心なり。ただ情量を以て空の道理を心得て、因もなし果もなしといふ。これ惡取空の大邪見也。近代聖敎もしらず、道心もなく、觀行もわきまへぬ愚俗愚僧の中に、此たぐひ多し。これ甘露を毒藥となす者なるべし。實際理地には一塵も受けず、佛事門の中には一法をも捨てずと云へり。假名をやぶりて佛法を談じ、因果を信ぜずして、修行をたてん事、おほきに佛祖の敎にそむけり。この事能々わきまふべき道理なり。
律学者の学と行とが相違している事
唐の龍興寺の鑑真和尚が聖武天皇の御宇に本朝に来られ、南都の東大寺・鎭西の観世音寺・下野の薬師寺の三所に戒壇を建てられ、毘尼の正法を弘めて、如法の受戒を始め行じられた。しかしながら、時を経てその行儀は廃れてしまい、中古よりただ「名ばかり受戒」と言って、諸国から上り集まってきた者らが、(受戒の際にわけもわからず)戒壇の上を走り巡るばかりとなって、大乗〈菩薩戒〉・小乗〈律・声聞戒・具足戒〉の戒相〈具体的な条項〉も知らず、犯制の行儀〈戒律で規定されていることと制限されていること〉もわきまえず、(夏安居など行わず、ただ年月を重ねるだけで)わずかに﨟次〈僧としての席次。法﨟・夏﨟とも〉を数えるばかりとなって、空しく供養を受ける僧宝に成り果て、持斎・持律の人跡が絶えてしまっている事を嘆いた故笠置の解脱上人〈貞慶。興福寺の学侶。笠木寺上人〉は、如法の律儀を興隆する志を深くし、六人の器量〈才知優秀〉の人を選抜して、持斎・律学させた。
しかしながら、その時機にはまだ至っていなかったのであろう、その皆がまるで本来からかけ離れた有様であった。そこでまた、(興福寺東西金堂の)堂衆の中から器量の人を選んで常喜院という所にて、夏中〈夏安居の三ヶ月〉の間、律を学ばせ、(常喜院にて)持斎させるための供料〈運営費〉など工面したのである。しかし、それも夏〈安居〉が終わったならば、(常喜院の律学に参加していた者等が)持斎することなどなく、如法の儀など行われることはなかった。
ところが近頃〈嘉禎二年以降〉、その(常喜院の)学者の中から発心して如法の持律の人〈覚盛等〉が出たことにより、今や世間に多く見られるようになった。これは、かの本願上人〈中川の中将上人実範〉の御志の果報というものであろう。 《中略》
末代の法滅の学者らは、如法に修行などせず、(仏教を)ただ名聞利養の値、渡世の謀術としている。聖教を「邪妄の情」〈邪な妄想に満ちた人情。反知性的・反理性的な営み・理解〉に引き入れ、仏陀の知見が照らす所を(自身の誤りに満ちた)執見によって計度〈推量すること〉し、あるいは「無碍の見」〈「法則などなく、全ては自由でとらわれないもの」とする見解〉をおこして因果〈因果応報・因縁生起〉を撥無〈否定して排除すること〉し、あるいは「証余得の思い」を起こして邪行をほしいままにして自らを損い他を損じている。仏法は日々に磨滅し、次第に淪亡して喉に詰まっている。悲しむべきことである、惜しむべきことである。
永嘉大師〈唐代の禅僧、永嘉玄覚。無相禅師〉は「豁達空は因果を撥無する。漭々蕩々として悪趣を招く」と云う〈『証道歌』第三十歌。原文は「無」は無く、また「悪趣」でなく「殃過」〉。諸法の空とは、一念不生にして無染汚なることがその核心である。(にも関わらず、)ただ情量〈智によらず人情によって推測すること。反知性・反理性〉をもって空の道理を捉えて「因も無し、果も無し」などと言うことは、まったく悪取空〈空をまったく誤解して、むしろ悪しき見解を持つこと〉の大邪見である。近代の、聖教も知らず、道心も無く、観行〈瑜伽や禅法〉もわきまえない愚俗愚僧の中にこの類が多い。これらは甘露をむしろ毒薬としてしまう者に他ならない。「実際理地には一塵も受けず、仏事門中には一法をも捨てず」と云われる〈『景徳伝統録』巻九 潙山霊祐章にある一節。原文は「仏事門中」でなく「万行門中」〉。仮名[けみょう]〈この世の一切は仮初で儚いものとの道理〉を破って仏法を談じ、因果を信じず修行をたてることは、大いに仏祖の教えに背いている。このことは能く能くわきまえなければならない道理である。
無住『沙石集』巻三(『沙石集』上巻, pp.137-139, 岩波書店)
これは現代の仏教や史学の学者らが、中世における僧徒の有り様を示す例として好んで挙げる一節です。しかし、これはむしろ先に示した平安期の太政官符に見られる記述に比したならば、この鎌倉期における戒壇院での無意味な受戒の様相、そして戒律復興の端緒を開いた律学の徒らの実際は、まだ可愛げがあるとすら思えるほどです。
そしてこの『沙石集』にて描かれる当時の僧らの有り様は、時を千年も隔てているにも関わらず、そのまま今の東大寺に引き写されたように見ることが出来ます。これはあまり世に知られていないことですが、現代においても戒壇院にて具足戒の受戒が時折行われています。ただし、それは無住が揶揄した当時の受戒にs同じく、授ける者も受ける者も誰一人としてその内容をわからず、仮に知っていてもそれを守るつもりなど毛頭無いままに行われる、なんら意味のない通過儀礼として。そのような空虚な儀礼をしかつめらしい顔で「厳修」し、もって伝統の護持と世に謳っているのです。
いずれにせよ、戒壇院がそのような惨状を呈して授戒が完全に無意味なものとなったとしても、中世においても恒例行事として続けられていました。そのような時勢の中、戒律復興運動に身を投じた覚盛や叡尊などがそのような戒壇院における、無住の伝える表現によれば「名ばかり受戒」いわば茶番劇としての受戒の正当性を全く否定して歯牙にもかけず、通受自誓受という本来ありえない受戒法を新案して独自に行ったのも至極当然と言うべきことです。
しかし、そんな覚盛や叡尊らも『仏遺教経』を戒律復興に際しての根拠の一つとし、またそれを果たして以降の持戒持律の亀鑑として奉持してました。日本において持戒持律の風が衰え亡くなったときにすら、しかしその本来の理想として、また知識としても『仏遺教経』の所説は縷縷として伝えられてたのでした。