それにしても、なぜ誰も仏陀が廃止してもよいと言い遺された「小小戒」が何であるかわからなかったのか。それはもちろん、結集に参集した五百人の比丘が釈尊本人ではないためです。そんな当たり前のことはさておき、そのような釈尊の遺言という重大事について不明点が残され、遺された弟子たちの意見が紛糾したのは、アーナンダがその詳細を尋ねていなかったことに依ります。これは仏陀の作供養人〈随行.側仕えの人〉としては大失態と言えたものでした。
普段であれば、釈尊が説かれたことで不明な点があればアーナンダはただちに質問し、その意味をとことん尋ね極めていました。しかし、この時、尊者はそうしていません。アーナンダはその理由について、「もうすぐ釈尊が亡くなるという悲しみでそれどころではなかった」などと弁解しています。アーナンダは当時、いまだ阿羅漢でなかったために感情的となって取り乱していたのです。普通の者の人情としては充分理解できることではありますが、しかし、長年仏陀に側仕える人としては全く相応しくないことでした。
そこで上記のようなやり取りがあった直後、アーナンダの責任はやはり追求されています。アーナンダがそこで追求されたのはそのことについてばかりでなく、他にも釈尊の生前あるいは没後に為していた様々な行為について、マハーカッサパは一々指摘し、いずれも突吉羅罪であるとして責めています。
突吉羅とは、duṣkṛtaあるいはパーリ語dukkaṭaの音写で、為すべきでない行為を意味する語であり、悪作などと漢訳されます。
1 | 汝於佛法中先求度女人 |
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仏法において女性〈摩訶波闍波提.仏陀の実母の妹で養母〉を出家させることを仏陀に求めたこと。 | |
2 | 汝令世尊三反請。汝作供養人。而言不作 |
世尊から三度に渡って作供養人となることを請われたにも関わらず、承諾しなかったこと。 | |
3 | 汝爲佛縫僧伽梨。脚躡而縫 |
仏陀の僧伽梨〈大衣.外出用の衣〉を縫う際に、脚でそれを踏みつけながら縫ったこと。 | |
4 | 世尊欲取涅槃三反告汝。汝不請世尊住世若一劫若過一劫 |
世尊が涅槃することを三度告げたにも関わらず、延命されることを請わなかったこと。 | |
5 | 世尊在時。從汝索水。汝不與 |
(弱られていた)世尊から水を求められたのにも関わらず、与えなかったこと。 | |
6 | 汝不問世尊。何者是雜碎戒 |
世尊に何が雑碎戒〈小小戒〉であるかを尋ねなかったこと。 | |
7 | 汝不遮女人。令汚佛足 |
仏陀の遺骸に女性が近づき触れることを妨げず、(涙で)仏陀の足を汚したこと。 |
ここで過失であるとして挙げられたものの中には、現代の価値観に基づいた視点からは過失と思われないものがあると思われます。たとえば女性を出家させたことなど、その何が問題であるのか理解できず、むしろ仏教はその最初から性差別する思想であったかと感じる者もあることでしょう。それと同時に、今の不佞の感覚からしても「いや、それは…」と思えるようなものもあります。
これらの挙げられた過失の一々に対し、アーナンダは、それにはそれぞれ理由のあることであったと弁解し、自分はそれらが過失であるとは認められないと反論しています。ここでは一々示しませんでしたが、アーナンダが陳べた弁解の中にはもっともであると理解できるものもあれば言い訳にもなっていないようなこともあります。このようなことが仏滅後にあったとされていることから、カッサパとアーナンダの間には何か確執があったのではないか、と考える学者があります。
実際、両者に軋轢があったかどうかはわかりませんが、諸仏典においてカッサパがアーナンダに対し非常に厳しい態度で接していたことが伺えます。しかし結局、アーナンダは「以信大徳故。今當懺悔(大徳を信じるを以ての故に、今まさに懺悔すべし)」と、カッサパの指摘を受け入れ、僧伽に対しその場で懺悔しています。
なお、すべての律蔵にこのような事があったことが記録されていますが、しかし挙げられた過失の数は多少相違して伝えられています。例えば、現在もその律が伝持されている分別説部の『パーリ律』の所伝では、アーナンダには、上記の『四分律』所伝の2と5を除いた五過失があったとして責められたとされています。
紀元前2世紀中頃、印度北西部に侵入してこれを支配したギリシア王Menandros(Milinda)と仏教僧Nāgasenaとの対話を記録して伝える、Milindapañhā(以下、『ミリンダパンハー』)という仏典があります。その題目は、日本語訳したならば「ミリンダの問い」というほどのもので、実際、ミリンダ王が仏教の教義に対する数々の疑問を投げかけて、それに長老ナーガセーナが次々答えていく、といったものとなっています。
なお、漢訳で『那先比丘経』はその異本の古訳で、これはミリンダの名を冠しておらずナーガセーナの名が那先と音写され、那先比丘としてその題目になっています。
今ある『ミリンダパンハー』は上座部に所属するものとされる典籍ではありますが、実はナーガセーナの所属部派が何であったかはわかっておらず、あるいは説一切有部(説因部)ではなかったかなどとも言われます。もっとも、これは部派の更なる分裂に伴ってのことでもあるのでしょうけれども、その昔は『ミリンダパンハー』は特に一部派に限られたものでなく諸本あり、ある程度広く読まれたものであったようです。それは今も同様で、東南アジア・南アジアの上座部が信仰されてきた各地だけでなく、その信仰が漸々として広がっている西洋においてもまた、仏教に関する素朴な疑問から高度な哲学的諸問題について平易に明かされたものとして僧俗問わず愛読されています。
そんな『ミリンダパンハー』に、「小小戒」すなわち「諸々の些末で、些細な学処(khuddānukhuddakā sikkhāpadā)」に関する問答が展開されています。少々長い引用とはなりますが、上座部における一見解を示すものとして、その問答の箇所を丸ごと以下に示します。
“bhante nāgasena, bhāsitampetaṃ bhagavatā ‘abhiññāyāhaṃ, bhikkhave, dhammaṃ desemi no anabhiññāyā’ti. puna ca vinayapaññattiyā evaṃ bhaṇitaṃ ‘ākaṅkhamāno, ānanda, saṅgho mamaccayena khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni samūhanatū’ti. kiṃ nu kho, bhante nāgasena, khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni duppaññattāni, udāhu avatthusmiṃ ajānitvā paññattāni, yaṃ bhagavā attano accayena khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni samūhanāpeti? yadi, bhante nāgasena, bhagavatā bhaṇitaṃ ‘abhiññāyāhaṃ, bhikkhave, dhammaṃ desemi no anabhiññāyā’ti, tena hi ‘ākaṅkhamāno, ānanda, saṅgho mamaccayena khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni samūhanatū’ti yaṃ vacanaṃ, taṃ micchā. yadi tathāgate vinayapaññattiyā evaṃ bhaṇitaṃ ‘ākaṅkhamāno, ānanda, saṅgho mamaccayena khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni samūhanatū’ti tena hi ‘abhiññāyāhaṃ, bhikkhave, dhammaṃ desemi no anabhiññāyā’ti tampi vacanaṃ micchā. ayampi ubhato koṭiko pañho sukhumo nipuṇo gambhīro sugambhīro dunnijjhāpayo, so tavānuppatto, tattha te ñāṇabalavipphāraṃ dassehī”ti.
“bhāsitampetaṃ, mahārāja, bhagavatā ‘abhiññāyāhaṃ, bhikkhave, dhammaṃ desemi no anabhiññāyā’ti, vinayapaññattiyāpi evaṃ bhaṇitaṃ ‘ākaṅkhamāno, ānanda, saṅgho mamaccayena khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni samūhanatū’ti, taṃ pana, mahārāja, tathāgato bhikkhū vīmaṃsamāno āha ‘ukkalessanti nu kho mama sāvakā mayā vissajjāpīyamānā mamaccayena khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni, udāhu ādiyissantī’ti.
“yathā, mahārāja, cakkavattī rājā putte evaṃ vadeyya ‘ayaṃ kho, tātā, mahājanapado sabbadisāsu sāgarapariyanto, dukkaro, tātā, tāvatakena balena dhāretuṃ, etha tumhe, tātā, mamaccayena paccante paccante dese pajahathā’ti. api nu kho te, mahārāja, kumārā pituaccayena hatthagate janapade sabbe te paccante paccante dese muñceyyun”ti? “na hi bhante, rājato, bhante, luddhatarā kumārā rajjalobhena taduttariṃ diguṇatiguṇaṃ janapadaṃ pariggaṇheyyuṃ, kiṃ pana te hatthagataṃ janapadaṃ muñceyyun”ti? “evameva kho, mahārāja, tathāgato bhikkhū vīmaṃsamāno evamāha ‘ākaṅkhamāno, ānanda, saṅgho mamaccayena khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni samūhanatū’ti. dukkhaparimuttiyā, mahārāja, buddhaputtā dhammalobhena aññampi uttariṃ diyaḍḍhasikkhāpadasataṃ gopeyyuṃ, kiṃ pana pakatipaññattaṃ sikkhāpadaṃ muñceyyun”ti?
“bhante nāgasena, yaṃ bhagavā āha ‘khuddānukhuddakāni sikkhāpadānī’ti, etthāyaṃ jano sammūḷho vimatijāto adhikato saṃsayapakkhando. katamāni tāni khuddakāni sikkhāpadāni, katamāni anukhuddakāni sikkhāpadānīti? dukkaṭaṃ, mahārāja, khuddakaṃ sikkhāpadaṃ, dubbhāsitaṃ anukhuddakaṃ sikkhāpadaṃ, imāni dve khuddānukhuddakāni sikkhāpadāni, pubbakehipi, mahārāja, mahātherehi ettha vimati uppāditā, tehipi ekajjhaṃ na kato dhammasaṇṭhitipariyāye bhagavatā eso pañho upadiṭṭhoti. ciranikkhittaṃ, bhante nāgasena, jinarahassaṃ ajjetarahi loke vivaṭaṃ pākaṭaṃ katan”ti.
「大徳ナーガセーナよ、世尊はまたこのように説かれています〈出典:KN. Tikanipāta, Gotamakacetiyasutta〉。
比丘達よ、私は、不証知〈anabhiññā〉ではなく証知〈abhiññā〉によって法を説く。そしてまた、律を制定されるのに際し、このように言われています〈出典:DN. Mahāparinibbānasutta〉。
アーナンダよ、私の死後、僧伽がもし望むのであれば、「諸々の些末で、些細な学処〈khuddānukhuddakā sikkhāpadā. 小小戒〉」は廃止せよ。大徳ナーガセーナよ、世尊が「諸々の些末で、些細な学処」を自身の死後に廃止させたのは、「諸々の些末で、些細な学処」は愚かしく制定されたものであったからでしょうか?あるいは、根拠無く、(現実を)知ること無く制定されたものであったからでしょうか?大徳ナーガセーナよ、もし世尊が、比丘達よ、私は、不証知ではなく証知によって法を説く。と言われたのであれば、そのことによって、
アーナンダよ、私の死後、僧伽がもし望むのであれば、「諸々の些末で、些細な学処」は廃止せよ。というその言葉は誤ったものです。もし如来が律を制定されるに際し、このように言われたのであれば、
アーナンダよ、私の死後、僧伽がもし望むのであれば、「諸々の些末で、些細な学処」は廃止せよ。そのことによって、
比丘達よ、私は、不証知ではなく証知によって法を説く。という言葉もまた誤ったものです。これもまた両刀論法〈ubhato koṭika pañha. ディレンマ〉であり、微妙・巧妙・甚深・極甚深であって、理解し難いものです。(解きほぐすべき問題である)これはあなたが得たものであり、ここで(両刀論法に陥るこの疑問について解明し)あなたの広大なる智力を示したまえ」
「大王よ、世尊はまたこのように説かれています。
比丘達よ、私は、不証知ではなく証知によって法を説く。律を制定されるのに際し、このように言われています。
アーナンダよ、私の死後、僧伽がもし望むのであれば、「諸々の些末で、些細な学処」は廃止せよ。しかし、大王よ、如来は「私の死後、私の弟子達が廃棄を許されたならば、果たして『諸々の些末で、些細な学処』を捨てるだろうか?あるいは護持するだろうか?」と試して言われたのです」
「大王よ、たとえば転輪王〈cakkavattī rāja〉が、子供らにこのように言ったとしましょう、『子らよ、この大国土〈Mahājanapadā. 十六大国〉はすべての方向において海が境界となっている。子らよ、ただこれだけの軍隊で(この大国土を)維持していくことは困難である。子らよ、そこでお前たちは、私の死後、国境周辺部の各地方を手放すがよい』と。大王よ、そこで(転輪王の子である)若者たちは、父の死後、すでに掌握している国土である、すべての国境周辺部の各地方を手放すでしょうか?」
「いいえ、大徳よ。王位にあるということは、大徳よ、はるかに貪欲なものです。若者たちは王権への欲により、(今の国の)それより二倍、三倍の国土を征服しようとするものです。それをどうして彼らがすでに掌握している国土を手放すでしょうか?」
「大王よ、実にそれと同様に、如来は、比丘達を試してこのように言われたのです。アーナンダよ、私の死後、僧伽がもし望むのであれば、「諸々の些末で、些細な学処」は廃止せよ。大王よ、仏陀の子たち〈buddhaputtā. 仏子〉は、苦からの解脱〈dukkhaparimutta〉のため、法への欲〈dhammalobha. 教え、あるいは真理への貪欲〉によってまた他に、(加えて)さらに百五十の学処を護持すべきです。それをどうして元から制定された学処を放棄できるでしょうか?」
「大徳ナーガセーナよ、世尊が『諸々の些末で、些細な学処』と言われており、そこで人々は昏迷し、疑いを生じ、困惑し、疑惑に陥っています。『そのうちのどれがその些末な学処〈khuddaka sikkhāpada〉であろうか?、そのうちのどれが些細な学処〈anukhuddaka sikkhāpada〉であろうか?』と」
「大王よ、『些末な学処』とは悪作〈dukkaṭa. 突吉羅・軽垢罪。軽微な身体的行為の制限〉であり、『些細な学処』とは悪説〈dubbhāsita. 同じく突吉羅ながら、特に言語的行為の制限を別出した場合の称〉です。これら二つが『諸々の些末で、些細な学処』です。大王よ、教法の確定〈dhammasaṇṭhitipariyāya. 第一結集〉の際に、昔の大長老たちもここに疑いを生じて、それが合意に至らなず、この問いのあることを、世尊はすでに見ていたのです」
「大徳ナーガセーナよ、長きに渡って伏せられていた勝者の秘密〈jinarahassa. ここでjinaは「仏陀」の意〉が、今日この瞬間、世に開示され、明らかにされました!」
Milindapañha, Meṇḍakapañha
この『ミリンダパンハー』において設けられた「諸々の些末で、些細な学処」についての問いは、やはり誰しもこの問題を見たときに考えるであろう指摘から展開しており、それに対するナーガセーナの回答は、特記すべきものとなっています。もし仏陀が智者であり、また空論でなく「証知」によって法を説いた人であるならば、なぜ一度制した律の学処を後に廃止し、あるいはまた再び制することがあろうか、という疑問であり、その指摘です。
実は仏陀における律の制定の根本的方針から考えれば、それは特に矛盾するものでも疑問に思うものでないどこまでも現実的なものであったのでした。しかし、仏陀をして「全知者」や「全能者」であるかのように見たならば、そのような疑問が生じることも無理なからぬことです。ここでのナーガセーナによるとされる答えは、そのような立場からのものでした。仏陀が「諸々の些末で、些細な学処」いわゆる「小小戒」を自身の死後に廃してもよいとされたことは、あくまで僧伽を試すために行ったことであり、それを結局は護ることになる、と予見していたと答えているためです。
また次に、これは否定的な意味において実に驚くべき回答であるのですが、仏陀の入滅直後の並み居る直弟子達がわからず、混乱して結論を見なかったはずの「諸々の些末で、些細な学処」とは何かを、独りナーガセーナが断定している点です。「諸々の些末で、些細な学処(khuddānukhuddakā sikkhāpadā)」を「些末な学処(khuddakā sikkhāpadā)」と「些細な学処(anukhuddakā sikkhāpadā)」とで別々に考え、それぞれ身体にまつわる小罪である悪作(dukkaṭa)と言葉にまつわる小罪である悪説(dubbhāsita)に関する学処であるとしているのは特異なものです。
ミリンダ王にそう言わせているように、それは仏滅後以降、誰もその答えを出していなかった問題であったことに違いなく、それをしかし、このようにナーガセーナが特定していた、とされているのは驚きを禁じ得ません。いくらナーガセーナが西北インドにおける当代一の学僧であったのだとしても、そのような見解をあたかも僧伽全体の意志であるかのように言うことなど決して出来ない筈であるためです。
さらにまた、その前段において、仏陀が制定されていた諸々の学処を廃棄するのではなく、むしろ「さらに百五十の学処を護持すべき」であると述べているあたりも、仏滅直後の結集における僧伽としての決定、仏滅後の根本指針に反したものとなるでしょう(シャム王室本などにては異なる数が挙げられている)。このような一節は、仏滅後数世紀の時を経ていた当時の社会に対応すべく、学処を減らすどころか増やす必要が生じていたことの反映であって、そのような共通認識が現れたものであったのかもしれません。
もっとも、このように些末(khuddaka)と些細(anukhuddakā)とを各々別個に考えてそれが何かを論じることは、インド語からすればむしろ自然なことと言えますが、我々ならば「小小戒」であるとか「雑砕戒」とされた漢訳語に引きずられるため決して思いつかない発想です。ただし、『パーリ律』の所伝では、khuddakaとanukhuddakāとが別個に考えられて議論されていはいないため、これもナーガセーナ(あるいは後代のナーガセーナに仮託した人)の独自の見解であったのでしょう。
いずれにせよ、この『ミリンダパンハー』にある「諸々の些末で、些細な学処」、すなわち小小戒に対する見解は、厳密には問題とされるべき点ではあるのですけれども、今も上座部においてこれを問題視する者は無く、おおよそ受け入れられています。
現代、日本の僧職者により、しばしば「仏陀は亡くなる前に小小戒を廃止しても良いと言い遺されていたのだ」などと云われ、あるいは戒律というものが釈尊によって随犯随制で漸次制定されていったものであり、また律蔵が仏滅後に成立したものであったことを根拠として、それを自身たちが戒律など無視して一向守らないことの弁解に利用しているのを見聞きします。まことに一知半解も甚だしい、しかもお為ごかしの附会に過ぎません。
そもそも釈尊が「小小戒」を廃止しても良いと言われたのは、あくまで「僧伽が望むのであれば」という前提条件のもとでの話。そしてさらに、その後開かれた第一結集にて、以降の僧伽における戒律への態度は定まったことを知らぬか、あるいは意図的に無視してそのような主張をしているのでしょう。
ここで一応、重要な事実を指摘しておくと、諸々の言語によって現在伝わる律蔵全てを並べてみたならば、その内容は大同小異ではありますが、律の条項数はそれぞれほとんど全く一致していません。すなわち、なんらかの形で仏滅後に分裂した僧伽(部派)それぞれが、廃止ではなくむしろ律を加増し、あるいはその解釈を編集していたことが明らかとなっています。それは第一結集が開かれる前の僧伽の決定を覆す行為です。
そもそも原初の律の条項数がどれほどであったか不明であるのですが、それらの条項数だけを単純に比較して見たならば、大衆部の律蔵である『摩訶僧祇律』がその条項数が最も少なく、根本説一切有部 の律蔵である一群の「根本説一切有部律」での数が最も多くなっています。
往古のそれぞれの部派において、どのようにしてそうなっていったかの概要を伝える典籍がいくつかあり、現代では文献学者らによってその詳細の解明が少しずつなされていますが、ことは中々複雑で、その全容は杳として今も知れません。しかしながら、それもあくまでそれぞれ僧伽の求めに応じてなされたものであったろうことは間違いありません。そしてそれは裏を返せば、仏教において、特に出家者にとって戒律が重要であるからこそなされたことと言えます。不要であれば加増する必要など無いのだから。
したがって、戒律など守りも守ろうともせず端から問題としていない者が、しかも僧伽(僧宝)など存在しない日本仏教において「小小戒が云々」と主張することは無理に過ぎ、他の失笑を誘うものとなります。
あるいは、僧職でもなく比丘でもない仏教学者もこれについて言及し、「現代における日本仏教界の現状を鑑 みるに、彼等が伝統的な戒や律など護るようになることを期待するのは、実に無駄なことであって不可能であり、したがって非建設的・非現実的である。そもそも仏陀の時代に定められた律に固執し、まったく時代も土地も風土も異なる日本でその護持を主張することがまず不合理。そこで建設的意見として、今の時代や現状に即した新たな戒律を、皆で協議して提唱するのが良いではないか」などといった主張を展開しているのをよく耳にします。
言わんとすることはわかります。律というものは、特にその多くの条項が当時の印度社会との兼ね合いにおいて定められたものであり、これを漢語では「息世機嫌戒 」と称します。そのような定めを以って僧伽という自治組織を運営することにより、その持続繁栄を目指したものが律であることからすれば、教条主義的に仏陀の時代のそれに固執することは不合理であり、したがって今に時代や社会・風土によって柔軟にこれを変えるべきである、という思考によるものでしょう。
しかしながら、新たな戒律とはこれいかに。それは門外の徒が今の時代において「新しい経典、律蔵を創作してしまおう」と言っているのに等しいことであって、それを創造的とは言えるものかもしれませんが、建設的ではありません。そしてもし、そんな「創造」を実行したならば、もはや新興宗教でありましょう。あるいは小小戒の廃止に絡めての主張であるならば、前述したように、それについて言う資格は日本の僧職者にも学者にも「全く」ありません。それは必ず内からの声でなければならず、しかもそれまで律というものに真剣に向き合ってきた比丘ら全員によるものでなければなりません。
(往古の支那、特に禅寺において「清規」なるいわばローカルルールが定められ、運用さえるようになったのは、戒律として独自のものを作ることなど出来ないためでもあったでしょう。それは当初、戒律の規定を意識し則って編纂されていたようです。しかし、やがて支那の僧らが恣意的に、あるいは経済的理由から律を無視するようになって、明らかに戒律に違反する規則を布くようになり、さらにそれが金科玉条となっていったと思われます。)
そこでまた、時代や国の違い、そして風土の異なりを持ち出すのであれば、現代むしろ西洋において仏教を信仰する者が増えており、ただ信仰するだけでなく比丘など出家者となって僧伽を構成しようとしている国々があります。そこでもやはり律の護持が非常に強く意識され、完全というわけには中々いかなくとも努めて実行されている事実は一体どうなるのか、という話になる。
そもそも、日本で戒律というものが行われないことについて「時代や風土に依るものではないのか」とする見方は、近現代において現れたものではなく、古代末期にすでに考えられていたことです。それも戒律復興のため現実に奮闘していた学僧によって。
至戒律一道者。与昔大殊。雖歎無益。実是時代之令然也。半又土風之不応歟。
戒律の一道については、昔と大いに異なっている。それを歎いたところで益などないとは言え、実にこれは時代〈末世〉のなせるところであろう。あるいは半ば(戒律とは日本の)土風〈風土〉にそぐわないのであろうか。
貞慶『戒律再興願文』(新版『大日本佛教全書』, vol.30, p.1a)
平安末期、興福寺の実範からの流れを受けた貞慶は、すでに滅びて無い日本における戒律の復興を目指して諸々の活動を展開していました。それを必ず成し遂げんとする彼の願文に、これは彼がその為に真摯に活動していたからこそ言えたことですけれども、以上のようないわば弱音にも思える言葉が認められています。
しかし、貞慶はこれに続けて戒律の復興は一宗派の問題ではなく仏教全体の存亡に関わることであるとし、なんとしてもその礎 を築き上げることへの遠大な決意を述べています。果たして貞慶の努力はその没後まもなく、その方法に疑義が大きく残るものではありましたが、門流である覚盛や叡尊らによって結実しています。特に叡尊一門は、鎌倉期の社会において最も信仰を集め、当時最大の教団を形成するに至っています。
また、現代においていうならば、たとえば仏教の歴史など無いイギリスやドイツなど欧州において、これは上座部における話ですけれども、白人比丘たちが現前僧伽を形成し、かなり厳しく律をすでに実行する体制を彼の地に築いてそれなりの年数をすでに経ているという事実があります。無論、彼の地はすでに斜陽となって久しいとはいえいまだキリスト教文化が非常に強い土地柄ではありますが、仏教に関しては好意的に受容されています。
そしてそれは、ただ上座部に限ってのことでもなく、「伝統的」戒律の護持の重要性を主張するゲルック派など、大乗を標榜するチベット仏教においても同様です。上座部に同じくその程度の地域差は様々ありますが、彼等は西洋においても戒律を護持し実行しています。
したがって、日本における一部の学者や僧職者らがもっともらしく主張する「時代・国・風土の異なり」は言い訳にならず、「新しい戒律の創生」などまったくナンセンスであって、それはもはや仏教ではない。ますます日本の仏教が異端視され、それに属する僧職者らは軽蔑され白眼視されることになってしまう。
このように言うと、たちまち「西洋では日本の禅が非常に人気であって、多くの世界的著名人も禅の思想に共感し、影響をすら受けており、白眼視などされてはいない」という者があるかもしれません。欧米におけるZENというものの実態、そこで老師だの師家だの言われている人々の実際を知らなければそういう見方も出てくるのでしょう。
このような問題の根本的原因は、そもそも日本の仏教者らが、それぞれ信奉しているはずの仏教にまったく準ぜぬあり方を続けてきたことにあります。そのような状態こそが彼等にとってはもはや標準であり、さらに一昔前の史学者や仏教学者などは浄土教や日蓮教団など新仏教と言われた類に共感あるいは信仰し、その立場から立論する者が甚だ多かったため、それがむしろ正しいという思考が根付いているようです。最澄に擬せられた平安後期の偽書『末法灯明記 』での主張が、今もなお日本で意識的・無意識的に浸透し蔓延している、といったところです。
あるいは、近世における孤高にして不世出の天才町人学者、富永仲基 の主張した倫理思想(『翁の文』)に無意識に影響を受け、あたかも現代ようやくその者が思いついたかのように錯覚してそのような主張を作しているのでしょう。現代日本人の思想の根底には、古代以来日本の文化的中心を占めた仏教ではなく、むしろ近世の優れた古学の儒者達や富永仲基などにより種々様々に展開した思想が、ほとんどの場合まったく無意識的に、しかしそれだけに強固に脈々と受け継がれている、と非才は見ています。
しかし、たとえば古代平安中期から日本仏教が無戒となっていたことを、平安末期から中世鎌倉期初頭の栄西もまた非常な問題であるとしていました。栄西と先の貞慶とはほぼ同世代の人です。彼は比叡山出身の日本天台僧であって最澄を深く敬愛していましたが、二度の渡宋経験いわゆる国際経験によって、僧としては菩薩戒だけでなく比丘律儀(具足戒)をまず護持することが最重要であると主張し、実際それらを厳持していたようです。栄西は臨済宗を日本にもたらした人として著名ですが、彼はまた天台密教の学匠でもあってまた真言も受法しており、さらに中世さかんに展開された戒律復興運動の、その黎明期に関わる人でもありました。
言うまでもなく、その当時の日本も、インドのそれとは国も時代も風土も異なったものです。また栄西にとっては当時こそが今、現代でした。これは至極当たり前のことながら、そう考える人は実に少なく、なんでも「それは昔の話だ」として済ましてしまうようです。しかし、そうではない、それは単なる昔の話などではない。
何依佛法乍出家不從佛誡哉勸誡時至持戒那倦苦輪責項不可不厄無常當額莫放逸眠
一体どうして仏法に依って出家しておきながら、仏の教誡に従わないのであろう。勧誡〈善を勧めて、悪を制すること〉、まさに今こそなすべき時である。持戒するのに、どうして思いあぐねることがあろうか。苦輪〈生死輪廻という際限なき苦の循環〉は項〈人の急所。切迫していることの譬え〉を責め続けている。これを厭わずあってはならない。無常は額〈項に同じく、切迫していることの譬え〉に当たっている。放逸に眠ることなかれ。
栄西『出家大綱』第一 二衣法
宗旨宗派など関係なく、自らが仏弟子である、仏教徒であると考える人ならば、このような栄西による「あたりまえ」の言葉は、きっと重く響くものとなるはずです。