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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏垂般涅槃略説教誡経』(『仏遺教経』)

あるべきようわ

生あるうちにこそ

画像:明恵上人図(『集古十種』)

『仏遺教経』は、ただ出家者のあるべきよう、比丘として持戒を貫くことの重要性を説いただけのものでなく、他に修禅者・瑜伽行者にとっても大変有益な教示がなされています。

中世初頭の華厳宗の聖僧、明恵みょうえ上人は、十八才の頃に『仏遺教経』を読んだことがその後の人生を決定したとすら言え、実際その生涯において信受したといいます。上人は、初めてこの経典を読んだときには感動のあまり涙した、と伝えられています。

仏教において、何かを過度に情緒的・感情的に受け入れることは決して好ましいことではありません。しかし、釈尊に対してひとかたならぬ信心を持つ者が、この『仏遺教経』の所説に触れたならば、明恵のように涙こそせずとも、何らか感じるところ大なるものがあることでしょう。

明恵の当時、すでに東大寺戒壇院などにおける受具の制度は完全に形式的な通過儀礼となっており、授ける者も受ける者も誰も守っても守る気もないけれども制度上仕方ないから儀式だけは執行する、という状態となっていました。事実、明恵もまた戒壇院にて受戒していますがそれは歳十六のことです。

すなわち具足戒は数え二十歳以上でなければ成立しないので、明恵が持律の比丘であったということはなく、厳密に言えば僧であったとすら言えません。当時はすでに比丘など一人も存在しなくなっていたため、実は明恵を含めた当時の日本仏教界には、正式な沙弥すら存在していませんでした。そしてそのような見方は今だからこそあるわけではなく、当時もそのような自覚がなされていたました。

しかしそんな中、むしろそうであったからこそ、明恵にとっても『仏遺教経』は真に価値あるものであり、自ずから持戒の重要性を主張し、またその上で懸命に修禅に励むことになっていったと思われます。

或時あるとき上人語ていわく、我に一の明言みょうごんあり。我は後生ごしょうたすからんとは申さず。只現世にあるべき様にてあらんともうす也。聖教しょうぎょうの中にも行ずべき様に行じ、振舞ふるまうべき様に振舞へとこそときおかれたれ。現世には左之右之とてもかくてもあれ、後生計りたすかれととかれたる聖教は無きなり。仏も戒を破て我を見て何の益かあると説給へり。仍て阿留辺畿夜宇和あるべきようわと云七文字ななもじを持べし。是をたもつを善とす。人のわろきはわざとわろき也。過ちにわろきには非ず。悪事をなす者も、善をなすとは思はざれども、有べき様にそむきて、まげて是をなす。此の七字を心にかけて持たば、敢て悪き事有べからずと云々。
ある時、明恵上人が語られた。
「私には一つはっきりと言い切れることがある。私は来世に助かろうなどとは言わない。ただ現世にあるべきようにあろうと言う。聖教しょうぎょうの中にも「修行すべきように修行し、振る舞うべきように振る舞え」とこそ説き示されている。現世ではどうだろうと、来世にこそ救われよ、などと説いている仏典は無いのだ。仏陀も「戒を破っておきながら私を見たところでどんな益があるのか」とお説きになっている。したがって「阿留辺畿夜宇和あるべきようわ」という七文字をたもつべきである。これをたもつことを「善」とする。人が悪いのは故意に悪いのである。意図せずして悪いのではない。悪事を行う者も善事を行っているとは思ってはおらず、曲げて悪いのだ。この(「阿留辺畿夜宇和あるべきようわ」という)七字を心がけてたもてば、あえて悪いことのあるはずもない」

『栂尾明恵上人伝記』

明恵は当時流行していた法然が主張する所の浄土教に厳しい批判の言葉を浴びせた人で、またいま挙げた一節の中でも述べているように「阿留辺畿夜宇和あるべきようわ」を説いたことで今に至るまで非常に著名な高僧です。その明恵に強い影響を与えた『遺教経』は、まさに生きてあるうち、生命あるうちにそれぞれ分際に応じてなすべきことをなせと訓戒したものでもあります。

先にも触れましたが、支那はもとより日本の仏教にも多大なる影響を与えた天台大師智顗は、その著の端々で『仏遺教経』を引いて持戒の重要であることを説き、また『修習止観坐禅法要』〈『天台小止観』〉の中にても多く引用して修禅の典拠としています。禅宗においても「仏祖三経」の一つとして『仏遺教経』は重用されています。日本に曹洞宗をもたらした道元などは、その著『正法眼蔵』(十二巻本)にて、この『仏遺教経』を根拠として「八大人覚」なる一章を最後に設け、これを修めることを強く推奨しています。

近世初頭に始まった(仏教復興を目指した)戒律復興運動において、明治期を迎えてその流れは途絶えてしまったものの、その頂きの一つに達していた摂州の慈雲尊者もまた、この『仏遺教経』を非常に重要視していました。尊者は『仏遺教経』の一節をその主著『十善法語』にて幾度も引用し、戒がいかに重要なものであるかの根拠の一つとしています。またその遺した墨跡には多く『仏遺教経』に取材したものがあります。

少なくとも近世から近代初頭まで、『仏遺教経』は真摯に求法する出家者はもとより、篤信の在家信者にとっても、その「あるべきようわ」を示す、いかに生きるべきかの金言に溢れた経でありました。

現代、日本仏教の宗派でこの『仏遺教経』を重んじ用いているのは、禅宗(臨済・洞上)および真言宗(新義)くらいのものとなっています。もっとも、「重んじ用いている」などといっても、それはただ一年のうち二月十五日の涅槃会という儀式儀礼の前後においてその和文を読誦し、「今年もこの季節がやってきた」などと得意げに世間に言う程度のものであり、あるいは禅宗における葬儀・通夜の場でこれを唱え、如何に聴衆(檀家)に良く聞こるかを工夫するだけに過ぎません。非常に残念なことです。

怠らずに励んで目的を果たせ

画像:クシナガラの涅槃像

『仏遺教経』を通夜の場で読んだとて、故人に対してはもはや何の意味もありません。『仏遺教経』が「仏陀最期の教えを伝える経」であるとはいえ、それをすでに逝去して無い亡者に対して唱えたところで一体何になるでしょうか。

日本仏教における葬儀というものの位置づけが、そこに参加する者ではなく「その死者に引導を渡すこと」を主体としたものである以上、読経は参加者に対してではなく、常に死者に向かって行われています。日本仏教における葬儀という場は、「人は必ず死ぬ」という無常を再確認し、また故人への敬意を表す場とするというのでは建前上もありません。そもそも「死者に引導を渡すこと」など誰も、決して出来る筈もないことです。

これは仏教本来からすれば非常におかしなことでありますが、もはや日本人は当たり前のことだと思うようになって疑問に感じる者はまずありません。いや、一般には、葬式の場で僧職者が一体何をやっているか心得ている者など、ほとんどありはしないでしょうか。しかし、どの宗派であれ、現今の日本仏教の葬式というものは、そのような「そもそも不可能なこと」・「自ら出来ないこと」・「実際出来ていないこと」に対し、当たり前のように高額な対価を求めるものとなっています。

葬式など無用であるとは決して思わず、また奇妙奇天烈な「見送る会」だの直葬を勧めるものではまったくありませんが、近世以来の日本仏教における歪な葬式の構造、その前時代的かつ非仏教的な法式は改めてしかるべきです。しかし、いずれの宗旨宗派であれ、もはや因習と化して伝統的欺瞞以外の何物でもないといえる、各宗旨・宗派において行われている引導作法・無常導師作法や葬儀のあり方を見直し、これを改善するだけの知見と勇気を持った者は、おそらくありはしないでしょう。

上に示したように、『仏遺教経』はあくまで「人はいかに生きるべきか」を説いた経であり、歴史的にも仏教者のあるべきようを説く尊い経として、生きた人により珍重されてきたものです。それを『仏遺教経』の所説から真反対にある、仏教をただ生業の手段としているに過ぎない現今の日本の僧職の人が、釈尊の涅槃図の前あるいは亡者の前で舌先三寸ばかり少々動かして読み上げるだけに留まることは実に喜劇であり、しかし仏教としては大なる悲劇というべき他ありません。

『仏遺教経』の最後に説かれる釈尊の言葉はこのようなものです。

是故當知。世皆無常。會必有離。勿懷憂也。世相如是。當勤精進。早求解脫。以智慧明滅諸癡闇。世實危脆。無牢強者。我今得滅。如除惡病。此是應捨罪惡之物。假名爲身。没在老病生死大海。何有智者。得除滅之如殺怨賊。而不歡喜。汝等比丘。常當一心。勤求出道。一切世間。動不動法。皆是敗壞不安之相。
 このことからまさに知るべきである、世界はすべて無常であって、会う者には必ず別れがあることを。(我が滅度に接して)憂い悩みを抱くことなかれ。世界の姿はこのような(変化流転する)ものである。まさに勤め励み、精進して早く解脱を求め、智慧の明かりによって諸々の痴という暗闇を滅ぼせ。世界は実に危うく脆いものである。堅牢にして不変なものなど存在しない。
 私が今、ここに滅を迎えることは、あたかも悪しき病を取り除くようなものである。この身体、苦しみの世に生を受け続けることは、まさに捨てるべき罪悪の物である。ただ仮に名づけて身体としたものに過ぎない。それは老いと病、生まれて死ぬという(苦しみの)大海に溺れ沈むものである。どうして智慧ある者で、(その苦・罪悪を)除滅すること、怨賊を殺すかのようにして、(果たして除滅したならば)歓喜しないでいることがあろうか。
 比丘たちよ、常にまさに一心に勤め励んで、出離の道を求めよ。あらゆる世間の動・不動の事物は、すべて脆く不確かで不安な有り様である。

鳩摩羅什訳『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』(T12, p.1112b)

あるいはまた、南方の分別説部にて伝持されてきた Mahāparinibbānasuttaマハーパリニッバーナ・スッタ に伝えらえる釈尊の最期の言葉は、以下の様なものでした。

"Handadāni, bhikkhave, āmantayāni vo, Vayadhammā saṅkhārā, appamādena sampādetha". Ayaṃ tathāgatassa pacchimā vācā.
「さあ、比丘たちよ、諸々の作られたもの(諸行)は衰え滅びる性質のものである。怠らずに励んで目的を果たせ」
これが如来の最後の言葉であった。

DN. Mahāparinibbānasutta, Tathāgatapacchimavācā

刻一刻と自らの死が近づいているという、人が抗い難く否定し得ない時の流れの中、自らがいまだ息あり意識あるうち、すなわち今、これを聞きみずから読んでその血肉にしてこそ、『仏遺教経』の真義が現れます。これを自ら死んだ後、他者によってモジャモジャ読まれたとしても、その読誦する者はもとより死者となった自身にも意味など欠片としてありはしません。

『仏遺教経』は、特別仏教を学んだことのない人であったとしても、その内容を理解するのに難を伴う点などほとんど存していません。本経は、仏教の真に何たるかを実に平易にわかりやすく、そして無常の火の迫ること急であって誰も逃れられないことを示す、すなわち人がいかに生きるべきかを示す、誠に優れて貴い経典の一つです。

これをただ死者の弔いなどという場にて口唱するだけでなく、真に自らが生きるための指針として読み、護持する人のいくらかでも現れることを願ってやみません。

Bhikkhu Ñāṇajoti