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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』

日本への伝来

その他多くの経典の一つとしての『仏遺教経』

日本に『仏遺教経』が初めて伝わったのがいつであったかは定かでありません。

しかし、天平三年〈731〉から五年〈733〉には、すでに日本に伝わっていたことが確かです。いま不佞が見出し得る、日本における『仏遺教経』に関するもっとも古い記録は、宮中に納められていた「写経目録」〈『大日本古文書(編年文書)』, vol.7, p.10〉です。それは遣唐使と伴に渡った誰か留学僧により、「小乗経」としてもたらされていたものと思われます。

またほぼ同時代、特に『仏遺教経』こそが意識的に日本にもたらされていたことを伝える史料が、近江石山寺に残されています。

唐清信弟子陳延昌荘厳此大乗経典附日本使国子監大學朋古満於彼流傳 開元廿二年二月八日従京發記
唐の清信弟子〈在家信者〉陳延昌〈未詳〉、この大乗経典を荘厳〈筆写・清書〉し、日本使、国士監大学〈隋代以降の支那における最高学府〉の朋古満〈一説に大伴古麻呂、或いは羽栗吉麻呂〉に附して彼に(日本国において)流伝せしむ。開元二十二年〈天平六年(734)〉二月八日、京〈長安〉より発つとき(この奥書を)記す。

「遺教経奥書」(石山寺蔵)

この跋文を伝える石山寺蔵『仏遺教経』は原本でなく、おそらく平安期に筆写されたもののようです。そして、この奥書を書いた陳延昌なる人物により、『仏遺教経』を日本で流布することを託された「朋古満」が一体誰であったかは未だ定説を見ていません。しかし、それが開元二十二年〈734〉の頃に唐土の最高学府である国士監にいた、すなわち頭脳優秀であった人であり、またこれがおそらくは遣唐使によって日本に持ち帰られ伝わったことからすると、おのずとそれに比定される人は限られます。

史学会ではそれは、後に遣唐副使として(再び)入唐し、その帰りに鑑真一行を同船させることになる、 大伴古麻呂 おおとものこまろ の若き頃であろう、とする見方が強いようです。

いずれにせよ、これによって当時『仏遺教経』が、必ずしも国家の力によらず、支那の一篤信者の意志によって意識的に日本にもたらされていたことは特筆すべきです。当時の支那の、しかも在家における仏教理解の一端を垣間見せるものであるからです。それはまた、あるいは先に挙げた唐太宗による仏教流布の影響が、世紀を超えて浸透していたことの証となるでしょう。

しかし、ではそれで陳延昌なる人の本懐であった日本で『仏遺教経』が流布したか、といえば『続日本紀』(以下『続紀』)など諸史料から知られる天平年間の日本仏教界における出家者らの振る舞いを見たならば、否であった、ということになります。

元正天皇や鑑真渡来以前の聖武天皇の御代における仏教者らの振る舞いは、そもそも何が仏教僧であるかすらわかっていないような者らにより、まさに『仏遺教経』の所説の真反対がまま行われていたことを、『続紀』は所々で批判的に伝えているのです。

玄昉僧正 ―「一切経」をもたらした学僧

そのほとんど同時期、留学僧として足掛け十八年の長きに渡って特に法相唯識を修学研鑽し、それは天平七年〈735〉のことですが、帰国に際して多くの経論と諸仏像をもたらした 玄昉 げんぼう という僧がありました。

己亥。僧玄昉死。玄昉俗姓阿刀氏。靈龜二年入唐學問。唐天子尊昉。准三品令着紫袈裟。天平七年隨大使多治比真人廣成還歸。賷經論五千餘巻及諸佛像來。皇朝亦施紫袈裟着之。尊爲僧正。安置内道場。自是之後。榮寵日盛。稍乖沙門之行。時人惡之。至是死於徙所。世相傳云。爲藤原廣嗣霊所害。
(天平十八年〈746〉六月)己亥〈18日〉、僧玄昉が死んだ〈『続紀』には、ただ六人の僧伝(卒伝)のみが掲載されているが、玄昉と道鏡のみ「死んだ」とされ、他は「卒した」・「物化した」・「薨した」となっている。これは、一定以上の功績・影響を皇家に対して残しながらも、最終的に朝廷から廃された・罰せられれた人であったことによる区別〉。玄昉の俗姓は阿刀氏である。霊亀二年〈716〉、唐に入って学問する。唐の天子は玄昉を尊び、三品を准して紫袈裟を着せしめた。天平七年〈735〉、大使多治比真人広成に随って帰還した。そこで経論五千余巻及び諸仏の像をもたらし来たった。皇朝〈聖武天皇〉はまた(唐の皇帝に準じて)紫袈裟を与えてこれを着させた。そして尊んで(僧綱に任じて)僧正とし、内道場〈御所内に設けられた仏殿。道慈の発案により唐朝に倣って創建された〉に安置した。これより以降、栄寵〈天皇の寵愛〉日々に盛んとなって、次第に沙門の行から背くようになっていき、時の人はこれを嫌った。そしてここに至って 徙所 ししょ 〈転居した場所。ここでは左遷された太宰府観世音寺のこと〉に於いて死んだ。世間で(玄昉の死について)相伝えて云うには、藤原広嗣の霊によって害されたのだ、とされている。

『続日本紀』巻十六 天平十八年六月己亥条
(新訂増補『国史大系』普及版, 『続日本紀』前篇, p.188)

ここで『続日本紀』に伝えられる玄昉のもたらした五千巻余りの仏典とは、当時編纂されたばかりの経録(仏典目録)であった智昇『開元釈教録』巻十九および巻二十の「入蔵録」に挙げられている、千七十六部五千四十六巻のことです。

なお、「入蔵録」はまた「大乗入蔵録」(638部2745巻)と「小乗入蔵録」(330部1762巻)とに分類されており、さらに併せて仏弟子や高僧伝さらに既存の経録などの「賢聖集伝」(108部541巻)が蒐集され、総じて1076部5046巻となる次第です。

佛垂般涅槃略説教誡經一卷亦云佛臨般涅槃一名遺教經六紙
『仏垂般涅槃略説教誡経』一巻または『佛臨般涅槃』とも云い、あるいは『遺教経』とも言う。六紙。

智照『開元釈教録』巻十九(T55, p.688a)

その昔の支那では『仏遺教経』は小乗経典・小乗律として扱われていたこともありますが、智昇は「大乗入蔵録」の大乗律ではなく大乗経の部外に編纂しています。

一般に、仏教をして「八万四千の法門」などといわれますが、それは仏陀の教えが多様で機知に富んだものであることをいうインド以来の比喩的表現であって、文字通り八万四千種あるわけではありません。そしてこの場合の法門というのは経典の数ということでもない。

たとえば他に、仏典においてその人が非常な高齢であることを「百二十歳」であるといい、あるいは「五百人」・「三千世界」・「三千威儀」であるとかいう数を用いた表現もまた、その程度や数などが通常より甚だしい時などに用いられる大げさな定型句であって、正確な数字を伝えたものでは大体ありません。これらの数字を額面通りに受け取ってはいけない。

実際の経典の数、すなわち『開元録』に収録された一切経は、典籍の数としては一千七十六部であり、その巻数としては五千四十六巻です。この巻数が以降、一切経として標準とされています。また宗派としては奈良期は「六宗」(平安・鎌倉期は「八宗」、稀に「九宗」)というのが伝統的見方となっています。

ちなみに、『開元録』の編者智昇が何に基づいて一切経としたのかといえば、その住していた西崇福寺が蔵する所の膨大な経典を以てしていたようです。智昇は、西崇福寺所蔵の経典を大乗・小乗そして伝記類に分類し、これを一切経であるとしたのです。そんな智照の目録を元に諸々の経論を収集し持ち帰ったのが玄昉でした。

もっとも、正確なところを言えば、玄昉は『開元録』に挙げる全ての経典五千四十六巻を持ち帰ってはいません。実際、玄昉が請来した経典の中に、『仏遺教経』は含まれていなかったようです。おそらく、玄昉は何らかの形で、それは唐留学中に度々やって来ていた遣唐使や留学僧からの情報によるのでしょうけれども、日本にすでに伝わっていた経典目録を参照しており、既に伝わっていたことが明瞭であった『仏遺教経』は敢えて抜いていたようです。

玄昉がこの時はじめて日本にもたらしたのは、世親せしん〈Vasubandhu〉によって筆されたと伝説される『遺教経論』というその注釈書で、これも確かに『仏遺教経』流布のためには必要であったものです。いずれにせよ、玄昉の請来した諸経論は非常に注目され、帰国翌年の天平八年〈736〉から光明皇后の発願によって開始されたいわゆる「五月一日経(光明皇后願経)」の元となっています。

また、玄昉により日本にもたらされたそれは当時最新の一切経目録に基づくものであって、仏教を核として国家の整備と治国を目指していた時の帝、聖武天皇にとって、玄昉の功績は望外の喜びであったに違いありません。そして帰国翌年に皇太后藤原宮子が長く患っていた病(おそらくは精神病)を癒したということもあり、玄昉は天平九年〈737〉、当時は僧綱の最上職であった僧正に任じられています。

玄昉は唐で長らく法相を学び、その学徳を高めて日本に帰国し、聖武帝の信を受けて厚遇されるまでは良かったのでしょう。皇太后の藤原宮子の病を平癒したことをきっかけに皇家から篤く信を寄せられたまでは良かった。けれども、それで権力の渦中に入ってその味を覚えたようでそこから脱することはなく、これは自ら意図したものでは無かったでしょうが、ついに 藤原広嗣 ふじわらのひろつぐ の乱を惹起するに至っています。

後代、玄昉は権力におもねり、それを傘に威を振るった人として大凡見られていますが、実際の所どうであったかはわかりません。ただ皇家以外の当時の人に非常に嫌われたことは確かであるのでしょう。

結局、玄昉は失脚して筑紫観世音寺に左遷され、その半年後に生涯を終えています。あるいは藤原広嗣の深い恨みを継いだその家臣や血縁者などによって襲撃され、何らかの方法で殺害されてしまったのだと思われます。もっとも、『続日本紀』の「玄昉卒伝」が伝えているのは、玄昉は人に殺されたのではなく、広嗣の霊によって恨み殺されたと当時の人々にされていたことです。

僧正玄昉。忽然登數丈。卽落地夭亡。更無血骨。俗云。太宰少貳廣繼靈所爲。
僧正玄昉は、忽然と数丈〈一丈は約3m〉も(空中に)浮かび上がったかと思えば、たちまち地に落ちて夭折した。しかも(その死体には)血と骨が無かった。俗間で云うところには、 太宰少貳 だざいのしょうに 〈太宰府の職位。従五位下〉(藤原)広嗣の霊の為せるところである、とされる。

興福寺本『僧綱補任』第一(日仏全, vol.123, p.96)

この話はまた後代の『扶桑略記』にも伝えられ、さらに当時の世間で流布していた説が加えられて以下のようなものとなっています。

十一月乙卯日。遣玄昉法師筑紫。造觀世音寺。沙門之行稍乖。時人惡之。 庚午日。收玄昉法師封物。 
十八年六月丙戌日。玄昉法師為大宰小貳藤原廣繼之亡靈。被奪其命。廣繼靈者。今松浦明神也。所持經論。悉納於興福寺□□。无紕謬失誤矣。已上國史。 流俗相傳云。玄昉法師。大宰府觀世音寺供養之日。為其導師。乘於腰輿供養之間。俄自大虛捉捕其身。忽然失亡。後日。其首落置于興福寺唐院。已上。
 (天平十七年〈745〉)十一月乙卯日〈2日〉。玄昉法師を筑紫に派遣し、観世音寺の造営に当たらせたが、沙門の行に次第に背くようになり、時の人はこれを悪んだ。 庚午日〈17日〉、玄昉法師の封物を収めさせた〈封物は天皇から下賜された物。それを玄昉は全て国庫に返却させられた〉。 
十八年六月丙戌日〈5日〉、玄昉法師が大宰小貳〈太宰府の職位。従五位下〉藤原広継の亡霊により、その命を奪われた。広継の霊は、今の松浦明神〈唐津の鏡神社。刑死後、藤原広継はその第二宮の祭神に祀り上げられた〉である。(玄昉法師)所持の経論は、悉く興福寺□□〈二字欠落〉に納められ、紕謬・失誤ないものであった〈玄昉請来の経論が誤字脱字等の少ない確かなものであったことを意味するか?〉已上は国史に基づく説。
流俗〈俗世間〉が相伝して云うには、玄昉法師は大宰府観世音寺における供養の日、その導師として 腰輿 ようよ 〈人の乘る神輿のようなもの〉に乗って供養していると、俄かに虚空から(何者かに)その身体が捉えられ〈「突如として空中に浮かび上がった」とされた巷間の話がこのように変わっていたのであろう〉、忽然として失亡〈死亡〉した。そして後日、その首が興福寺の唐院に落とし置かれた、とのことである已上。

『扶桑略記』抄二(新訂増補『国史大系』, vol.12, p.95)

玄昉が藤原広継から深い恨みを買っていたことは間違いなく事実でしょうが、時代を経て噂が噂を呼び、尾びれ背びれどころか兎角亀毛の類と変じ、ついにその亡霊によって取り殺されたとまことしやかに伝えられていたようです。古代中世どころかいつの時代であっても、市井の愚民は変わらないことを、この話はまた物語っています。

さて、そのおよそ半世紀前、唐に渡って玄奘から直接法相唯識を長年学んで寵愛され、さらにその勧めに依って修禅を深めて学解に留まらず、帰国して帝から丁重に迎えられても増長頽廃すること無く僧としての生涯を全うした道照と、左遷された地にて夭折した玄昉の人生とはあまりに対象的なものです。

実に憐れなことですが、富と名誉という網は多くの人に逃れがたい強固なもので、むしろその網に絡め取られることを自ら望む人こそ多いことは、歴史が示しているところです。毀誉褒貶など「八風に動ぜざれ」とは言いますが、それが可能なのは現実にはごく少数でありましょう。

けれども、それが出来ぬと自らその身を持ち崩すこともまた必定。そしてその渦中にある者は盲てそれが見えず、また他からの諫言は聞こえず、あるいは嫉妬や中傷としてのみその耳に届いてしまう。それが往古から繰り返される人の営み。悲劇であり、喜劇です。

玄昉の最期は無惨なもので、後代も決して再評価されるような人ではありません。しかし、なんといっても玄昉が唐からもたらした法相教学そして五千余巻のその後の日本仏教への影響は非常に大きく強いものでした。その故にこそ、『続紀』に卒伝が実に簡便ながらも収録されたと思われます。