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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒法

十善戒 Ⅱ. 業とは何か

業は思である

仏教が世間一般に信奉されず、ほとんど学びもされなくなった昨今、しかし仏教由来の言葉や概念は、それが仏教に基づいたものであることも意識されずして、現代なお広く巷間用いられています。そんな数多くの言葉の中に「業」という語があって、今もよく世人によく口にされ、またそこここで耳にすることがあるでしょう。

例えば、前世の行為によって現世で受ける報いを表現する語ながら、得てして悲劇的で苦痛を伴う出来事について「業が深い」であるとか、不本意な事態や怒りを生じさせる事物・人について「業を煮やす」、「業腹だ」などと言われます。それらはもちろん、仏教における「業」の定義、理解に基づいた語、表現です。

では「業」とは何か。その仏教における定義はいかに。

それは諸々の経文に明示されているものの、しかし異なるいくつかの部派それぞれが伝持した経典によって、その言葉を理解するのにいくらかの相違を生じさせ得るものとなっています。実際、我々が今接し得るいくつかのもののうち、たとえば往古の南インドにて勢力を広げ、今もスリランカや東南アジアに現存し信奉されている上座部(分別説部(ふんべつせつぶ))が護持してきたパーリ語による経典では、業をして以下のように仏陀は定義されたと伝えられています。

cetanāhaṃ, bhikkhave, kammaṃ vadāmi. cetayitvā kammaṃ karoti — kāyena vācāya manasā.
比丘(びく)たちよ、業(ごう)〈kamma〉は思(し)〈cetanā. 意志〉である、と私は説く。(人は)思をなし已(おわ)って身(しん)〈kāya〉・口(く)〈vāca〉・意(い)〈mana〉により業を作る〈karoti〉。

Chakkanipātapāḷi, Dutiyapaṇṇāsaka, Mahāvagga, Nibbedhikasutta (AN 6.63)

このNibbedhika(ニッデーディカ)-sutta(スッタ)にて仏陀はまず「業は思である」と、業([S] karma(カルマ) / [P] kamma(カンマ))とは、阿毘達磨(あびだつま)にて心所の一つとされる思([S/P] cetanā(チェータナー))に同じである、と明言されています。そこで一般に、この一節は、業の本質が思であることをいうものと理解されています。

思(し)(cetanā(チェータナー))とは、仏陀が心(精神)を分析して言われた、心と必ず伴って働くその作用の一つであって、これを現代日本語では意志や志向、英語ではvolition(ヴォリション)あるいはwill(ウィル)と訳される語です。もっとも、このような現代日本語や英単語を示されたとて、ほとんどの人には今ひとつ理解しがたい、いや、むしろ珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)であることでしょう。

実際のところ、思(cetanā)は確かに生命が等しく有する心の一作用ではあるものの、それは我々が意識的に例えば「~しよう」・「~しないでおこう」と欲し決断することを謂うものではない。それは、そう明確に自ら意識し決する以前、すでに吾人らの心の内で潜在的に常に働いているものであり、故に「意識が一定の対象に向かうこと。考えや気持ちがある方向を目指すこと」などを意味する「志向」という語などを以て、今訳されます。思(cetanā)という心の作用、その働きを、いや、その存在をすら、我々は普段、明瞭に自覚し得ません。

(思(cetanā)とは何かを示唆し、現代的に理解するための手がかりもしくは一見解として、少々古くはあるものの、例えば「ベンジャミン・リベット(Benjamin Libet)の実験」がある。)

業は、そのような思(cetanā)を本質とするものであって、それに基づいてこそ身・口・意の三業が作られる、とする仏所説をこの経は伝えています。

一方、説一切有部(せついっさいうぶ)のĀgama(アーガマ)(伝承された教え)の漢訳である『中阿含経(ちゅうあごんきょう)』所収の「達梵行経(だちぼんぎょうきょう)」では、業の本質が何かには触れられず、ただ業には二種あって思已業(しいごう)と思業(しごう)とである、とされています。すなわち、「業とは何か」について説かれた上掲の二つの経、Nibbedhika(ニッデーディカ)-sutta(スッタ)と「達梵行経」とではその切り口が異なっているのです。そして、上座部には『中阿含経』「達梵行経」に該当する経典または経文を伝えておらず、また説一切有部などにはNibbedhika(ニッデーディカ)-sutta(スッタ)に該当もしくは類する経典や経文がありません。

云何知業。謂有二業。思已思業。是謂知業。
何をもって「業(ごう)を知る」というであろう。業には二つあって、思已(しい)と思(し)との業である。これを「業を知る」という。

瞿曇僧伽提婆『中阿含経』中阿含林品 「達梵行経」第五(T1, p.600a)

しかしさて、このように漢語にて「思已(しい)と思(し)との業」などとあるのを見ても、まるでピンとこない人が屹度(きっと)多くあることでしょう。残念なことにこの経の梵本が伝わっておらず、その原語によって解することは出来ないため、漢語でこれらを文字どおり理解するならば、思已業とは「意志し已(おわ)って(具体として為された)行い」で、要するに「思(cetanā)を基として生起し、何らか具体化した行い」。思業は「思(cetanā)という精神的行い」あるいは「行いとしての思(cetanā)自体」ということになります。

この一節は極短くあまりに端的で、むしろその故に、思已業(しいごう)と思業(しごう)の二業は身・口・意の三業がいかに配当されるかを考えたならば、二様(によう)に解釈し得るものとなっています。思已業という語の指示する範囲が、身・口・意すべてに渡るものであるのか、あるいは身・口のみとなるかの二様です。そしてその解釈をそのまま思業について言ったならば、前者の場合は先に示したNibbedhika(ニッデーディカ)-sutta(スッタ)の所説の如く、「業の本質、根拠としての思(cetanā)という心の働きそのもの」を謂ったものとなり、後者の場合は思業はすなわち意業に同じということになる。

このようにした場合、前者(解釈①)はNibbedhika(ニッデーディカ)-sutta(スッタ)と「達梵行経(だちぼんぎょうきょう)」との所説は矛盾したものとはならない。けれども伝統的に、説一切有部では、これを後者(解釈②)の仕方で理解しており、思業とは意業であって思已業とは身業と語業であるとしています。

世別由業生 思及思所作 
思即是意業 所作謂身語 
世界の異なりは業(ごう)によって生じる。(業とは)思(し)および思の所作(しょさ)である。 
karmajaṃ lokavaicitryaṃ, cetanā tatkṛtaṃ ca tat.
思はすなわち意業(いごう)である。所作は身と語(の業)である。
cetanā mānasaṃ karma, tajje vākkāyakarmaṇī.

世親『阿毘達磨倶舍論』巻十三 分別業品 第四之一(T29, p.67b)

このような理解はただ説一切有部に限定されたものではありません。大衆部(だいしゅぶ)もしくは経量部(きょうりょうぶ)の立場から仏教の教理について論じられている『成実論(じょうじつろん)』にもまた、同様の理解が記されています。

又經中説二種業。若思若思已。思即是意業。思已二種。從思集業及身口業。是意業最重。
また経の中に二種の業(ごう)が説かれている。思(し)と思已(しい)である。思はすなわち意業(いごう)である。思已には二種ある。思によって業を集めること、及び身(しん)・口業(くごう)である。このうち意業が最も重大である。

訶梨跋摩『成実論』巻七 集諦聚業論中業相品 第九十五(T32, p.290a)

このように、説一切有部とその他の部派においても、その根拠となる『中阿含経』「達梵行経」と同一あるいは類する経典が伝えられていたことによって、業には思業と思已業との二種あって、前者は意業であり後者は身・口業であるとする理解がなされていたことが知られます。

そして『成実論』では「是意業最重」と、三業のうち意業こそ最も重要なものと断言しています。これは先に仏教における善悪とは何かを述べる中で示したように、「あらゆる行いは心を先として為されるもの」とする仏所説からして妥当な言です。

ただし、今これに言及して深入りすることは一般に難解・複雑になりすぎる嫌いがあるものの、しかし重要なことであるため簡単に指摘のみしておくと、説一切有部など一部の部派では、身・口・意の三業のうち身・口業の本質は形色すなわち物質であって、意業のみが思を本質とするとされます。それに対し、上座部や経量部、そして大乗(瑜伽行唯識)などでは、身・口・意の三業すべては思を本質であるとされています。業が思を本質とすることは諸派ほぼ通じた見解となってはいるものの、こと三業をいかに解釈し定義するかについては、諸派それぞれ異なっているのです。