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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒法

十善戒 Ⅳ. 道

「道」とは何か

画像:「道」とは何か?

「道」とは何か。仏典あるいは梵典にて、漢訳で「道」とされる語はpatha(パタ)の他に、mārga(マールガ) ([P] magga(マッガ))やpratipad(プラティパド) ([P] paṭipadā(パティパダー))、añjasa(アンジャサ)そしてgati(ガティ)、場合によってはnyāya(ニヤーヤ)やbodhi(ボーディ)などがあります。すなわち、一口に漢語で「道」といっても、原語がそれだけ異なってあるならば、同義語・類義語という場合もあるだろうけれども、それぞれ違った意味・内容を示すものであるのに違いない。

今自らある処から目的とする地へと続くもの、自ら歩む道程です。これは支那の儒家や老子、そして時に仏教もその意で用いたような「先人の教えとしての道」ではなく、また道家(神仙思想)が用いた何か「呪術的力を発揮せる術としての道」でもありません。それは仏陀の出世があろうとなかろうと世に普遍たる基準、理でもあります。ならばそれは、老子がまた意味した「一切の作為を捨て去ったところに現れる無為(むい)としての道」でもありません。あるいは「天地万物が生じる以前の混沌としての道」でもありません。

ならばそこで「十善業道」という場合の「道(patha)」は、いかなる意味か。

依何義名業道。頌曰
此中三唯道 七業亦道故
論曰。十業道中後三唯道。業之道故立業道名。彼相應思説名爲業。彼轉故轉。彼行故行。如彼勢力而造作故。前七是業。身語業故。亦業之道。思所遊故。由能等起身語業思託身語業爲境轉故。業業之道立業道名。故於此中言業道者。具顯業道業業道義。雖不同類而一爲餘。於世典中倶極成故。離殺等七無貪等三立業道名類此應釋。
《中略》
譬喩論師執貪瞋等即是意業。依何義釋彼名業道。應問彼師。然亦可言。彼是意業惡趣道故立業道名。或互相乘皆名業道。
どのような意義によって「業道〈karmapatha〉」と云うのか。頌に曰く。
この(十業道の)中、三は唯だ道のみ。七は業であってまた道である。
trayaṃ tatra pathaḥ, karmāpi saptakam,
論じて曰く。十業道の中、後の三〈貪欲・瞋恚・邪見〉は(業ではなく)唯だ「道〈patha〉」である。(しかし、身三・語四の悪もしくは善の)業の道〈素因であり過程〉であることから「業道〈karmapatha〉」といわれる。それに相応する思〈cetanā〉を名づけて「業〈karma〉」という。それが転じることに因って転じ、それが行ずることに因って行じる。その勢力の通りに造作する故に。(それに対し、)前の七〈殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌〉は業である。身(三)・語(四)の業である故に。そしてまた業の道でもある。思によって発動されるものである故に。能等起の身・語の業の思が、身・語の業に託し対象として転じる故に。(前の七は)業であって業道であるから業道の名を立てる。故にこの中に於いて「業道」と言うのは、具には業道と業・業道との義を顕したものである。(業道と業とが)同一ではなかったとしても、(同一ではない事物を一括りにして、その中の)一方をもって他方の名称とすることは、世俗の典籍においても同様になされることであるためである。離殺等の七と無貪等の三とについても、業道の名が立てられていることも、それと同様に解釈せよ。
《中略》
譬喩論師は「貪・瞋等もすなわち意業である」と(の解釈に)執着している。「どのような義によって、それ〈貪・瞋・痴〉を釈して業道と云うのであろう」と、まさに彼ら論師に問いたい。そこでまた(彼ら論師に代わって問いに対する答えを)言おう、「それは意業であって、悪趣への道であることから、業道との名が立てられたのだ。あるいは(貪欲に依って瞋恚が生じるなど)互いに相い乗じるのを皆な名づけて業道という」と。

世親『阿毘達磨倶舍論』巻十七 分別業品第四之五(T2, p.551a)

しかし、一切の作為から離れた涅槃という境地に「導くものとしての道」という意味では、『老子』に説かれる道との共通点はあるといえるでしょう。

先に触れたように、一口に「道」などと言っても、インド語ではそもそも原語が異なり、そして支那思想における儒教と道教が同じく口にする「道」という語も、その意味するところは種々様々で時に交錯しています。実はその昔、儒者たちは自身らが奉じる「古聖の教え〈いわゆる儒教〉」を道教とも称していました。しかし、やがて支那で老子・荘子が生じると、それを信奉する彼らも(儒教に対抗して)自らの思想を道教と言うようになっています。そこでいつしか道教なる言葉は、そんな老荘思想と神仙思想とが習合したものをいうところなっていったのでした。

その同時期、これは紀元前後ということになりますが、仏教が支那に伝来すると、仏教もまた仏道であるとか道法であるとか言うようになっています。仏教はそもそも印度にて印度語における「道」という語、表現を使っていたのです。

そこで支那において、そのような三教いずれか、あるいはその全てを奉じた彼らが口々に云った「道」が等しい意味、同じ文脈で用いられていたかというと、そういう場合もありはしますが、だいたい異なっています。

それがまた、そのような古代支那思想の影響を多分に受けた日本においてとなると、「道」とは何を意味したものか時代が進むほどさらに混沌とした様相を呈するようになっています。近世、日本の儒者の間にて、特には朱子学とそれに対抗して日本で生じた古学(古学・古義学・古文辞学)の優れた諸学者により、「道とは何か」について激烈な論戦が交わされています。そして、それがまた仏教者や国学の学者らに強い影響を与えたのでした。

現代、もはやそのような知的闘争は鳴りを潜め、そもそも「道」とは何かを探求する者などほとんど絶えてなくなっています。けれども、いまだ巷間「道」という言葉があちこち当たり前に用いられています。しかし、その実それが一体いかなるものか、どのような意味合いで自他が用いているかを意識し疑問に思い、あるいは探求する者は実に稀です。そのほとんど皆は、ただなんとなくその具体的に意味するところなどわかりもせず、知りもせず、自ら意図もせずして漠然と口にしているにすぎません。

けれども、その文脈や術語において、しかも非常に頻繁に用いられる「道」とあるのを等閑視せず、その語にいかなる意味が意図されているかを考えることは極めて重要です。しかし、大抵の場合、それは意識的・無意識的に関わらず重層的・多義的に用いられており、それを正確に見分け、自ら明確にして語ることは容易いことではありません。

そこであらためて、十善業道という場合の道は、人として、いや、意識あるものの(苦海からいくからでも逃れる)ありかたとして、その行いの指針・道程です。その距離がたとえ一キロであれ一万キロであれ、それを踏み外さない限り、道を歩むこと、歩んでいることには違いない。そして仮に踏み外したとして、この道はまたすぐ戻ることも出来るものです。十善とはそのようなものです。

十善を指針とし、目指すべき到達点として、たとえ完全ではなくとも、しばしば挫折しようとも、十善を我が内に実現しようと勤める。十悪なる行為を犯さぬように努める。それは、健康であり、巧みな、正しいもの。仏教の目指す悟りへの初門であり、道程であり、やがて達せられるべきもの。そして、涅槃に達した者にとってそれは、ついに乗り越えられるもの、超越せられるものです。なんとなれば、仏道において目指されるのは涅槃、nirvāṇa(ニルヴァーナ)すなわち「消えて滅びた(状態)」、「吹き消されたもの」であるためです。それはもはや善悪など超越したものです。

先に述べたように、十善とはあくまで十悪なる行為の否定でもって消極的に示されたものであるのですが、涅槃を目指す仏教において、それはむしろ必然であるといえるでしょう。

十善 ―人となる道

画像:慈雲尊者飲光説戒図

人とはなんでしょうか。生物の種類として、生物学の分類上はヒトであったとしても、それだけで「人」とは普通言いません。巷間、「人とは思われない」・「犬畜生にももとる」・「人非人(にんぴにん)」・「人でなし」などなど、人に対して人でないとする表現は、いまそのうちの幾つかは放送禁止用語などといった、多くの場合その根拠と理由不明の言葉狩りによる規制で、むしろ害悪とすら思われる配慮によって使われなくなっているかもしれませんが、様々にあります。

実際、人は何の教育もされず、何も自制することなく、何の規制も受けずに生きれば動物並み、いや、動物以下の行為を平然としてするものです。人は生まれ育つ中で、家族や社会から何事かを教え諭され、みずから学び、そして自ら教え示していく、その関係の中でこそ人たり得ます。

もっとも、たといどれだけ高度な教育を受け、どれほど上流の社会で生まれ育ったとしても、人は時として「人とは思われない」行いを、それはむしろ皮肉なことに人だからこそ行うわけですが、眉毛一本も動かさず、あるいは嬉々としてすることがあります。

人らしさとは、人に特有、ということであるしょう。ならば、動物も同じく所有するところの感情に左右され行動するのは、「人らしいこと」とは言えません。「人らしさ」とは、(たとえそこに矛盾があろうとなかろうと)なにか理論によって整理された思想を持ち、そしてそれに基づいて行動することです。その内容がいかに残虐な冷徹なものであろうと、あるいは崇高であろうと、それは関係ありません。

一般には情が豊かであること、その起伏の大きいことを「人らしい」・「人間らしさ」などといいます。しかし、これは犬猫や牛馬はもちろん、そこらのごく小さな小鳥や魚であっても実は言えることで、多くの動物もまた同じく情が豊かにあって人に同じです。人は人中心の見方のみして当然のごとくしており、実は動物でも、たとえ小さな鳥や魚ですら豊かな情を持っていることに気づかず、そもそも気づこうともしてはいないだけです。

したがって、人らしさと言うに情の有無・多寡など関係ありません。

ならば智慧の高くあること、知性や教養が豊かなであるいことが人らしさか。それも違う。そもそも世間、いや、世界は想像を絶するほど無知・無教養であり、またなんの知性も智慧も有しない者が、むしろ大多数を締めているのではないかと思うほど多くあります。そこで逆に、ある種の動物のほうが、ある種の人よりその智慧が優れているのではないかと思われることすらある。確かに人という種が有する知性はその他動物と比せば優れているとは確かに言えますが、しかし、一般に高い教養と知性を具えた者であっても、先に述べたように、とても「人とは思われない」ことを為して平然とする者があります。そこで知性や教養の有無、高低は人らしさに直結するものではありません。

では仏教が説く人らしさの基準とは何か。それは実は「恥を知ること」です。より詳しく言えば、慚愧の念を有しているかどうかにかかります。

そしてまた、その人として生まれるには、過去世において十善をどれほど実現したかどうかにかかる、ともいわれます。日本の近世、江戸後期の京都大阪を中心に活動した聖僧、慈雲(じうん)尊者の言葉を借りて言えば、十善とは「人となる道」です。

人となる道。この人と共に云フべし。このみちを全クして天命にも達すべく。佛道にも入ルべきなり。十善あり。世間出世間におし通じて大明燈となる。十善とは身三口四意三なり。不殺生。不偸盗。不邪淫。これを身の三善業と云フ。不妄語。不綺語。不惡口。不両舌。これを口の四善業と云フ。不貪欲。不瞋恚。不邪見。これを意の三善業と云フ。此ノ中傳戒相承の義あり。上品の護持は天上および輪王の德なり。中品の護持は萬國諸王の位なり。下品の護持は人中豪貴の果報なり。もしは分受もしは護持闕失あるは。小臣民庶の等級なり。小人の富榮長壽なる。王公の短命なる。或は多病なる。或は貧にくるしむ等。みな準じ知ルべし。餘經のなかに。殺生の一戒をたもてば四天王處に生ず。殺盗の二戒を持テば。三十三天に生ずる等の文あれども。今家は如上の義を傳フるなり。世善相應のなかも。此ノ德むなしからず。若シ眞正にこの道による者は。諸佛菩薩も自己心中より現じ。一切法門もその身にそなはるなり。若シこれに背ケば十惡業を成じて人たる道をうしなふ。梵網經の中。慇懃丁寧に呵したまふところなり。
人となる道。この人と共に云おう。この道を全くしてこそ天命にも達すべく、仏道にも入るであろう。十善があって、世間・出世間におし通じた大明灯となる。十善とは、身三・口四・意三である。不殺生・不偸盗・不邪淫、これを身の三善業と云う。不妄語・不綺語・不悪口・不両舌、これを口の四善業と云う。不貪欲・不瞋恚・不邪見、これを意の三善業と云う。この中には、(私慈雲が)伝戒相承した義がある。(十善を護持し、実現した者の中で、)上品(じょうぼん)の護持は天上および転輪聖王(てんりんじょうおう)の徳となる。中品(ちゅうぼん)の護持は万国における諸王の位となる。下品(げぼん)の護持は人社会における豪貴(ごうき)の果報となる。もしくは分受(ぶんじゅ)、もしくは護持しても闕失(けっしつ)あるのは、小臣・庶民の等級となる。小人であって富栄え、長壽なる者、王公であって短命なる者、あるいは多病なる者。あるいは貧しさに苦しむ等、みな準じて知るがよい。ある経典の中に、「殺生の一戒をたもったならば四天王の処に転生する。殺生・偸盗の二戒を持てば三十三天に生ずる」等の文があるけれども、今家(こんけ)〈慈雲が相承した法流・法系〉では如上(にょじょう)の義を伝える。世善相応の中であっても、この徳が虚しいことはない。もし真正にこの道に依る者は、諸仏菩薩も自己の心中より現れ、一切の法門もその身に備わる。もしこれに背けば十悪の業を成して「人たる道」を失う。『梵網経』の中にて慇懃(いんぎん)丁寧(ていねい)に呵(か)されているところである。

慈雲『人となる道』(『慈雲尊者全集』, vol.13, pp.21-22)

慈雲が著した『人となる道』とは、それ以前、特に宮中の女官らのため十善を詳細に説き示していた法語が書き留められ、後に一冊の書として編纂された『十善法語』を再治し、より簡潔で超宗派的なものとしたものです。

そこで『人となる道』元となった『十善法語』の冒頭は、以下のような書き出しによって始まります。

師云く。人の人たる道は。此ノ十善に在ルじゃ。人たる道を全くして。賢聖の地位にも到るべく。高く仏果をも期すべきと云フことじや。經の中に。此ノ道を失へば。鳥獸にも異ならず。木頭にも異ならずと有ルじや。阿含經。正法念處經。婆沙論。成實論等。大般若經。梵網經。瑜伽論。智度論等。諸の大小乘經論の通説じや。人たる道と云フは。諸の三藏學者。文字の輩は。淺きことに思ふべけれども。さうではない。華嚴十地品中離垢地の法門には。此ノ十善が直に菩薩の戒波羅蜜の行じや。大日經方便學處品には。此ノ十善が直に眞言行菩薩の學處じや
且く差別せば。十善を世間戒と云ヒ。沙彌比丘戒等を出世間戒と云ヒ。菩薩戒を在家出家の通戒と云フ。若シ要を取て言はゞ。世間戒も出世間戒も。聲聞戒も菩薩戒も。此ノ十善戒を根本とするじや。初心なる者は。世間戒と聞ては少分なることゝ思ひ。聲聞戒と聞ては盡さぬことゝ思ひ。菩薩戒と聞ては高く尊きと思ふ。それは名に著する迷と云フものじや。此ノ十善戒は甚深なること。廣大なることじゃ
此ノ十善に反するを十惡と云フ。本業瓔珞經の中に。理に順じて心を起すを善と云ヒ。乖背するを惡と名づくとある。此ノ經文に依て善惡の義を知れ。諸戒に推通じて親しき文じや。憶念するに隨て妙味あるべきじや』
《中略》
此ノ人有て此ノ道有る。今新に構造することではない。人々具足。物々自爾。法として如是じや。唯迷ふ者が迷ふ。知らぬ者が知らぬばかりじや』
師は云われた。
「人の人たる道とは、この十善にある。人たる道を全くしたならば、賢聖(けんじょう)の地位にも到るべく、高くは仏果をも期すべきということである。経の中に、「この道を失ったならば鳥獣にも異ならず、木頭(もくず)にも異ならない」とある。『阿含経(あごんきょう)』・『正法念処経(しょうぼうねんじょきょう)』・『婆沙論(ばしゃろん)』・『成実論(じょうじつろん)』等、『大般若経(だいはんにゃきょう)』・『梵網経(ぼんもうきょう)』・『瑜伽論(ゆがろん)』・『智度論(ちどろん)』等、諸々の大小乗経論の通説である。人たる道と云うのは、諸々の三蔵学者、文字(もんじ)の輩(やから)などは(十善をして)浅いことだと思うであろうけれども、そうではない。『華厳経(けごんきょう)』十地品(じっちぼん)の中における離垢地(りくじ)の法門では、この十善が直(じき)に菩薩の戒波羅蜜の行とされる。『大日経(だいにちきょう)』方便学処品(ほうべんがくしょぼん)では、この十善が直(じき)に真言行菩薩の学処である。
今仮にこれを差別(しゃべつ)分別(ふんべつ)したならば、十善を世間戒(せけんかい)と云い、沙弥・比丘戒等を出世間戒(しゅっせけんかい)と云い、菩薩戒を在家・出家の通戒(つうかい)と云う。もし要を取って言ったならば、世間戒も出世間戒も、声聞戒も菩薩戒も、この十善戒を根本とする〈『大智度論』に依拠した言であろう〉。(仏道に接して間もない)初心の者は、世間戒と聞いたならば少分なることと思い、声聞戒(しょうもんかい)と聞いたならば尽くさぬことと思い、菩薩戒(ぼさつかい)と聞いては高く尊いと思う。それは名目に拘泥(こうでい)した迷い云うものである。この十善戒とは甚深であり、広大なことである。
この十善に反するのを十悪と云う。『本業瓔珞経(ほんごうようりゃくきょう)』の中に、「理に順じて心を起こすことを善と云い、違背(いはい)することを悪という」とある。この経文に依って善悪の義を知れ。諸々の戒におし通じて親しき文である。憶念するにしたがって妙味ある(言葉となる)であろう。
《中略》
この人というものが有って、この道が有る。今、新たに構造されたものではない。人々に具わり、物々が自らそうであるように、法としてこの通りである。(この理について)ただ迷う者が迷い、知らぬ者が知らぬばかりである。

慈雲『十善法語』巻第一(『慈雲尊者全集』, vol.11, pp.3-5)

河内野中寺(やちゅうじ)を総本山とする律宗(りっしゅう)青龍派一門の出身であり、後にはいかなる宗旨宗派をも離れた正法律宗(しょうぼうりっしゅう)、すなわち直に「仏教(=正法律)」をこそ宗として一門を構えた慈雲による『十善法語』および『人となる道』。それは、むしろその死後に出版されて世人によく知られるようになり、明治維新を迎えた日本仏教に広く、そして大きな影響を与えたものです。

(慈雲については別項「慈雲尊者」および「正法律とはなにか ―慈雲『根本僧制』」を参照のこと。)

最後の侍の一人というべき大傑物、山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)は、そんな慈雲をして「日本の小釈迦」と称賛しています。しかし、極めて遺憾ながら、慈雲とその言葉、そしてその目指した処を知る者は今や世に決して多くありません。

実際、明治維新以降ともなると、それまで不可欠の教養として読まれていた漢籍の知識は次第に失われていき、律宗や真言宗よりもむしろ禅家の人々に非常に評価されよく読まれたようでありますが、『十善法語』にて引用される種々様々の漢籍からの引用によって言わんとされていることの理解もおぼつかなくなり、その価値の大なることは認められつつも難解な書であると時代が進むごとに認知されていったようです。

けれども、そのような日本近世随一の大徳、慈雲がそのような書を遺していなかったとしても、また、それをどういったかなども関せず、またその人の信仰の有無や思想信条がどうであれ、十善とは人として理想とし、また努めて踏み行うべき道であることに変わりありません。

激烈な思想闘争が展開され、それぞれその舌鋒を磨きあった近世の多様な社会において、慈雲が仏教者として世に示さんとした十善とは、いうまでもなくそれは仏陀の教えに淵源するものであり、仏典の依拠したものです。とはいえ、しかし、それは仏教の範疇に留まらず万国におし通じ、また世間・出世間におし通じ、古今東西におし通じた人の道、いや、人と人との違いをも超えた徳です。

相似比丘慧照