冒頭述べたように、十善は諸経典のなかでほとんど戒などと云われず、ただ十善あるいは十善道、十善業道として説かれます。そこでこれを十善戒ということと、十善道あるいは十善業道ということに何か違い、あるいは問題はあるか。
そもそも、別項「戒律という言葉」または「戒とは何か」にて戒について少しばかり詳しく述べたように、戒の原語は[S] śīla([P] sīla)であり、その原意は「習慣」や「習性」・「癖」であって、転じて「良い習慣」・「道徳」の意として用いられる語です。ならばそこで、この「良い習慣(習性)」・「道徳」という原語の意味によって漢語の戒という語を用いるならば、十善を十善戒といって何ら問題ありません。しかしながら、これを一般に戒と聞いたならば想起されるであろう「してはならないこと」いわゆる「禁則」として理解したならば、それには問題があります。
なぜならば、まず誰であれ心(精神)の行動を規定し、禁則によって縛り付けることなど出来ないためです。心の動きとは恐ろしいまでに早く、刹那的・瞬間的なものであり、また突発的・衝動的であって、例えば瞋恚や情欲など、その発生自体を制したくとも命じて制することなど出来はしません。その心情の発生した後に、その強まることを抑えたり、その心情に基づく行動や発言、そしてその思いを強くすることを抑制することは出来ても、そのものの発生を制し、禁じることは普通出来ないのです。
したがって、その意味での戒とは、あくまで身体と言葉においてのみ定め得るものです。心中に何らか悪しき精神活動が生じたとしても、それを動機として身体あるいは言葉の具体的行為として現実になすことは、制しようとすれば制することが出来るためです。
尸羅秦言性善好行善道不自放逸。是名尸羅。或受戒行善或不受戒行善。皆名尸羅。
尸羅〈[S] śīla〉秦では「性善」というとは、好んで善道を行い、みずから放逸でないこと。それを尸羅と謂う。あるいは戒を受けて善を行い、あるいは戒を受けずとも善を行うのもすべて尸羅と謂う。
龍樹『大智度論』巻十三 尸羅波羅蜜義第二十一(T25, p.153b)
たいていの場合見過ごされますが、この『大智度論』の一節においてよくよく注意すべき点、それは「尸羅」と「戒」とが使い分けられていることです。
漢訳仏典において[S] śīla / [P] sīlaの音写が「尸羅」であり、それに当てられた訳語が「戒」であるならば、それらは本来、ただ言語が異なるだけであって意味は同じであり強いて使い分ける必要などありません。しかし、ここでは明らかに「尸羅」と「戒」とは使い分けられています。その意図は、尸羅という場合はその原意通りの「善い習慣」・「道徳」、いわば理想的状態を意味し、戒といっている場合はその道徳を実現するための学処([S] śikṣāpada)、あるいは律儀([S] saṃvara)を示すものとして、両者を峻別することにあるのでしょう。
「好んで善道を行い、みずから放逸 でないこと」、それは徳が自らに備わって、特に意識せずとも自ずから善行を行い、怠ることのない姿であって、まさにśīla(尸羅)の表出です。例えるならば、孔子が晩年、その生涯を振り返って語った言葉にある一節にあるあり方がそれです。もちろん彼の意図した徳と仏教が意味した徳に差異はあろうこととはいえ、まさしく本来の意味での「尸羅」を備えた姿です。
子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。
子曰く、吾れ十有五にして学を志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従って矩を踰えず。
先生〈孔子〉は云われた、「私は十五歳となって学問を志し、三十歳となって自立した。四十歳となって惑わぬようになり、五十歳となって天命を知った。六十歳となって(人々の発する言葉に)耳が順う〈その言葉の真偽・表裏を見抜いて動じないこと〉ようになり、七十歳となって(自ら)思うままに振る舞っても矩〈道徳〉を踰えることがなくなった」と。
『論語』為政第二
人によってその生まれ持った徳性は甚だ異なり、またその出自や生い立ちによっても若い頃に育み得た徳というものが大きくことなるでしょう。それがどういうことかを卑近な例を挙げて言うならば、日本人として一般に「あたりまえのこと」と思われ、特に意識されずとも行われている諸々の日常の行為、周囲への配慮や慎みなどは、世界では「あたりまえのこと」では決してないようものです。しかし、日本人にはそれを自然と、意図せず行う者が多くあります。
そこでしかし、孔子、古来儒教における聖人と崇められた人の言葉を俎上にのぼせたならば、その最晩年の七十にしてようやく達した境地になど凡庸な者には到底及べるものではない、などと思われるかもしれません。けれども、決して「及べない」ことでも「絵空事」でも、それはない。それは現実に、たといそれが日本人全員が備えているものではないにしろ、その美徳として考えられている諸々の行為をごく自然に、当たり前に行う人が現実にあることをもって、その証としえるでしょう。
けれども、十善として挙げられる諸々の徳を十全に備えるためには、その徳を我が身に備えるためには、やはり必ずその行動指針や行動規定として諸々の学処を要します。また、我が身を治すためそれを日々弛まず、忘れず、怠ることなく行い続けなければならない。時に亡失し、また情や欲に流され、悔いる行いをなしたとしても。
そして、そのようなあり方を、いまだ強いて意識してではあっても、ここで鳩摩羅什が学処の意として用いている「戒」を自ら行おうとする姿勢、志向もまた同じくśīla(尸羅)、すなわち善なる習慣・性質であり、徳であるわけです。
(そもそも、繰り返し強調しておきますが、先に示したように十善の原語にはいわゆる戒にあたるśīlaが用いられていません。)
『大智度論』の訳者とされる鳩摩羅什は、すでに定着して久しい「śīlaに対する戒という訳」に対し、そのような旧来の理解が不正確なものであると、ここで一種の反意を示しているとも見ることが出来ます。鳩摩羅什はśīla(尸羅)を「性善」すなわち「性質が善なること・状態」と、その原意の通りに註しています。といって、『大智度論』がその全編に渡ってそのような使い分け、峻別が厳密に行われているかと言えば必ずしもそうでないのですが、この一節を読む時、特に注意すべきこととなっています。
なお、『大智度論』において、十善とは仏陀によって説かれたあらゆる戒を総摂したものであるとされますが、それを説いた一節の中に、禁則という意味における戒とは、あくまで身体と言葉の行い、すなわち身業・口業におけるものであると云われていることに注意しなければなりません。
問曰。尸羅波羅蜜則總一切戒法。譬如大海總攝衆流。所謂不飮酒。不過中食。不杖加衆生等。是事十善中不攝。何以但説十善。答曰。佛總相説六波羅蜜。十善爲總相戒。別相有無量戒。不飮酒不過中食入不貪中。杖不加衆生等入不瞋中。餘道隨義相從。戒名身業口業。七善道所攝。十善道及初後。如發心欲殺。是時作方便。惡口鞭打繋縛斫刺乃至垂死皆屬於初。死後剥皮食噉割截歡喜皆名後。奪命是本體。此三事和合總名殺不善道。以是故知。説十善道則攝一切戒。
問:尸羅波羅蜜〈śīla-pāramitā〉とは則ち一切戒法を総摂したものである。譬えば大海が衆流〈諸々の河川〉を総摂するものであるように。(しかしながら、)いわゆる不飲酒・不過中食〈正午を過ぎて食を摂らないこと〉・不杖加衆生〈生き物を暴行しないこと〉等(の在家・出家の律儀)は、それらが十善の中に摂せられていない。どうしてただ十善のみが説かれるのか。
答:仏は総相として六波羅蜜〈布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧〉を説かれ、十善を総相戒とされた。その別相としては無量の戒がある。不飲酒・不過中食は(十善のうちの)「不貪」の中に入り、杖不加衆生等は「不瞋」の中に入る、他の道もまたその義に随って相い従う。戒とは身業・口業に名づける。七善道の所摂である。(しかしながら、)十善道とは「初」と「後」とに及ぶものである。(それはいかなることかと言えば、ある者が)心を発して(生き物を)殺そうと思ったとしよう。その時、(その者は様々な)手段によって、(殺さんとする者に対して)粗暴な言葉を発し、鞭打ち、繋縛し、斫って刺し、ついに死に至らしめたならば、それらはすべて「初」に属する。そして(その者が)死んで後、皮を剥いで食噉らい、(その死骸を)割いて截つなどして歓喜したならば、それらをすべて「後」という。(生けるものの)命を奪うこと、それが(殺生の)本体〈本質〉である。これら(初・本体・後の)三事を和合したのを総じて「殺不善道」という。このようなことから知るであろう、十善道を説いて、(それが)すなわち一切戒を総摂したものであることが。
龍樹『大智度論』巻四十六 摩訶衍品第十八(T25, p.395b)
龍樹の言に従えば、十善とは一切戒を総摂したもの。それを逆から言ったならば、仏所説の諸々の禁則としての戒、いわゆる律儀や学処とは、十悪を止めて十善という理想的状態、すなわち真の意味での「道徳」、「善なる性質」・「良き習慣」を我が身に備えるための諸々の方便である、とすることが出来ます。
人はその日常の行為に悪を内包し生きています。そしてその社会は、ある側面から見た場合には、十悪を前提とし、それを不可欠の要素として機能しています。
前述したように、十善とは十悪に対するものであって、それらを意識的に行わないことを正しく、善なることとするものです。人は放っておけば、意識的無意識的を問わず十悪をなすものです。そこで十善とは、「何もしないことは善である」との意味では決してありません。人であれ何であれ、意識ある生命として存在している以上、何らの業(行為)も作さずにあるということは決して不可能です。そしてその行為とは、その生命のそれぞれあり方(趣・界)に応じて減じられはしますが、必ず身・口・意いずれかに摂せられるものです。
(ただし、無色界にある者には身業・口業はない。)
そこで十善とは、人が日々諸々の活動をしていく中で、自他に苦しみをもたらす因となる悪を行わないこと、自他に安楽をもたらす行為をなすことを善とするものです。
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
諸々の悪を作すこと莫く、衆々の善を奉行し、自ら其の心を浄める。是れ諸仏の教なり。
瞿曇僧伽提婆訳『増一阿含経』巻一 序品第一(T2, p.551a)
十善業道とは何か、あらためてその原語を踏まえて言ったならば、十善とは十の不悪なる行為を(積極的に)作さぬ道(patha)です。仏教の肝要、その梗概を端的に顕すものとされてきた上掲の偈文、いわゆる「七仏通戒偈」にある「善」とは何かを総摂したものでもあります。